第57話 幸せすぎて怖い
今井美帆の娘は、瑠美と名付けられた。
『寝ないで考えたのに、この程度の名前しか思いつかないもんね。』
退院してから久々カメラの前で微笑む美帆は美しかった。
母になれた喜びに満ちあふれている。
『先生、ノーギャラでもだらけちゃダメですよ!』
『えぇ?そんな事言ったっけ?』
『もう、夕ちゃんが証人ですよ。』
『ウフフ。さりげなく、あなたのろけるわね。』
今井の笑顔がいつにもまして妖艶だった。
そしてインタビューは、出産前に執筆した小説の話題になる。
題名は『瑠璃色の恋』、今井にとって改心の作、濃密な恋の話と話す。
ただその作品を書くにあたりずいぶん悩んだそうだ。
『作家としては、出産は微妙です。ずいぶん悩みました。
もう恋愛物が書けなくなるんじゃないか?って思うと寂しい。
たとえば、子供に乳を与えながら、切ない恋が書けるか?
とつい思っちゃう。その反面、今度は子供を虐待してしまうとか、
溺愛してしまう母親も書けるかなとも思っちゃう。今も自問自答の毎日です。』
ただ、出産が女の終末とは思いたくないと今井は言う。
『それには、あまり満ち足りるとダメかな~??人間、幸せすぎると
怠惰になるもんだと思うわ。』
夫の神部は、年老いた母親と暮らし、今井とは週末だけ一緒に過ごして
いると聞く。
『子供が生まれたから、夜泣きして、義母さんに迷惑かけても悪いでしょ。』
と今井は話すが、それだけだろうか?と涼子は思う。
子供が生まれて、年の離れた理解ある夫に甘え、
可愛い娘に溺れる日々を送りたくないと
考えているのかもしれない。
作家としての感性が鈍るのではないかと不安なのかもしれない。
作風を変えるのは簡単だが、もっと人間の深淵を覗きたいとも
欲が出る。
今井から、これからが葛藤の日々が始まるとの強い意志が感じられた。
『涼子さん、話は変わるけど、夕ちゃん、賞取ったんだってね。』
『ええ、地方の短編小説の賞ですけど、2位だったみたい。』
『まあ、初めてで準は健闘してるわよ。でも、これからどんどん
タイトル取って、表舞台に躍り出て欲しいわ。』
今井は、夕貴との合作を夢に描いている風だった。
(江國と辻のように・・・)と。
その日を涼子も願いながら、心の奥底では恐れている。
夕貴が世に出て、成長した真央と再会したら・・藤本のように心変わりして
しまうのでは・・・と。
(幸せすぎると怖い)
それは涼子も同じだった。