Affogato~移ろわざる日々
明滅する灯りが二人の影を不安定に揺らめかせる夜道で、羽澄はコートのポケットの中に誘い込んだ恋人、久世の右手が徐々に熱を帯びていくのを感じていた。まだ秋だというのに久世の手は真冬の風を浴びたかのように冷えていて、思わず引き入れたのだ。無抵抗に、されるがままで隣を歩く久世の表情は硬い。
羽澄が捨て身の告白をし、実を結んでから約一年。久世は細々と続けてきたカフェを畳む決意をし、元々客の来なかった店の香しい珈琲と手製のバニラアイスは、名実共に羽澄のためだけに作られることとなった。
今日が、久世の店の最後の日。
「春佳さん」
閉店を示すプレートが下がったチョコレート色の扉の前で、羽澄が久世の名をそっと紡ぐ。久世が応答の代わりに沈黙を返すのはいつものことで、羽澄がそれを是と捉えて口を開くのもいつものことだ。
「本当にいいの? お父さんから継いだお店なのに……」
羽澄の言葉を背中で受け止め、久世は今日で役目を終えるプレートを手に顔を上げ、羽澄を見つめた。
「もう決めたことだ」
一言そう答えると、久世はドアベルの音と共に店内へ体を滑り込ませた。羽澄もそのあとを追い、ゆっくり閉じていく扉のか細い声を聞きながら店の奥へと進む。従業員用出入り口を抜けて階段を上り、居住スペースの扉を開けると、あの日から何度も通ったシンプルな部屋が出迎えた。一年経っても物が増えることはなく、難易度の高い間違い探しのような不変がそこにある。
まるで部屋の主をそのまま表しているかのようだと羽澄は思った。
「座ってろ」
「うん……」
喫茶店にあるものと同じ器具で珈琲を淹れる後ろ姿をぼんやりと眺める。その視界が僅かに水気を帯びたのを感じ、羽澄は慌てて袖口で拭い平静を装った。
「いつもので良かっただろ」
「ありがとう、春佳さん」
白い陶器の器に半円形のバニラアイスが一つ。傍らにはエスプレッソ。金色の繊細なデザートスプーンを手にアフォガートを一口含んだ刹那、涙が頬を転がり落ちた。
「……っ、ごめん、なさい……」
突然泣き出した羽澄を見、久世は僅かに瞠目すると広い背中を撫でた。吃逆を耐えているかのような嗚咽を漏らしながら何度もごめんなさいと繰り返す羽澄に、久世はただ気分が落ち着くのを待つしか出来ずにいた。
やがて嗚咽が収まり、深く息を吐いたのを最後に、羽澄は溶けかけのアフォガートを静かに食べ始めた。
羽澄が店の常連になってから満面の笑み以外の表情で食べるのを初めて見た久世は、食べ終わるのを見計らって「実生」と一言、やわらかい淡い色の髪を撫でながら優しく促した。
「……ちょっと、寂しくなっちゃっただけだよ。僕、春佳さんのお店が大好きだから」
目元に赤く泣き腫らした痕を残しながら笑う羽澄の、少し掠れた甘い声が久世の胸に染みていく。久世はずっと、父の頃とは違い、仮に閉店したとしても誰にも惜しまれることなどないだろうと思っていた。その思いは羽澄と出会ってからも変わらず、恋人になってからは更にその思いが強くなっていた。彼の好きなアフォガートなら、自宅でも作れる。店である必要はないと、そう思っていた。
「このお店がなかったら、僕は春佳さんにも出会えなかったし、こうして心が安らげる場所を得ることもなかった。ずっとずっと、春佳さんもお店も変わらないと思ってた。僕はカウンターに立つ春佳さんの姿も大好きだったから……」
相変わらず、羽澄は好意をストレートに表現する。それを受け止める久世の表情が、僅かにやわらかい。
「そうか」
「うん……」
「まあ、店は畳むが」
「……うん」
「ここを潰すわけじゃない」
「え……?」
目を丸くする羽澄の頭を撫で、不器用に微笑んで見せる。
「ごっこ遊びになっても構わなければ、また下で珈琲を淹れてやる」
その言葉を聞いた羽澄のほうけた表情が一拍の間を置いてくしゃりと歪み、今度こそ抑えようのない涙となってあふれ出した。