序章
どこかでサイレンが鳴っていた。
視界いっぱいに広がる空は清々しいくらいに青くて、高くて、どうしてか涙が出そうだった。
自分でもわからない何かを掴もうとして手を伸ばす。
けれど当たり前に動くはずの、さっきまで動いていた手が少しも動いてくれない。
どうして――と考えながらずっと聞こえているサイレンに意識が向かう。
その音は近づいていた。
時間が経つにつれて確実に。
自分の方へと。
「ああ、そうか……」
掠れた声を吐き出しながら思い出した。
俺は事故に遭ったんだ。
周りに集まった人たちがしきりに声をかけてくる。
やめてくれ。
俺の視界に入らないでくれ。
久しぶりに見た空はまさに雲ひとつない快晴なんだ。
意識が途切れるまでこうして青空を眺めていたい。
どうせ指一つ動かせない状態なんだから助からない。
それなら心行くまでこうしていたい。
救いなのは痛みがないこと。
ふと思うのは死の間際だというのに不思議と恐怖がない。
むしろやっとだとさえ思う。
もっと早くてもよかった。
四年もの間、このときを待ったのだ。
高校三年の春。
ゴールデンウィークが間近に迫ったあの日。
後悔に苛まれる時間が始まった。
けれどそれももう終わりだ。
全てを忘れてしまいたい。
「それでいいのかい?」
その声がやけにはっきりと聞こえた。
「……?」
そして周囲の音が遠ざかっていく。
俺の意識を繋ぎ止めようとする人々の声。
ずっと耳に届いていたサイレン。
世界からなくなるはずのない音の全てが――。
「本当にそれでいいのかい?」
ただ一つの声を除いて。
辛うじて動いた首が頭を転がす。
俺を囲む見知らぬ人たちの、その向こう側。
ぼやける視界にうっすらシルエットだけがあった。
「このまま死んでしまっていいのかい?」
死にかけている人間を前にして感情に揺れなどなく、まるでそんなことは重要ではないかのように、その人物は言葉を続ける。
「死ねば全ては終わり、後悔すら残らない」
ああ、そうだ。
掠れて出ない声に苛立ちを覚える。
「それが望みってキミは言うのかな」
動かない首に力を入れて頷こうとする。
当然だ。
「でもキミには後悔があるよね」
そんなもの誰にもである。
ああすればよかった、こうすればよかった。
俺のそれが特別なことなんて思わない。
「そうだね、誰しも思い願うことだね」
ふと会話が成り立っていることに気づく。
まるで魔法でも使っているかのようだ。
「気づくのが遅い、頭が良いようだけど減点だね」
嘆息一つ。
「ま、死にかけならそんなものかな。話を戻そう。キミの後悔を晴らす手伝いをしてあげる」
どうして。
「ん、それは強い想いを感じたから」
強い想い……。
「とある娘を助けたい」
軽く口にしたそれに息苦しさを覚える。
事故による痛みなどまったく感じないのに、その苦しさは強烈に感じた。
「今から四年前。キミがまだ学生だった頃」
そうだ。
俺が部屋に引き篭もる生活を始める前。
もう遠くなってしまった過去。
戻りたくても戻れない過ぎ去りし時。
もしもあの時に戻れたなら……。
「戻してあげる、その時間へ」
そんなことが可能なのか?
「問題ない。そのためにきたんだから」
それが本当なら俺は願う。
――あの時へ戻りたい。
例え戻った自分が何も成せなくとも。
何も知らずに何もしなかった当時のクソガキよりは遥かにマシだと思うから。