前編
今日は久しぶりに、彼女とデートだ。
空は青空で、高層ビルに囲まれた都会の昼間は、賑やかで心も弾む。学校もバイトも休みだった僕は、鼻歌交じりに、隣を歩いている彼女を見た。彼女はいつ見ても美しい女性だ。モデルみたいにスタイルが良くて、笑うと頬に笑窪ができるところもとてもチャーミングである。
そんな彼女と二人で、こうやって街中を散歩するのはとても気分が良かった。僕は、彼女と手を繋いで一歩リードするように歩く。彼女は、そんな僕に何も言わずに黙ってついてきてくれた。振り向くと、彼女の優しい微笑みがそこにあった。
もちろん彼女の良いところは、外見だけじゃない。その内面もまさに僕好みで、彼女は他の誰よりも気が利く女性だったのである。
「痛っ」
デートの最中、僕はずっと彼女に見惚れていたせいで、前方確認を怠り、うっかり街路樹にぶつかってしまった。ぶつけただけならまだ良かったけれど、僕はその拍子に派手に転んでしまった。まるで漫画の世界である。僕は恥ずかしさを紛らわすために笑おうとしたけれど、そのとき自分の右手がズキンと痛んだことに気づく。見ると、たいした怪我ではなかったけれど、手から少し血が出ていた。
彼女は、慌てて僕の顔を覗き込んだ。僕の手から血が出ていたことに気づくと、彼女は「大丈夫?」と心配そうに声をかけてくれた。そして彼女は、自分のバッグから絆創膏を一つとり出すと、それを僕の右手に優しく貼ってくれた。僕は「ありがとう」とお礼を言う。彼女は両頬に笑窪をつくって微笑みかけてくれた。
それから三十分が経過すると、突然、空から雨が降ってきた。
僕が見た天気予報では、今日の降水確率は低いって言っていたのに、雨は、さっきまでの青空が嘘だったみたいに勢いを増していった。
僕は舌打ちをした。今日は傘を持ってこなかったのだ。
僕たち二人は、今からピクニックをするために近くの公園へ向かっている途中だった。だけどこの雨じゃ、予定が台無しだ。
僕は歩きながら空を憎んだ。彼女も残念そうに顔を俯けている。それでも彼女は、こんなときでも僕に気を遣うことを忘れなかった。
彼女は、自分のバッグの中をゴソゴソと探ると、そこから何かをとり出した。それは、折り畳み傘だった。彼女はこんなときのために、いつも折り畳み傘を持ち歩いているらしい。それも、彼女が持ち歩いていた傘は、一つじゃなかった。バッグの中には、折り畳み傘が二つも入っていたのである。つまりそれは、彼女の自分用の傘と、僕の分の傘である。
「あ! でも、あなたが相合い傘をしたいって言うなら、私、一つだけ折り畳み傘をしまうけど?」
彼女が突然そう言うので、僕は驚いて横を見た。
目が合った彼女は微笑みながら、続けてこう言った。
「あ、でも相合い傘をするには、この折り畳み傘は小さすぎるわね。でも、大丈夫。こんなときのために、私、駅のコインロッカーに相合い傘用の大きめの傘を預けてあるの。それなら雨に濡れる心配もなく、相合い傘できるわよ?」
僕は彼女の話を聞きながら、口を半開きにさせていた。そこまで彼女が気を遣う人だとは思わなかったのだ。
そんな僕の反応に、彼女は笑顔でスルーした。「今から駅まで戻ってとりに行く? 時間かかるけど」と彼女は訊いてきたけれど、僕は、そこまで気を遣わせたら申し訳ないと思い、首を横に振っておいた。
そして、彼女から一つ折り畳み傘を貸してもらった。
僕たちはピクニックに行く予定を中止して、雨に濡れてもデートが楽しめるようにと、映画館へ足を運ぶことにした。
映画館に入り、僕はポケットから財布をとり出しながら、チケット売り場へと向かう。
すると彼女は突然、僕の腕をつかんだ。振り向いた僕の顔の前に、何かがあった。よく見てみるとそれは、二枚の映画のチケットだった。
「チケット買わなくても大丈夫よ。ほら、私もうすでにチケットを二枚持っているから。私ね、こんなときのためにって、事前にチケットをネットで購入してあったの。もちろん、あなたが前々から観たいって言っていた映画のチケットよ」
ここでも気が利いた彼女は、僕に向かってにっこりと微笑んだ。僕は面食らいながらも、彼女からチケットを一枚もらっていた。その映画はちょうど今から上映がはじまるようだ。だから僕たちは、時間を待つことなく映画を観ることができた。
映画館のスクリーンに流れていた作品は、感動的な場面が多かった。僕はそれを夢中になって観ていた。そのうち感情移入してしまったのか、僕の目から涙が溢れてきた。
彼女は、そんな僕の様子にいち早く気づく。隣の座席にいた彼女は、すぐに自分のバッグからハンカチをとり出すと、無言でそれを僕に渡してきた。僕はありがたくハンカチを受けとって、それで涙をふいた。
映画館を出ると、近くの喫茶店へ足を運んだ。そこで僕たちは、さっき観たばかりの映画の感想を言い合う。それが映画を観終わった僕たちの習慣だった。
だけど、ここで問題が起きた。彼女と、さっき観た映画に対する意見が合わなかったのだ。僕は今まで観てきた映画の中で一番好きな作品だと思えたのに、彼女は「期待していたよりも面白くなかった」と答えたのだ。
その一言でカチンときてしまった僕は、つい口調や態度が悪くなってしまった。どうやらそれが、彼女の方にも伝わってしまったらしい。彼女は、僕の顔を見ると小さく溜め息を吐く。だけどその溜め息が、余計に僕の苛立ちを悪化させることになった。
僕は貧乏ゆすりをしながら腕を組んだ。とりあえず冷静になろうと、テーブルの上にあったコップを手にとって水を飲もうとする。だけど僕は、上手くつかめずコップを倒してしまい、テーブルの上に水をこぼしてしまった。
僕はそれでますます不機嫌になった。彼女も、少し怒っているようだ。眉間に皺を寄せて僕に文句を言ってくる。だけど、そんなときでも気が利く彼女は、僕がこぼした水を丁寧におしぼりでふいていた。
その様子を見て僕は、ついに苛立ちを我慢することができなくなった。あんなに好きだった彼女も、今はもう愛する自信が持てなくなってきているのを感じた。そういえば彼女のよく気を遣ってくれるところも、何だか僕には気が重く感じてくる。付き合った当初はそこが良くて、彼女を選んだのに。交際してしばらくすれば、それが鬱陶しく感じてくる。
もっと気持ちを楽にして過ごしていたい。僕はいつのまにか彼女への不満が溢れていた。もしかしたらそれは、普段の学校やバイトなどのストレスが溜まっていたせいもあるのかもしれない。僕は、その全ての苛立ちを、何も悪くない彼女へとぶつけてしまった。
「もう別れよう。やっぱり僕たち、気が合わないよ」
次に僕の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
彼女は、一瞬だけ驚いたような表情を見せたけれど、すぐに顔を俯けて「わかったわ」と小さく答えていた。
僕は喫茶店を出ようと、伝票を持って席を立つ。すると彼女が、僕を呼び止めた。そして、彼女はこう言った。
「最後に一つだけ言わせてちょうだい。私たちが別れることには了承したわ。でもね、私一つだけ心配なことがあるの。それは、あなたのことよ。あなたは私がいないと何もできないような人だから、一人になったときが心配なの。それにあなたって極度のさみしがりやだしね。だからね、私、こんなこともあろうかと、事前にあなたにピッタリ合うような彼女候補の女性を探しておいたの。それで昨日、ちょうどあなたにピッタリの女性が見つかったのよ! その女性をね、私、今日ここに連れてきたから、ねぇ、ちょっと今、その人と会ってみてくれない? きっと似合うはずだわ」
僕は、彼女の話を聞いて腰を抜かしそうになった。まさか、彼女がそこまで僕のことを気にしてくれているなんて思っていなかったのだ。
彼女は満足そうに話し終えると、自分の携帯電話をとり出して、どこかへ電話をかけていた。その数秒後に、喫茶店の入り口のドアが開く。そこから現れたのは、メガネがとても似合っている一人の綺麗な女性だった。
「このメガネがとても似合う綺麗な女性が、あなたの次の彼女候補よ。どう?」
彼女が、僕にそう言った。
僕はその切り替えの良さに呆気にとられながらも、彼女が連れてきた新しい彼女候補を見た。
「アカリです、よろしく」
メガネの奥で三日月型に目を細めたその女性は、まさに僕好みの人物だった。モデルみたいにスタイルが良くて、優しそうな雰囲気に包まれている女性である。
「じゃ、後はお二人でごゆっくり。私はもう帰るから」
数分前まで僕の彼女だった人は、そう言い残して去っていった。その手にはちゃんと伝票が握られていたことに、僕は後になって気づくのである。そのときの僕は、目の前に立っているメガネが似合う女性に見惚れていて、時間が経つのも忘れていたのだった。