聖女との再会
四月一日。桜の花が咲いていた。
聖バシレイオス学院の方々に咲いた桜の華は、入学者を祝福するかのように春の風にあおられ降り注いでいる。
少年は、外の喧騒を感じると、目を開け、屋上からその姿を見下ろした。高等部の始業式が終わったらしい。
皆、新しい季節を煩わしがりながらも、学友との再会を喜ばずには居られない。
大半の人間は、笑顔だ。
少年は、屋上から生徒の姿を見ながら、安全用のフェンスを握りしめ眉間に皺を寄せた。
「ゴミ共が……」
おそらく誰にも聞こえては居なかったであろうが、ホールから出てくる生徒の徒党に向かって吐き捨てる。その少年の名前は、望月進太郎といった。
「進太郎!」
不意に後ろから声がした。見ると、一人の少女が屋上のドアを開けはなち、こちらに近づいてきていた。
「始業式。サボりやがったな」
乱暴な言葉遣いだ。少女は、栗色の短い髪を春風に棚引かせ、制服のスカートのポケットに手を突っ込んでその少年、進太郎を見上げた。少女は息が上がっている。
「始業式なんて大したことはしないさ、お前も寝ながら話を聞いてたんだろう」
「うん、昨日は経験値二倍だったんで、こりゃあ寝ないでレアドロするまで回るしかないなあと……いや、そうじゃないんだ」
考えなおしたかのように言いよどむと、少し真剣な目を進太郎に向けた。
「学校……来てないんじゃないかと思ってさ……その……」
少女は真っ直ぐに進太郎を見据えたと思ったが、すぐに視線を落としてまた言いよどんでしまう。
進太郎は、その姿を見て少し微笑み、少女の肩を手で軽く叩くと、屋上の出口に向かって歩き出した。
「凛、戻ろうか。皆が教室に戻っているうちに、どさくさに紛れてな」
「あ、うん……」
その微笑みにとりあえず従って、少女は進太郎の後を歩き始めた。少女の名前は葵凛華と言い。進太郎には短く「凛」と呼ばれている。
進太郎は屋上を降りる階段に向かって歩きだした。その後ろを、凛は早歩きでついていく。少し歩いた後、進太郎は立ち止まり凛に話しかけた。
「凛、始業式にな……」
「なに?」
「先輩の……玲愛の話はされていたか?」
凛は、少しの間答えることができなかった。しばらく考えたのち、はっきりと、簡潔に返答する。
「うん、聞きたい?」
「聞き飽きたさ」
そのまま、振り返らずに進太郎は歩いて屋上を降りていった。凛は歩幅の違う進太郎に置いていかれないように、早歩きで付いていく。このように、葵凛華は望月進太郎の傍をついて回る存在として、生徒間では認識されている。
そのことから、望月進太郎と葵凛華とはしばしば男女の仲を疑われるが、凛はかつて進太郎から一番近いところにいた存在を知っている。そして、彼女が居なくなったからといって、自分がそこに座れる資格があるとも思えなかったし、その気も起きなかった。
二人が在学している聖バシレイオス学園はキリスト教系の私立学校で、小学校、中学校、高校が存在する小中高一貫校だ。
名前の由来はキリスト教神学者で聖人と称される、聖バシレイオスから採られた。その威光を知らしめるかのように学校の敷地中央には、右手を挙げるバシレイオスの像が荘厳に銅の台座に佇んでいる。
敷地面積は約40万平方メートル。世界最小の国家であるバチカン市国が44万平方メートルであるから、その広さは都市一個分にも匹敵する。敷地内には最大で1800人を収容できるホール。バシレイオスを含む三大聖者が描かれたステンドグラスが自慢の大聖堂などがあり。施設だけでも教育機関ではなかなか見られない品揃えだ。
施設はそれだけではなく、校舎は小等部、中等部、高等部合わせて6個。体育館は3個。売店や事務室、部室などを合わせると、建物は18棟にも及ぶ。他にもグラウンドが5個。敷地外に野球場まで持っている。極めて大規模な教育機関だ。
在学者数は4529名。そのうち1702名が小等部の生徒で、1231名が中等部、そして残りの1596名が高等部の生徒だ。
聖バシレイオスが神学者ということもあり、学園では神学の学習が盛んだ。中等部から神学科というものが設けられ、中等部および高等部の生徒人数の中では5割を占める。
その特性からか将来聖職者や宗教研究科などを志す人間、それも日本の中でも二つとない大規模な神学学校であるから、海外からも留学生が数多く集まってきている。校内では度々髪の色や、皮膚の色が違う人間に出会えるのだが、それもこの学校の特異性をよく表しているといえるだろう。
中等部および高等部の生徒で神学科に所属していない生徒のうち、2割をスポーツ科の生徒が、残りの3割を普通科の生徒が占めている。
バシレイオス学園はスポーツの戦績も有名だ。校内の1区画では、全国優勝旗、トロフィー、盾などが集められ、人に威圧感すら与える。それらの業績の数々は、スポーツ科の生徒がもたらしたものだ。
スポーツ科の生徒は、スカウトとスポーツ推薦によって集まった生徒たちで構成されており、今ではスカウトなどで多様な競技に対応できる人材が集められ、高校スポーツ業界の強豪の名をほしいままにしている。
バシレイオス学園開校から10年の後、サッカー部が全国優勝を収めた。その功績から、学校にサッカーの優秀な生徒がこぞって編入してくるようになった。それに対して学園は、スポーツ推薦の制度を導入。能力のある生徒が自分からバシレイオスに入り、学園の名声を高める体制を整えた。
そのような努力の甲斐あって、バシレイオス学園の名声は留まることを知らず、有名な大学やなどが推薦枠を数多く送ってきた。学校の規模の繁栄と振興はもう誰の目にも明らかであったが、それが奢りを生んだ。
奢りは生徒たちの野心を増大させ、有名校からの推薦枠を巡って他人を失脚させるなどの手段が横行した。賄賂献金などの手段で推薦枠を奪い取ると、その事実を武器に他人を失脚させる。
また権力闘争の末に、手段として暴力を行使する生徒が出てきた。利権漁りと権力闘争が横行する学園では、生徒の風紀維持能力が低下し、また自制心も失われつつあった。
学園全体のモラルは低下の一途を辿った。やがて、未成年の喫煙、飲酒、援助交際、それらの違法な取引が蔓延した。それが、聖バシレイオス学園の裏の姿だ。その姿を知るものは少ない。
学園の裏の姿を知り、数多くの人間が策謀をめぐらすようになった。むしろその学園の姿が生徒の策謀を助長する環境となっていた。自分の未来を確固たるものにするため、他人の未来を食いつぶす環境。まさにバシレイオスは毒の温床であった。
望月進太郎は普通科の2年。バシレイオス学園の裏の顔を知る一人だった。
望月進太郎は跳ねた黒髪と、猫背が特徴の高校生だ。跳ねた髪は癖毛というより、寝癖を直さずそのまま連れてきたかのようで、姿勢の悪さは恣意的な思惑を疑わせる。視線が鋭く、生まれついて三白眼なので、人に対して威圧感を与えてしまう。風貌だけ見ても人からは訝しがられ、また危険視もされている。
その上で性格は独善的な人物として知られている。他人とすすんで係わろうとせず、興味のないことにはサボタージュを決め込んだ。そのうえ珍しく会話の機会が訪れると、高圧的な態度をとることが多々あった。
彼の趣味も災いした。1年の頃はアニメ研究会に所属し、サブカルチャー的なデザインで描かれた書籍、いわゆるラノベを数多く持ち込んでいる。隠そうともしないその趣味はクラス全員に知れ渡り、進太郎は忌避される存在だ。
聖バシレイオス学園では彼のような存在、いわゆるオタクの地位は著しく低い。神学の色が強い学園では、厳粛な空気が流れる。厳粛な空気の中では、サブカルチャーの空気は「気持ち悪いもの」として嫌厭されてしまうのだ。しかしその嫌厭されている文化でも、これだけ生徒数が居れば、その文化を愛好する人間は少なくなかった。
かつてこの学校にも、「アニメ研究愛好会」という名の部活が存在し、進太郎を始めとする生徒が8人、日夜部活動に励んでいた。その部活の存在は、オタク文化を愛好する人間にとっての防波堤のような存在だったが、それも進太郎が2年に進級する段階で廃部措置がとられた。理由は生徒会によると活動実績の不足ということだったが、現実は違う。
原因は、部長の飛鳥井玲愛の部室での自殺事件だろう。その事実は誰の目から見ても明らかであったが、その忌まわしい事件のことを早く忘れたいかのように、部は廃部となり部員も四散していった。
進太郎には忘れられなかった。自分の恋人であった飛鳥井玲愛という存在。高校生らしいささやかな付き合いではあったが、確かに自分を好きでいたあの少女のことを。
葵凛華は癖のついた茶髪と小柄な体が特徴で、進太郎と同じクラスの友人だ。進太郎とは頭一つ分ほどの身長の差があり、髪は染めた茶髪というより、黒髪から色素が薄められたような色をしていた。
彼女もまた進太郎の同じ程度の強烈な猫背であり、猫背で進太郎の後をついて回る姿は、周囲の注目を少なからず集めている。
しかし彼女もまた性格は閉鎖的というか、攻撃的な性格をしていたため、進太郎と同じ忌避される存在だった。歯に衣着せぬ物言いをし、人を最初から疑ってかかる難しい性格をしているため、およそ協調性も社交性も彼女には見られない。
この二人がどうして交友関係にあるのか。それは誰も知らなかった。二人が集団から受け入れられなかった末、あまり者同士でくっついていると、人々は諦め顔で噂する。
またあと一人、進太郎と凛の交友の輪に加わっている人物が居るのだが、その人物は入学式に姿を見せていない。進太郎の周りではサボタージュなど珍しいことでは無かった。進太郎を取り巻く友好の輪は、品行方正などという言葉などとはほど遠い。
二人は歩いて、入学式に参列したのち教室へと戻る生徒の波に紛れ込んだ。教室に戻る間、凛は進太郎に頻りに話しかけた。出来るだけいつもと変わらないよう努めつつ、明るく、親しげに。
「それで次の出現率アップがね、即死持ちのヤツで……あ、これクソゲー始まったわと。素殴りするゲームじゃなかったんですね、運営さん! ってみんな騒いでるよ」
「そのクソゲーに課金しているお前もお前だけどな」
「いや、6桁課金してから初心者だから、あたしなんかカスだよカス」
恐ろしいことを楽しげに言う女である。
凛が話しているのは、今流行りゲームで、手持ちのスマートフォンでできる手軽さが人気の、いわゆるソーシャルゲームというやつだ。課金要素があるRPGであり、ガチャで強く、可愛いキャラを出すことができる。
「俺は次の出現率アップを待つかな……これまでの傾向的に高耐久キャラがそろそろ来るはずだろう」
「え? あたしが引いたんだよ? 進太郎が引かないのおかしくない? 私が引いて進太郎が引かないのはおかしいよねえぇぇぇ……!」
凛は邪悪な笑みで課金アイテムを放出させようとしてくる。進太郎が不安になったのは、こいつは自分に対する配慮をする気があるのか、という点だった。
葵凛華もオタク趣味を愛好する一人であり、どちらかというとビデオゲームやソーシャルゲームなどに入れ込んでいる。そして、進太郎の数少ない友人の一人だった。それ故かどうかはわからないが、その力の入れようにはすさまじいものがあった。
「ねぇー爆死してよー……あたし進太郎の爆死見るために学校来てんだよー……一か月ガチャを我慢したのにSレアさえ引けない爆死見せてよー」
「あだッ! やめろバカッ!」
何かわけのわからないことを呟きながら、ふくらはぎの辺りに軽いローキックを入れてくる。歩いている周りの人間が、迷惑そうに遠ざかった。
「わかった! 教室で座ったら引くから!」
「じゃあついたら神殿付き合ってよ、属性強いからなぁーしんたろーはぁ」
「離せ気持ち悪い!」
凛は歩きながら、進太郎に体をもたれかからせた。ゲームの協力プレイを求めているが、凛のゲーム進行度からして自分が必要とは思えない。おそらくこれが凛なりの配慮なのだろうと進太郎は思った。やや、というかかなり方法と態度に問題があったが。進太郎は凛を引きずるように歩いて、ドアが開け放たれた教室に凛とともに入った。
入った瞬間、いくつかの視線が二人の体に刺さる。その視線を感じ凛も進太郎の体を離れた。二人が自分の席に向かうにつれ、その妙な気配は消え視線の主は代わりに無関係を装うように大仰な立ち話を始めた。その話の中に、進太郎は「玲愛」という名前を聞き取る。仕方のないことだ。進太郎は思う。
現代の高校生において、死というのは非常に遠い存在だ。その死を、同じ学校の生徒が、しかも一応は自殺という片づけられ方がしたものの、玲愛の死は突然の不審死なのだ。話題にならないほうがおかしい。
その話題の人物「玲愛」と極めて近い位置にいた男が、同じクラスにいるのだ。多少の興味を引くのは仕方のないことだろう。しかし進太郎の悪名が、彼らの好奇心を委縮させてしまったというところか。
進太郎は心の中で自嘲気味に笑いつつ、窓際の隅にある自分の席に座った。手持ちのスマートフォンを取り出し、ゲームを起動させる。始業式の後であるから教師が来るには時間があったし、凛は進太郎の向かいの席に座り、スマートフォンを手に準備万端という構えだ。他人の椅子なのに足を組んで座っている。進太郎は目の前の友人から逃れられないことを悟り、あきらめたように通信協力プレイを始めるのだった。
「え? 1000ダメも出ないの? ザコかな? ザコおる? 役割が持てないメンバーはゴミっていわれてんだよなぁー……火力でないなら後方からデバフつけるんだよ、ホラ早く! ああー……またスキル使ってない! 初心者かな? 前にユーザーページ見たらプレイしてから144日って書いてあったんだけどこれはどういうことなんですかね」
凛と協力プレイすること10分。わずか10分で進太郎の心は深く傷ついていった。凛の歯に衣着せぬ物言いとはこのことで、特に煽りがひどい。名前と合わせて仇名が「煽りん」といい、ひそかに進太郎はそう呼んでいる。声を大にして呼ぶと凛が怒り狂うため、心の中に留めてはいるが。
「席につけ! 新学期だからってボケてないで、ホームルーム始めるぞ!」
そのうち、担任の島田が教室の前方から入ってきた。もう老人といっていいほどのベテラン教師で、無駄に声が大きいのを直そうともしないから声は教室全体に響き渡り、耳を塞がなければならない。また、口を大きく開けるため唾が飛ぶ。教室前方の生徒たちは声量と合わせて辟易しなければならない。ベテランであるはずなのに、指摘してくれる人は居なかったのか。
「島田か、何時にもまして気合が入っていやがる。進太郎、今日はここまでにしておいてやるよ」
凛は不満げな顔を隠そうともせず、通信を切断したのち手を振って進太郎の机から去っていった。進太郎は凛に一言も反論する隙を与えられなかった。
ただ言われたいことを言われたいだけ言われて、春休みを挟んだ友人との触れ合いは終わった。進太郎は、友人の意図を図りかね、ただ唖然としていることしか出来なかった。
「憎まれ口を叩きたいのはこっちだっての……。」
進太郎は大きな溜息をつくと、少しでも暑苦しい担任の顔を見ないように、顔を窓の外に向けた。こういうとき窓際の隅の席は便利だ。自分の周りを飛び交う視線に、気付かないふりができる。
自分が忌避される存在であることはわかっていた。だから自分がこの席に来たのかもしれない。前年度からのクラス替えがないこの学級では、席も前年度からの持ちこしだ。その席もくじ引きで決められている以上。ありえないことではあったが、今の進太郎には、この世に宗教で語られているところの神が居るとして、自分を相応しいところに導いているのだと思えた。
玲愛が死んだとされてから、進太郎の性格の狷介さはひどくなるばかりで、独善的で閉鎖的な性格に、自己破滅的な自嘲癖と嫌悪心は追加され一層ひどくなっていた。
進太郎は自分自身の張れない感情について考えないようつとめ、なかば投げやり気味に目を閉じた。始業式の日から軽く授業は始まるのだが、二年生始めの授業などどうせたいしたものでは無いし、聞いても今の心情では理解などできないのだから。
「進太郎……貴方に迷惑をかけてしまうかもしれない」
「今更いうことじゃないだろ」
「そうじゃないの!そう……進太郎はわかってない……」
「玲愛、お前が何を言いたいのか、俺にはわからない。この学校で部活をやるには、あまりに軋轢が多すぎる。そういう軋轢と、俺たちはここまで戦ってきたじゃないか。いまさら怖気づいたってのか?」
「私一人ならいい、でも……進太郎が……進太郎に迷惑がかかっちゃうって……」
「俺も同じだ」
「え?」
「玲愛一人に迷惑を押し付けるほど、甲斐性がないわけじゃない」
「…………フッ…………クククク……」
「何が可笑しい?」
「自分で言っていて恥ずかしくならない? 進太郎、かっこいい人みたいで……フフフ…普段はそんなことないのに時々そういうのぶっこんでくるからなぁ……ゴメン……ちょ、もう無理! アハハハハハハ!」
「そこまで笑わなくても……」
「ゴメン……ゴメン……」
「とにかく、俺は最後まで付き合うからな。玲愛が迷惑をかける以上に、俺が迷惑をかけてやる。俺が居る迷惑さに比べたら、どんなことでもたいしたことないさ」
「進太郎を迷惑に思ったことなんて、一度もないよ」
「ホントかよ」
「進太郎」
「なに」
「人と接すると、因縁がつくんだって。来世まで残って、人を結び付けてくれるんだって」
「えっなにそれ」
「進太郎」
「だからなんだよ」
「因縁……つけてよ」
「…………どういう意味だ?」
玲愛からの返答は与えられず、後のことは進太郎自身でもうまく回顧することができない。
何を焦っていたのか。何に脅えていたのか。今になって進太郎は思う。思えば不安定な少女だった。普段は明るいが、心を許したもののみに深い暗闇のような表情を覗かせる。極端な二面性があり、時々別人のようにも思えた。飛鳥井玲愛とはそういう少女なのだと、結論付けてしまえば納得もできたし、疑う理由もなかった。
今思い返してみれば、疑うべきであったのかもしれない。
「いい根性してるよ、新春学校一発目からガン寝を決め込むとはね」
肩をすくめた凛が進太郎の目の前に立っていた。しばらくして、自分が夢を見ていたことを悟った進太郎は、できるだけ平静を装うことにした。
「その割には誰も起こしてくれなかったんだな」
「ま、ね。もうあきらめられてんじゃない? コイツ留年ーってさ」
「新春一発目から決めてくれるなら、一年間学校休んでも構わんな」
「それ、本気でいってんの?」
凛の目に、一欠けらほどであったが焦りの感情が生まれた。
「いや、冗談だよね。それより、目やにをふけ。ばっちい」
凛に言われてハッとしたように、進太郎は制服の袖で目を拭った。濡れあとが袖について広がっていく。
「今何時間目だ?」
「もう学校は終わりだよ! 今日は四時間目でおわりって知ってるでしょ」
「そうだったか?」
「早く帰り支度しなよ、今日くらいは一緒に帰れるんでしょ?」
「……ああ、暇になっちまったからな」
進太郎はあきらめたように帰り支度を始めた。
授業の後は大体の人間が部活動に勤しむことになる。かつては進太郎もその一人だったが、部活動それ自体がなくなってしまえば、部活動は勿論できない。
なくなったものはなくなったものと割り切って、新しい部活を探すなりすればよいし、殆どの人間はそうするであろう。進太郎も同じように、そうわりきってしまえば心の整理もつくというものだが、人が一人死んでしまった今、その喪失感は心の整理では埋められそうもない。
進太郎は行き場を失った感情を抱えつつ、とりあえずは凛の言葉に従うほかなかった。凛との帰路の途中、辺りを見回すと陸上部が気合を入れるため号令ととともにグラウンドを走り回り、吹奏楽部が談笑とともに個人練習に励んでいる。
「どこいく? ゲーセン? メシ? どこでもいいぞー」
そんな進太郎の胸中を知ってか知らずか、凛はポケットに手を突っ込みながら早歩きで進太郎の前を行った。後姿をみるだけでもどことなく肩が揺れており、楽しそうに歩いている。気楽なものだ、進太郎は聞こえないように溜息をついた。
「ケンジのやつは誘わなくていいのか?」
二人の乏しい交友能力でも、一人だけそのほかに友人と呼べる人物が存在した。進太郎と凛とは違うクラスで、一人だけのけものにされているという錯覚を抱いている。忌避されている生徒と友人関係を結べる段階で、普遍的な性格をしているとは勿論言い難い奴ではあるが、誘わない理由はない。
「アイツは停学。聞いてなかった?」
「初日だぞ?」
信じられないというふうに、質問を質問で返したが、凛からはそれ以上のことを聞けなかった。凛も詳しい話を聞いていなかったし、停学になったのだから学校に来ていないとしか説明のしようがなかった。それにしても初日から停学で学校に来ていないということは、春休み中に問題を起こして処罰を受けたということだ。にわかには信じがたい話ではあるが。
「だから今日はあたしと二人きり」
凛は柄にもないことを言ってにやと笑うと、また進太郎を早歩きで導き始めた。進太郎としてはこのまま導かれなくてもよかったのだが、他に行くところもない。暇になってしまった。まさに口にした言葉の通りだ。それに凛を一人で歩かせると、いつもの煽りが飛んでくる。
進太郎と凛は法学的には同じ方向に自宅があり、そこから電車に乗り通学している。バシレイオスは大規模な学校なので学生寮もついてはいる、だが自宅がありながら寮に入る理由はない。
飛鳥井玲愛は学生寮に住んでいたので、学校の前で別れることになっていた。だから玲愛と帰るときは学校から駅に帰る途上に進太郎は一人になったのだが、凛と帰るときは同じ電車に乗って帰るので、二人の時間が多い。
進太郎の自宅から学校までは六駅あり、凛の自宅から学校までは七駅だ。その途中には様々な建物があり、ゲームセンターによって帰るもよし、軽く食事をして帰るもよい。高校生らしい放課後のあり方をするためには、途中下車することが一番都合がよかった。
玲愛はそういう遊びになれていなかったし、帰路の関係上そういったことをすることもなかった。そういう意味では凛と帰ることには、少しの楽しみがある。
二人は、学校から数えて四番目の駅を降りた。駅前が軽い商店街のようになっている駅で、凛と二人で帰るときは大体ここで降りることになる。
ここは二人のホームグラウンドといえるほど通い詰めている商店街であり、顔見知りも多い。またここではゲームセンターなどで時を費やせる。
駅前のゲームセンターはオルティア駅前店といい、大きなゲームセンターとは言えないが、最新のゲームから流行りが過ぎ去ってしまった昔のゲームまで、多種多様なゲームができる。進太郎は凛に引っ張られるようにここを訪れた。
「いやーやっぱり昇竜だったね! しんたろーやさしいからなー……昇竜スカってんのにボッ立ちは優しい。ナメプかな? ナメプでしょ? ねっ! どんな気持ち? どんな気持ち?」
語りかける凛に対して、進太郎は俯いたまま薄ら笑いを浮かべることしか出来なかった。ゲームセンターに入ってから二時間が経過し、進太郎の心は敗北を思い出した。
音楽ゲームでも格闘ゲームでも、多くのゲームを凛とやってきたが、勝てた記憶が進太郎にはあまり思い出せない。つまり凛が進太郎を散々に負かしているのだ。時々進太郎は思う。こいつは何が面白いのだろうと。
「いやー! きもちいいー!」
凛は無抵抗な人間をいたぶって楽しむタイプのようである。残虐なやつだ。そう心の中で毒づいても、凛は嬉しそうな顔を崩さない。上機嫌だ。恐らく口に出してみても結果は変わらないであろう。
「お? 見て進太郎。惣菜屋のアイドルが頑張ってるよ」
「ああ、あいつか……」
凛が指差した先には、一軒の惣菜屋があり、一人の少女が高い声を遠くにまで通らせて接客をしている。その声があまりに響くので、周りの客は立ち止まって手を振ったり、挨拶をしたりしている。やがて、カメラを手に記念撮影を申し込む男性客も現れた。
彼女の名前は栗崎美憂といって、聖バシレイオス学園二年の生徒だ。凛の顔見知りで、放課後商店街の惣菜屋「桝田」でバイトをしていることが多い。これも高校生らしい過ごし方といえば過ごし方だろう。
赤みがかった髪を後ろにまとめ、少女らしい華奢な体ではあるが、凹凸はついている肉付きのいい少女だった。八重歯が特徴的な割に声がとても大きく、よく響き、口をあけて話したり笑ったりするので尚のことその特徴が際立つ。また、元気で気立てがよく差別意識というものがないので、皆から好かれる。進太郎とは正反対といっていい。
美少女といって遜色ない見た目で、しかもこの通る大声で接客を行うため、商店街では人気だ。その人気はバシレイオス学園周囲一体で有名だ。近頃では「惣菜屋のアイドル」などと呼ばれ、遠くから見に来たり、記念撮影を希望するものが現れている。
「美人すぎる惣菜屋、栗崎美憂」
「商店街の星、写真撮影は受け付けております」
進太郎は惣菜屋の隣に貼られたチラシをみて、肩をすくめる。呼び名が現実味を帯びてきたようである。
「はい、はい。僕、いつもお使いえらいですね! はい、こんにちは、今日もお安くなっております! どうぞお立ち寄りください!」
いつも働いている所為か、誰に対しても敬語を使い、それを上手く扱う。これもまた人気の秘訣なのだろう。
「よーアイドル! 今日も景気がいいね」
「凛さん! 進太郎さん! 今日もお立ち寄りありがとうございます!」
確かに春休みの間は学校に行くことがない。学校帰りによらなければ、栗崎がアルバイトをしている風景には出会えないのだから、もっともな反応だろう。
「あれ、ケンジさんのお姿が見えませんが……どうなさったんですか」
「停学」
適当に凛は言い放った。栗崎もさすがに驚愕したようで、理由を聞いた。そのまま、少女二人で話がはずんでいるようである。進太郎は二人にさせておくほうがよいと思い、商店街の壁に一人寄りかかった。
やがて、凛が「桝田」の店頭に向かって駆け出した。大きく黒い行書体で「桝田」という看板が取り付けられている。いつも思うことだが、店頭に立っているアイドルとは華やかさの面で差がありすぎる。
「望月さん……その……」
栗崎が進太郎に近づき、ためらいながら話しかけてきた。栗崎と進太郎の面識は少ない。自分が凛といつも一緒にいるので、顔と名前を覚えられているくらいだろう。その彼女が話しかけてくるなんて、珍しいことだ。
「あの、ですね……」
「俺より凛を見ていたほうがいいんじゃないか、ヤツならあくどい値引きもやりかねないぞ」
進太郎がそういうと、栗崎は俯いてしまった。もしかして、脅えられているのだろうか。快活な彼女がここまで煮え切らない態度をとっているのだ。進太郎としては、焦りを覚えずにいられない。
「飛鳥井先輩のこと……なんですけど」
「玲愛がどうしたって?」
気を付けなければいけないはずなのに、つい語調が強くなってしまう。触れられないところに触れられてしまった。
「っ……聞きました……ホント、なんて言ったらいいか……」
「お前が何を言ったところで、もはやどうしようもないさ」
「それはそうなのですが……心中お察しします」
「お前は玲愛と面識があったのか、ないだろう? だったら面倒臭いことはやめてくれ、こっちも安い気持ちでわかられたくないからな……」
進太郎が突き放すように言うと、栗崎は悲しそうな顔をした後、深くお辞儀をして凛が居る店頭に向かった。少し強く言いすぎたかもしれない。進太郎は髪を掻きながら後悔するが、玲愛のことを言われて感情的になったのも否めないのだ。だから、少しの謝辞さえも、進太郎は考えることができなかった。
しばらくすると凛は小袋を抱えて戻ってきた。用事は済んだようなので、惣菜屋の桝田を離れると、栗崎がいつもの声でこちらに向かって手を振りながら叫んだ。
「また、いらっしゃってください! 望月さん!」
進太郎と凛は片手を上げると、漫然と歩いて商店街を後にした。
進太郎としてはもう帰ってもよかったのだが、凛がそれを阻んだ。凛はさびれた模型店、屋台のケバブ屋など、さしたる目的もないような感じで進太郎を連れまわった。凛本人が様々なところに行きたがっているというより、進太郎を連れまわすことそれ自体が目的のようだった。
やがて日も傾きかけたころ、二人は公園に来ていた。随分と、電車の駅からは離れてしまっているところにある公園だ。めぼしい遊具もない公園で、二人の他には誰もいない。
無論、進太郎と凛がどれほど暇であってもこんなところによることはほぼない。ただ、進太郎がつかれたので、小休止の為にと立ち寄ったのだ。
凛はあれだけ自分を連れまわしてなお体力を損なわず、ベンチで座る進太郎を尻目に唯一の遊具である滑り台を逆走している。小学生のような奴だ。
「進太郎」
不意に凛が進太郎に声をかけた。滑り台の頂上から見下ろして声をかけている。風でスカートが少々まくれ上がっていたが、角度的に中身は見えなかった。
「今日、たのしかった?」
「さあ、なあ……」
今日のことが、凛なりの配慮だったのだろう。玲愛を失った自分を慰めてやらねばと、自分自身でかんがえて行ったことなのだろう。少し空回りをしているのが、また彼女らしくもあったが。進太郎はそれを悟り、はっきりとした返答ができなかった。
凛にこれほど心配されておきながら、何一つ玲愛の死から前に進めていない自分が情けなく思えたからだ。これまでの自分に対する自己嫌悪感。それが進太郎を卑屈にさせていた。
「惣菜屋のアイドルから、何を言われたの?」
「玲愛のことさ、心中お察ししますとさ……」
栗崎美憂との会話を思い出す。
「どいつもこいつも、玲愛玲愛玲愛ってよ、玲愛は死んじまったんだ。今更何を言われたところで、もう取り返しはつかんさ……」
「進太郎!」
進太郎が俯いているといつの間にか、凛が滑り台の頂上から飛び降りて自分のすぐ前まで来ていた。進太郎は少し驚き、凛の顔を見た。
「言いたいことがあったら、あたしに言っていいよ。多分、このままウジウジしているよりかは、健康的だと思うから」
「言いたいこと……言いたいことか……」
その言葉を聞いた瞬間、進太郎の関が外れたようだった。進太郎はなおのこと俯き、顔色を確認することができなくなった。
「玲愛が死んだ……死んだ? ことだろうな……」
冷静さを欠いているようで、整理されていないような言葉が、順序を無視して進太郎の口から吐きだされた。
「俺自身戸惑っているんだ。でも、クラスの連中が玲愛の噂話をするたびに、認めたくないことを実感させられる。あいつら……人一人死んだからって……なんの接点もない癖に騒ぎたてやがる」
無理もないことだろう。少年や少女からは、あまりにも死という概念は遠い。話題にならないわけはないのだ。それがどれほどの存在であったとしても、死は悪い意味で人の注目を引き付ける。
それが進太郎にはたまらなく辛いことだった。なぜなら彼らは玲愛の死に興味はもてども、なんら感慨を抱くことはないからだ。進太郎には、それが玲愛の死を軽視しているようにしか感じられない。それが耐えがたいのだ。
「死んだってことはないだろう……! まだ17だぞ? 死ぬような年齢じゃない……。まさか、死ぬなんてこと、居なくなっちまうなんて、考えていなかったんだ……」
「ああ、そうだね……」
凛は沈痛な面持ちで進太郎の言葉に耳を傾けた。
「自殺なんて、ありえん話だ。自殺は、バカのすることだから……。玲愛がそんなことやるはずがない……。玲愛は言ったんだ。部活は終わらせないって、な……その責任を放棄して、玲愛が死ぬわけがないんだ!」
「何か残ってなかったの? 遺書とか……」
「葬式には行った。だが入らせてもらえなかったよ、部室も、警察が現場検証とかで……後で見に行ったら、きれいさっぱりだ……皆、玲愛の痕跡を消そうとしやがる。どうなってるんだ……人が一人死んだんだぞ!?」
「進太郎……」
凛は、今だけ自分が玲愛のかわりとして、進太郎の前にいてやりたい気持ちに駆られた。そうすれば目の前の友人の苦しみは収まりはせずとも、楽にしてやれることはできるのかもしれない。しかし、進太郎がそんなことを望むはずがないことも、凛は知っていた。
「憎いんだ……玲愛の死を軽視するやつすべて地獄に叩き込んでやりたい! どいつもこいつも、自分の恋人が殺られても、死に無関心でいられるのか試してやる!」
それきり、嫌な沈黙が二人の間に流れた。凛は話を聞くといったものの、どのような言葉をかけてよいかわからなかった。だからこそ、いつもと変わらない自分を装って、進太郎の悲しみを忘れさせる方法に頼らざるを得なかったのである。
肩を落とした進太郎を見ていられず、凛は目を逸らした。夕暮れ時であり、太陽はもはや欠片しかでていない。薄暗くなり、遠くを見るのが難しくなってきた。
その時、進太郎らの足元に影が伸びてきた。影の主は、よく確認がとれなかったが、突然出現したようにも見える。凛が目を凝らしてみると、一人の少女が立っていた。
「え……な……!」
凛は言葉を詰まらせた。その少女は、栗色の少しクセのついた髪。凛は確かにその少女を知っていた。友人の隣で歩いているのを何回も見たことがある。飛鳥井玲愛。死んだはずの人間だった。
玲愛は、透き通るような白い肌に白いワンピースのようなものを身にまとっており、いかにも生者離れしている。かつて健康的な肌色をしていた頃の飛鳥井玲愛は確認できない。そうすると、今見ているのは幽霊としか思えない。
「……ッ進太郎! 進太郎!」
ハッとしたように凛は進太郎の背中を叩くと、手を掴んで立ち上がらせた。進太郎も凛に只ならぬものを感じ、凛が示した先を見た。おそらく凛以上に驚愕しただろう。
「玲愛……? ウソだろ……」
進太郎はそういったきり動けなくなった。二人の目の前に現れた、飛鳥井玲愛と思わしき人物は、申し訳なさそうに声を発した。辺りは静かだったので、聞き取ることはできたが、消え入りそうな細い声だった。
「進太郎……ごめんね、勝手に……死んで……」
凛は進太郎の左腕に抱きついた。進太郎も体を震わせ、手の甲に冷や汗をかいている。死んだ人間が自分たちの前に現れ、語りかけてくるという超常的な現象に、震えあがっていたのだ。
「ごめんね、貴方に迷惑だけかけて、途中でこんなことになるなんて」
違うんだ。進太郎は否定しようとしたが、言葉どころか体全体が硬直したように動かない。ともすれば呼吸さえも忘れてしまいそうだ。
「教会のことは忘れて、お願い……貴方はもう闘わなくてもいい……これ以上……苦しまなくてもいいから……」
「ふざけるなっ!」
進太郎は叫んだ。それ以上の言葉は出なかったが、進太郎はその言葉を認めるわけにはいかなかったのだ。この言葉を否定しなければ、自分の一年間やってきたこと、そして玲愛に対する好意が、他でもない玲愛自身に否定されてしまうからだ。
玲愛は少し驚き、戸惑ったような様子を見せた。そのまま少し考え、玲愛はとぎれとぎれに進太郎に言った。
「もし進太郎、貴方に全ての責任を押し付けていいのなら……部活を……お願い……立て直してほしいの。私たちの場所を、自由を、取り戻すの……私は、これで終わりだけど、貴方は……まだ……」
「玲愛……? 待ってくれ!」
「この学校は、不自由だ……貴方は自由を持ってる……。素晴らしい人……だと思うから……どうか、お願い……」
その言葉を聞いた瞬間。欠片だけ残っていた太陽が、跡形もなく沈んだ。辺りは暗くなり、玲愛が居たところには人影すら見えない。煙のように消えてしまったのだ。
「玲愛……」
進太郎は後を追おうとしたが、体が思うように動かない。凛も、半ば呆然として、現実として起こったことを信じようとすることしか出来なかった。
玲愛が進太郎に語りかけた言葉、おそらく玲愛の最後の語らいだっただろうあの言葉を、今の段階では二人とも、正しく理解できていない。余裕がないのだ。
この出来事が、いわば進太郎の第一歩だった。部活を立て直して、自由を取り戻して、玲愛は最後にそう言った。この言葉がどのような意味を持つのか。この言葉が進太郎のこれからにどう影響するのか。進太郎にはまだ気づきようもない。