第43話 スィート・ペイン
『涼子さん。』
『キャッ!あなた、しゃべるのね?』
今まで黙っていた夕貴に声をかけられ、涼子は飛び上がるほど驚く。
記憶と共に失語症かと思っていたのだ。
『やだな。しゃべるさ、美帆がいると独壇場で、口をはさむすきがないもん。』
今井は乾杯して、ワインを一口口にしたら、そそくさと帰って行った。
まるで涼子と夕貴を二人きりにする為のように。
でも、涼子は何を話してよいかわからずにいる。
それは、夕貴も同じようだ。
『美帆が言った事、少し誇張がある。』
『え?なに?』
『涼子さんのこと、名前しか覚えてない。』
『えええ?』
(何だ…)
『ごめん…。』
夕貴はためらうような顔をして話す。
『君に聞きたい。記憶を無くす前の僕達って、付き合ってたの?』
真剣な眼差し、涼子はわけもなく目をそらす。
『…それは正確でない。』
『?』
『あなたは、北海道から帰って来たら、私に話したい事があるって言ってたわ。
…私達、まだ始まってなかったの。』
涼子は背を向けて言う。
胸がドキドキする。
『…ねえ?』
夕貴に腕を掴まれた。
『君を抱きしめてもいい?』
『ええ、どうぞ。』
振り向いて、涼子は手を広げた。
我ながら滑稽だ。
もう高校生の娘がいるのに・・・胸がドキドキする。
夕貴はおおいかぶさるようにして、涼子を抱きしめる。
『いい匂いがする。柔らかいんだね。』
『バカね・・何か思い出した?』
『ううん、でも・・何かわかる気がする。』
『なにを?』
『涼子さんを好きだったってこと・・・。』
知らずに、涼子は涙ぐんでいた。
(私たち、なんて遠回りしてきたんだろう)と。
『ねえ、俺たち、今から始まるんだね。』
『そう、今井先生と私で、あなたを世に出す極秘プロジェクト始まる~よ。』
『やだな、美帆の大風呂敷さ。』
『いえ、それは違う!』
涼子は、夕貴の手をふりほどき、きっぱり言う。
『決めたわ、あなたを世に出す助けをする。』
『ありがとう・・オレ、君たちの期待に応えるよう、がんばる。』
涼子をじっとみつめる夕貴に、涼子は一つ言葉を飲み込んだ。
(娘の真央があなたに会いたがっていたわ・・)
そうだ、真央はきっと喜ぶに違いないのに・・言えなかった。
母親の涼子から見ても、眩しいくらい美しく成長した真央。
その真央を異性として見てしまうと言った藤本の姿がだぶる。
涼子は、夕貴を失いたくないと心底思った。
(ダメ・・・言えない。ごめんね、真央。)
涼子は、その胸の痛みに耐えるしかなかった。