第93話 山からおりてすること
『あら、元気そうね。』
涼子が退院して、仕事に復帰した数日後に、作家の今井美帆にランチに誘われた。
『夕貴、元気にしてる?』
『はい。』
『もう、一緒に住んでるんでしょ?』
『ええ、私が退院したときに、一旦自宅マンションに帰ろうとしたのに、
すっかり母と仲良くなっちゃって、そのまま居着いちゃいました。』
『さすが、夕貴。元ホストだけある。』
『彼は料理が得意なので、母は大助かりなんです。』
『・・・私も食べてみたいわ。今度ごちそうしてね。』
『それは、もちろんですわ。是非来てください。』
『それより・・娘さんは家出したきり戻らないらしいわね。』
それまでにこやかに料理を口に運んでいた涼子の手が止まった。
『・・・ええ、祖母である母には家の住所を連絡してはくれてるけど、
私とは口もきいてくれないんです。』
それまでの幸せな妊婦の顔が、母親の顔になった。
美帆は取りなすように言う。
『仕方ないわ、パーフェクトはあり得ないもの。世の中欲張るときりがないわ。
それに・・』
『それに・・?』
『あなたが今更、いい母親づらしても、気持ち悪いわよ。』
『ヘッ?そうですかね?』
『そうよ、人はそう簡単に変わるもんじゃないし・・娘さんで失敗したことは
今度産まれる赤ちゃんには、少しは母親らしい事してあげればすむ事よ。』
『そうか・・真央とのことは時が解決してくれると信じるしかないかも。』
涼子のそんな気持ちを察した美帆は話を変える。少し自嘲気味に言う
『ああ、山から下りてくると、やはり下界は刺激に満ちて新鮮よね。』
義母が亡くなったのを機に、夫である神部と暮らし始めた美帆。
神部は山荘に住み、広大な自家農園を作っているのだ。
新鮮な野菜、澄んだ水、庭に蛍、満天の星
農作業の合間に執筆活動も務め、神部自身は充実した余生を過ごしていると
自負していたが、美帆には何とも退屈な日々。
それで週末はまた一人、都会の仕事場で過ごすようになった。
娑婆の開放感からか、取材で知り合った男性との火遊びを繰り返していた。
山里では、老年にさしかかる夫が、その命の残り火を燃やすかのように
執拗に美帆を求めるが、美帆自身も30代後半の女盛りを、老練な夫だけで
終わるのはいやだと軽く思っていた頃に、一人の男に出会った。
相手は大学生の沢田。
猫のような愛らしさとしなやかな身体で、美帆を虜にする。
そして時に狡猾な嘘をつく沢田に美帆は魅せられていた
でもある日、泊まったホテルで、服からバック貴重品を一切を持ち去られてしまう。
『罰があたったのよね・・』
『それで、どうしたんですか?』
『神部に全て話して、迎えに来てもらった・・』
『神部先生、許してくれたんですか?』
『ええ・・作家が良妻賢母なんて気持ち悪いだろって・・でも、
もう心の自由は無くなった気がするわ・・仕方ないけどね。』
しかし神部は不貞をした妻を許しても、相手の沢田を許したわけではない。
その後人知れず、沢田を始末したことまで、美帆は知らなかった。