追いついた現実
「――以上、連絡事項終わり。よし、委員長号令!」
「きりーつ、れーい」
「はい、さよならっ!」
簡潔にホームルームを終わらせた民安教諭は号令を合図に一目散に教室を後にする。その去る姿は迅速すぎて訓練された動作のよう、あるいは追われる脱兎のごとくだ。もしあれに擬音をつけるなら「ピューン」あたりが合いそうだ。
「にしても随分気の抜けた号令だったな」
「そんなこと言ってもよー」
率直な感想を述べると気だるげな顔をした稔が溜息を漏らす。
覇気など皆無でやる気のなさがありありと感じられたが、クラスメイトたちは原因を知っているので逆に気遣うような雰囲気を出していた。対して民安教諭は知っているのか、どうでもいいのか、あからさま態度に注意一つしないでホームルームを進行していくので、おそらく後者だったのかもしれない。
「だって原っぱ休み時間になると課題をやれって隣で監視してるんだぜ? 休み時間は休む時間のための時間だろ。信じらんないよな」
「何言ってんのよ。休み時間は次の授業の準備するための時間でしょ。それにそのおかげで提出に間に合ってよかったじゃない」
「そのせいでクタクタだよ……」
そう言って稔はあろうことか俺に雪崩れ込んできた。
「癒してくれ芳久」
「やめろ。俺に癒し効果はないぞ」
「だって原っぱがぁ」
顔を押される稔が怨念のような声を上げる。
ちなみに原っぱというのは原西の愛称だ。原西葉子の「原」と「葉」を合わせたものだと稔が言っていた。さらにいうと稔以外にその愛称を使っている人は今のところ一人もいない。
「白滝くんは咲良を見習いなさいよ。ぐでっとしてないじゃない、ねぇ駒井くん?」
「あー、いや、それはちょっと違うと思うけど」
原西の言葉に俺は苦笑。
その意味を知るには彼女の姿を見れば一目瞭然だった。
「……えっくす………………ワイ……だいにゅう? …………ナニソレオイシイノ?」
「だ、大丈夫なのか木ノ下ちゃん?」
「これは相当参ってるわぁ」
虚ろな瞳で呟く姿はマンガなら煙でも吐き出していてもおかしくない様子だった。
微かに笑みすら浮かべているので怖い。
「で、間に合ったのか?」
「なんとかね」
木ノ下の目の前で手を振る原西を横目で見つつ稔が聞いてくるので、こっちは苦笑いでそう答える。
さすがに原西のようにぴったりとくっついた監視体制は気が散ると思ったので、木ノ下のペースでやらせることにしたのが失敗だったのかもしれない。わからないところを訊くように言ったのだが、うんうん唸るだけでなかなか訊いてこないのだ。その上学力は足りていないということもあって俺から口を挟まないと問題が進んでいかない。それに気づくまで時間がかかってしまったのだ。
「さすがに昼休みまで使わないと厳しかったけど」
「なるほどね」
「借りた分は明日返すよ」
鞄を持ってきていない俺は、弁当はおろか財布など持ってきていない。そのため昼飯など入手する手段などありはしない。だから空腹を耐え忍ぶ覚悟だったのだが、課題を一段落させた稔が奢ってくれたのだ。
「いいっていいって」
「そうはいかない。金の貸し借りは信用だからな」
「難しく考えすぎじゃねーの?」
軽く笑われるが実際にそう思うのだから仕方ない。
それはともかくとして。
「咲良ぁ、もう放課後よー」
「う?」
「あ、起きた」
手をひらひらしていた原西に反応を示した木ノ下がボーっとした顔で視線を彷徨わせる。
そしてその視線が一点――黒板の上にある掛け時計で止まる。
「……うぇ!?」
「どうしたんだ木ノ下ちゃん?」
「じ、じ、じ」
「痔?」
「いや、稔それは多分違うと思う」
「時間っ!」
魂の抜け殻だった状態から一変。
椅子を吹き飛ばすように立ち上がった木ノ下は自分の鞄を掴むと慌てふためく。
「じゃ、それじゃ、私、用事、あるからっ!」
「え、木ノ下ちゃん?」
「そういうことで、バイビッ!」
敬礼を一つ残して駆け出す木ノ下はあっという間に姿を消した。
一体なんだったんだ……?
「駒井くん!」
「な、なんだ?」
出て行ったはずの木ノ下が戻ってきて扉から顔を出す。
「今日はありがとう! この埋め合わせは必ずするから!」
と、今度こそ駆け出して、その足音が遠ざかっていった。
「嵐みたいだぜ、木ノ下ちゃん……」
「そこが咲良の取り柄ともいえる」
見送る二人の背中を見ながら心の中で同意する。
素直で明るく、いつも一生懸命に取り組む姿。
一緒にいると手を引くように周りを笑顔にしてくれるのだ。
「……また見れてよかった」
「芳久、なんか言ったか?」
「いや、何も言ってないぞ」
「そうかぁ?」
首を傾げる稔に口角を上げる。
昔はもっとつっけんどんな態度をとっていた。冷めていた、斜に構えていたというのだろうか。別にその行為に意味なんてものはなく、ただただ苛立っていた気がする。
勉強ができたから?
運動ができたから?
同じ日々の繰り返しだから?
実際はどうなのだろう。
少なくとも過去の記憶で木ノ下に勉強を教えたことはない。
それはきっと俺自身が行動を起こしたからなのだと思う。原西に指示されたというのもあるが、拒否することだってできた。それをしなかったのはおそらく過去にしなかったことを拒否したかったから。
この夢幻の世界で俺は、過去とは違う生活をしていこう。
たとえここが現実じゃないとしても。
そうすれば俺の後悔も薄れていくはずだから。
「ただいま」
この台詞を口にするのは実に年単位ぶりだった。
帰宅した家の中は明かりもなく薄暗かった。
確か高校のときお袋はスーパーで働いていて帰ってくるのは夜だったはず。夢幻の世界でも同じ時間帯で行動しているのならまだ帰ってくるまで時間がある。親父は付き合いで飲み歩く場合があるので何時に帰ってくるかはわからない。
とりあえず俺はネクタイを緩めて水を飲むために台所へと向かう。
コップ一杯に水を溜めて一気飲み。
単なる水道水なのにとてもおいしく感じられた。
それはそうかもしれない。
今日一日体を動かし、頭を動かしていたのだ。
普通の人にとって当たり前のことを俺は長いこと遠ざけて生きてきた。
リハビリには結構ハードだったんじゃないだろうかと思う。それでなくても精神的には驚きで占められていて気疲れの方が大きい。
「でも……楽しかったな」
過ごした一日を振り返って出てくるのは笑みだ。
稔と原西のやりとりや、何事も楽しそうにやる木ノ下。
それらを見ていられるのなら――。
『十分?』
唐突に思考に割り込むような声が聞こえた。
「本当にそれでいいのかい?」
また声が聞こえた。
耳に届く空気の振動とは違う。
頭に直接響いているかのような感覚にあたりを見る。
『くすくす。そっちじゃないよ』
「どこにいる……?」
『キミの部屋で待ってるよ』
それだけ残して声の気配が消え、その代わり俺の部屋がある二階で物音がした。
「俺の部屋だって……?」
不審な気配に表情が険しくなっていくのがわかる。
鞄を忘れたことをお袋は察していたらしく、もしものときはと聞かされていた郵便受けに鍵はあった。無用心な場所だと思ったことはあったが、やはり空き巣には見つかるものだな。けれども空き巣ならば家人が帰ってくる前に逃げるはずだ。なのに未だに居座り、あまつさえ帰ってきた家人を呼ぶなんてありえない。
もしかしたら暗証番号つきの金庫でもあったのか? だとしても番号なんて知らないし、そもそも存在自体知らない。
とりあえず自室へと向かう前に物置になっている階段下からゴルフのドライバーを取り出す。空き巣犯と対峙するなら武器になるものは必要だ。何も持たずに殺されてしまっては夢から覚めてしまうかもしれない。俺にはそれが何よりも怖かった。
忍び足で自室前まで移動し、呼吸を整える。
「来たみたいだね」
その声はさっきの頭に響く感じではなく、扉越しに聞こえてきた。
そして本当に俺が来たのがわかっていたようだった。
「物騒なものは置いて入ってきなよ。まぁ、ここはキミの部屋だけどね」
何がおかしいのかクスクスと漏れる息遣い。
俺はゆっくりとドアノブを回す。
部屋の中にいる人物が得物を持っていないとは思っていない。下手をすれば俺は殺されるかもしれない。だからドライバーを手放すわけにはいかない。
「お帰り、駒井芳久」
鈴が鳴るようにコロコロと笑う。
窓の前に立っていたそいつは黒のマントを羽織り、目深に被ったフードによって表情どころから性別すら判然としない。
わかることは、目の前にいるのは朝に会った占い師だということ。
「会うのはこれで三度目だね」
「二度目の間違いじゃないのか?」
「ううん、三度目だよ」
こいつは何を言っているんだ。
こんな目立つ格好している人と会って忘れるはずがない。
それともマントやフードをとった状態で会っているのか?
「まあ、何度会ってるかなんて重要な話じゃないんだ。それよりももっと重要な話がある」
「人の家に盗みに入ったことか? それとも家人と遭遇したことか?」
「んー、そんなことはどうでもいいじゃないか」
「いいわけあるか。警察に突き出す」
睨みをきかせると占い師は肩を竦める。
小柄な体つきだから取り押さえることができるかもしれない。
どう動こうかと思案していると、まるで聞き分けのない子供を相手にしているみたいに溜息を一つ。
「それは困るね」
「俺はこの状況に困ってるよ」
「ふむ」
占い師は横へ一歩ずれる。
すると窓から差し込む夕日が俺の視界を赤く染める。
「しま――っ」
「油断大敵だね」
隙を突かれて襲われると思って身構える。
なのに前からくる動きは感じられない。
占い師は動いていないのだろうかと、眩んだ視界が収まるのを待つ。
「どこにいった……?」
ようやく収まってきた眩しさの先に、さきほどまでいた占い師の姿はなくなっていた。
「んー、うしろ?」
「!?」
その声は本当に俺の背後から聞こえてきた。
首筋に当てられた冷たい感触に肝が冷えた。
締め切った部屋の中で人が動けばその気配は気取ることができる。まして占い師はマントを羽織っているのだ。この部屋唯一の出入り口に陣取った俺の脇を通り抜けようものなら、確実にその動きは察知できるはず。なのにまったく感じなかった。
足音。
空気の流れ。
その他の感知する要因全てに引っかからなかった。
「お前は何者だ?」
振り返ることができない。
もしも振り返ろうものなら首に当たっているものが俺の命を奪うかもしれない。
「なんだと思う?」
「訊いてるのはこっちだぞ」
「その権利があると思うかい?」
容赦のない立場の主張。
冷や汗だか脂汗が頬を伝っていく。
俺はここで殺されるのか?
まだ後悔も薄れていないのに?
悔しさや怒りで唇を噛み締めた。
そして――唐突に。
「ぷっ」
背後で占い師が噴き出した。
「あはははは」
首筋の感触は消え、占い師は回りこむようにして俺の前へと出てくる。
「驚いたみたいだね」
「な、なにを……」
「ちょっとしたお茶目じゃないか」
そう言って占い師は手から光る何かを取り出し、フードの中にある自分の首に当てて滑らせる。
そして何事もなかったように手に持ったものを差し出してくる。
「スプーン……?」
「正解。これで首は切れないよね」
また面白そうに笑う。
「さて、キミの問いに答えようじゃないか」
占い師は窓際まで歩いていき、振り返るとマントを払いフードをとる。
焼けるような夕日の色に染まらない白銀の髪が視界を覆う。
「私は、この世界へキミを巻き戻した――魔女さ」