親愛なる君へ
閉め切った窓の外に、ちろちろと白い雪が映る。
机に置いた湯呑みには黒い液体がなみなみと注がれ、小さな石油ストーブ一つのみが置かれた寒い室内に白い湯気を立ち昇らせていた。
嗚呼、そろそろ君が帰る頃合いだろうか、などと思い至り、コチコチと鳴り響く壁掛け時計に目をやるも、先程見た時刻よりもほんの少しだけ右にずれ込んだ長針のみが私の目に映る。
────先生、と、君が私を呼ぶ声が聴こえた気がした。……否、幻聴だとは気付いていたが。
頭部の奥深くがじん、として、思わずきつく瞼を閉じる。もしかしたら、風邪をひくのだろうか。
それはいけない、と再び私は目を開ける。これから受験生となる彼は、家庭が裕福ではない分、学力面での奨学生として大学へと入学しなければいけないのだから。私が風邪をひいて、彼の努力を水の泡にして仕舞うのは酷く忍びない。
────しっかりしろ、と私は左右に頭を振って、心の中で呟く。もう子供ではないのだから。
頭を勢い良く振ったせいで、頭の奥深くがくらりと揺れる。よろけそうな体躯を何とか机の端に手をつくことで支え、また唐突に彼のことが頭をよぎった。
もしも私が風邪をひいたのなら、きっと彼は甲斐甲斐しく私の看病をしようとするだろうから。
────先生、と何時もの様に柔らかく微笑んで、「卵は高いのだから君が食べなさい」と私が止める言葉も聞かずに、きっと彼は私の為に卵粥を作ろうとするのだろう。
そんな事を考えれば、理由の解らない、妙に幸せな気分に包まれ、私は口元を少し緩める。
ふと窓硝子に映った自分の表情が妙に幸せそうで、私はそっと目を逸らして、だらしがなく緩んだ口元を引き締める。
────…………彼と出逢った日も、丁度この様な季節だった。
私は再び窓の外へ意識を向けると、以前彼がしていたように窓硝子に額を押し付ける。私の吐き出した透明な息が白く窓を曇らせる。以前、吐き出した呼吸は透明なのに、窓が白く曇るのは不思議ですねと彼が笑った事を思い出した。
ふと窓の外を見れば、小さな子供達が笑顔で雪の中を駆け回り、彼等の付けた足跡が白い雪に残る。それは不思議と消えることはなく、ただ確かな存在を持って、其処へ存在していた。
私は、其処にある確かな存在の熱を感じ乍ら、ゆっくりと目を閉じて昔の記憶を辿る。
────彼と出逢った日は、町中が柔らかな静寂に包まれ、ちろちろと白い雪が舞っていた。
薄く辺りを包み込むような暗闇の中、小さな静寂と、私が雪を踏みしめながら歩く音のみが聴こえる。そんな静かな夕暮れだった。
それは丁度、私自身の新刊の売れ行きを見に、馴染みの書店から自宅へと帰った時だった。私の家の前に、小さく、華奢な少年が立っていたのを見付けたのは。
少年は酷く端整な顔立ちで、濡れたように光る黒い瞳が真っ直ぐに私の家の玄関を見上げている。
少年の姿が厭に鮮明に私の眼に映ったのは、少年の姿に吸い寄せられた────訳ではなく、唯単に雪明りの所為だろう。それと、消し忘れていた玄関の電燈と。
暗闇の中に、自宅の外に見知らぬ少年が立っていたというだけでも非常に奇魅が悪いのだが、明りを受けて照らされた少年の顔は、思わず息を呑む程に美しかった。繊細で、緻密で、まるで計算され尽くした彫刻のように、少年の存在ひとつが、美しい芸術品のようで。
私が立ち尽くしていると、ふと、その少年が此方を振り返り、その雪のように白い頬を朱に染める。
それはまるで、茶色に染まり、どこか寂しさを感じさせる桜の木が、春の訪れと共に薄桃色の花弁を咲き誇る瞬間のように。
────…………私の家に、何か用か?
「言葉足らずな君の伝え方は、時に誤解を生み易いから気をつけるように」と数少ない友人達や、学生時代の恩師より再三忠告を受けていたにも関わらず、つい普段通り素っ気無い対応をしてしまった事に軽い自己嫌悪を覚えながらも、その疑問を片付けようと、少年にそう訊ねる。
────きっと、目の前の少年も眉を顰めるに違いない。
今まで出逢った人々は皆、私が口を開き言葉を発すれば、不愉快げに眉をひそめていた。泣き出した者もいる。私の言葉足らずな伝え方のせい、いわば自業自得と言えばそれまでなのだが、私はどうやら幼少の頃から妙に他人に誤解されやすい性質らしい。
────直しなさい、とよく叱られた。ただ、自分では気を付けていても、それでも他人に誤解をされてしまうことがある。その度に誤解を解き、絡まった人間関係を再構築するのは容易いことではない。
もう、沢山だと思った。また誤解を解きながら生きていかねばならないのかと思うだけで、それは酷く私を辟易とさせた。
ふと少年の、濡れたように黒く光る瞳を見つめれば、少年は驚いた事に、私の顔を穴が開くほど見詰めて居た。心成しか、頬の朱が先程よりも深まっている気がする。……いや、あくまで推測論なのだが。
────…………此方の御宅には、小説を生業として居る方がいらっしゃるのですか?
唐突に少年がそう訊いてきたものだから、私は思わず目を見開く。
────何故、そう思う
少年に問うと、彼は今朝書き上げたばかりの原稿を私の目の前に差し出す。どうやら窓から原稿が、冬特有の冷たく乾いた風により飛ばされてしまったらしい。書店からの帰り道の嫌な予感が的中し、私は心中で小さく舌打ちをした。
────………………落ちてきました
────見れば解る
嗚呼、また酷い云い方をした、と自己嫌悪の波に呑まれる。人を傷付ける事を云いたいのではなく、事実のみを伝えたいだけなのだが。
私はつい、少年の顔色を窺ってしまう。この世代の、特に少年とは関わりを持つ事は最早皆無に等しく、余計に関わり方が解らなくなる。……結果、それが相手を傷つける事へと変貌してしまう事を、私自身嫌というほど理解し、また味わってきた。
しかし、少年は私の振る舞いを特に気に留めた様子も無く、あろうことか彼は、ぼんやりと照らされた玄関の外灯で私の小説を読み始めたのだ。
────非常に不味い。あれはまだ発売前の小説なのだ。彼に読まれてしまうのは、少々具合が悪すぎる。
彼が見た目通りの、真面目で口の堅い人物ならば問題は無いが、人は見かけによらぬものとも云う。…………否、そもそもは私の迂闊さがいけないのだが。
まだまだ駆け出しの新人作家が何を云うか、と笑われてしまうかもしれないが、私にも、私の作品に対しての自尊心や愛着はそれなりに在る積もりだ。
────待ち給え。他人の作品を勝手に読むのは、心持ちが悪くはないのか?
すると、彼は視線を此方に向け、不思議そうに首を傾げる。
────しかし、貴方のものでないの為らば、この小説に何か持ち主の事が書かれているかもしれません。それに、僕がこの小説を盗んだわけでは無いと言う証明は、先程出逢った時の貴方が証明してくださります。…………「見れば解る」と仰って頂いたのですから
嫌味なほどの正論に、思わず舌打ちをしてしまいそうになる。彼はきっと、賢い子供なのだろう。理論上は、彼の発言に矛盾は無い。
私も、自分の作品で無く、作家で無かったのならば、彼と同じ事をしただろうし、彼にもそう助言しただろう。────…………そう、私の小説で無かったの為らば。
幸か不幸か、それは紛れも無く、私の作品で在り、だからこそ、彼に読まれることは具合が悪いと言える。若しも、目の前の少年が私の小説の内容をを誰かに漏らしてしまえば、間接的にそれを聞いた同業者が断片的に聞いた情報から、同じような内容を作り上げて仕舞うとも限らない。模しも、同じような内容で価格の安い本があれば?模しも、同じ内容を書いた者の方が有名な作家だったとしたら?必ずしも、正当な見返りを得られるとは限らないのだ。
────………………成る程。そして、君が見た限り、その間抜けな作家へ繋がる情報は書かれていたのか?
────いいえ、残念ながら。ただ、僕はこの文体や雰囲気に酷似した小説を書く人を知っています。残念ながら、この作品は彼の良さがまるで皆無に等しいのですが
────仕様が無いだろう。これは、編集者からの意向で書いたものなのだから。全く、幸せな結末なんて書いたこともないのに、何故私に書かせようとしたのか疑問だがな。そもそも、私に幸せや愛情など解らないと常々────
四つ年下の、まだ若い編集者への愚痴を言い掛けて、私ははっとして口を噤む。愚痴なんて情けない、と思い少年の方を見れば、彼は花が綻ぶ様に嬉しげに微笑して、云った。
「矢張り、貴方の小説でしたか」
間違っていなくて良かった、と少年は小さく口元を緩める。
彼は、自らの名を朔磨と名乗った。それが、苗字なのか、それとも名前なのか、発音からは判断がつかない。
──貴方は?
彼がそう訊いてきたので、私は物書きとしての名では無く、本名を名乗った。何故だか、彼にはその名で呼んで欲しくは無い、と言う、形容しがたい妙な感情が混ざっていた。
感情を言い表せない等、小説家が恥ずべき事実だ、と後々独りで笑ったものだ。
彼は、住む家も、財産も無い様だった。住んでいた家から追い出されたのだと皮肉気に笑う。
この過疎化した街では仕方のない事だろう。…………否、今でも口減らしの為に追い出される子供がいるとは理解し難かったが、貧しい者と裕福な者に区分され、極端に扱いが違うこの異常な街では、それも在り得る事だろうと独り想う。
よくよく注意して彼の服装を見詰めれば、上着は煤け、履物は所々に汚れていた。
────そんなに見詰めないで頂けますか?
ふと、澄んだ彼の声に、急速に意識を連れ戻される。彼の同年代の子供達拠りも少しだけ高い声に、幼さを感じた。
謝罪しようと彼の顔を見れば、彼は表情を強張らせて、まるで諭すように呟く。
────…………惨めに為って仕舞うので。…………この街では、特に珍しい事でも無いでしょう
其れは、まるで周囲を拒絶するようで。「助けて欲しいなんて、僕は頼んで居ない」と呟く声が、震える肩が、俯いた彼が、消えて仕舞いそうで。
暫く考えた末、朔磨君、と私は彼の名を呼んだ。何故このような行動をとったのか、五年経過した今でも、私は理解することは出来無い。
ただ、何となく──この言葉が私は一番嫌いなのだが──何となく、彼の手を離してはいけない気がした。
────…………この華奢な少年の手を、決して離してはいけない。
それはまるで本能のように、頭の中で強くそう思った。
雪明りに照らされた彼は儚げで、今にも消えてしまいそうに思えて────手を伸ばさずには、居られなかったのだ。
────………………きっと其れは、同情なんて綺麗な感情では無い。本能に忠実に従う、人間とはまた次元を越えた、別の生き物へと姿を変えたのだ。
────君は、私の家に住む気は無いか?
彼の目を見詰めながら、私は淡々とその一行、文字数にしたら約十五文字程度の言葉を、やけにゆっくりと呟いた。
離したくは無かった。この儚げな少年の様々な顔を、もっと知りたかったのだ。
それは、私の我が儘。もっと言ってしまえば、私の欲だ。私は、彼へと同情はして居ないのだから。
目の前の少年は、驚きと疑問の入り混じったような表情をしていた。やけに間の抜けた表情だったので、私は思わず頬を緩めてしまう。
すると、彼はそんな私を一瞥すると、妙に冷えた声で云った。
────……僕は、確かに住む家も、財産も、明日の着物も何一つ御座いません。…………お恥ずかしい話ですが、風呂などまともに入ってはおりません。明日の食い扶持すら、どう確保したら良いのかも解りません
彼はまるで、此方を試すような声色で淡々と呟く。顔を俯かせている為、此方から表情を窺う事は出来ず、私はただ、彼の小さな姿を見詰めた。
北風がさらり、と彼の髪を乱す。僅か一秒程度の出来事が、妙に長く感じた。
────貴方様から見れば、僕は親と兄弟から捨てられた、惨めで憐れな子供に見えるでしょう。…………ですが、
彼は不意にその美しい顔をくいっと上げ、真っ直ぐに私を見詰める。華奢で、整った顔の中に浮かぶ強い視線が、私を射抜く。
────僕は、出逢って間も無い他人に情けを掛けられなければいけない程、卑しい人間では無いのです
まるで、冷たい手に心臓を掴まれたようにひやりとした。体温が、急激に奪われていくような感覚に襲われる。
────彼は、私が興味本位で彼に声をかけた事に、気付いている。
口腔が乾いていた。動揺を悟られぬよう、こくりと喉を鳴らす。
知りたいと思った。儚げな表情をしながらも、気高くあろうとする彼を。その先にある、まだ見たことのない表情を。
──私は、
嗚呼、どのような言葉がこの跳ねる様な、心地良いような感情に当て嵌まるのだろうか。
私は五分ほど熟考してから、彼の眼を真っ直ぐに見据える。
────私は、君に惹かれている。…………沢山の季節を君と過ごすことで、君の事を、より深く知っていきたいと思っている
すると、目の前の少年は、酷く驚愕したようにその美しい瞳を大きく見開く。瞳から光が溢れるように、やけに輝いて見えた。
────もう一度、問う。君は、私の家に来てはくれないだろうか?
云い終わるか終わらないかの内に、彼が私の手を握る。私よりも幾分か温かい、人間らしい手だった。
────…………僕は、明日の食い扶持をも知れぬ身です
────知っている
────……財産も無いので、貴方に家賃をお支払いする事も出来ません。両親は、捨てた僕のために、支払うなどしないでしょうし、きっと、僕を迎えになんて来ないでしょう。…………貴方が、誰か他の愛する人と添い遂げたいと感じた際に、私の存在を邪魔に思うかもしれません
────私から申し出たのに、家賃など頂くわけにはいかない。…………それに、君を捨てた御両親に、もとより期待などしては居ない。そして、残念なことに、私はこの歳までそんな感情を抱いたことは無い。きっと、この先もだ
────……出来る事は、家事、位です。先生のお役に立てるかも、解りません。…………大学も奨学金を狙って行く様な、貧しい人間です
────役に立つか、立たないかで私は人間の価値を決めた事は無いし、貧しいか、裕福かで人間の価値は決まらない。それは無論、学力や身体能力、特異能力でも同じ事だ。人の価値観は人其々(それぞれ)で在り、私はその価値観の中で、君を見付けた。…………君は其れでは、納得することは出来ないか?
────…………先生の其れは、理想論です。現実と、何も一致していない
────無論、私も思ってはいる。…………だが少しだけ、私も人を愛する夢を見ていたい。…………君に、その夢を見ることを、手伝って欲しい
────…………………
────…………矢張り、駄目だろうか
すると、彼は大きく溜息を吐く。心なしか、口元が綻んで居るように見えた。
────僕なんて相手にせずとも、貴方ほどの美丈夫なら、幾らでも居らっしゃるでしょうに
────君が良い。これから先、夢を見続けるのならば、君の隣で見て居たい
くすり、と彼が笑う声がする。途端に世界の音が遮断されて、彼の声のみが鼓膜を震わせる。
「…………随分とまぁ、熱烈な台詞ですね」
そう呟くと、彼は私の手をとる。その手は、先程と変わらず温かな手だった。
此れが私の物語ならば、今頃私は君に去られて泣いているな、と呟けば、彼は小さく左右に首を振って、私の肩へ頭を預ける。
「…………僕が貴方の傍から去れる訳が無い。でも────」
その先の言葉を紡ごうとする彼の唇を、指先で軽く押さえる。その先に紡がれる言葉は、頭の何処かで知って居た。
「私が君に惹かれていたとしても、君が気を遣って同じ気持ちを返さなければいけない訳ではない。私は君の隣で、夢を見続けたいのだ。例え、其処で君と愛情を育まなくても、君と良き友人くらいにはなれるかもしれない」
そうだ。元より、初恋なんて叶わないものだ。其れならば、良き友人として、隣で彼の成長を見守っていきたい。
すると、彼は私の手を少々強引に外す。そして、不機嫌そうな、まるで拗ねた子供の様な表情で
「何故、僕が先生に惹かれて居ないと解るのです」
きっと、私はまた呆けた顔をして居たのだろう。彼は徐に、私の手を握り、そっと私を引き寄せた。
私よりも背の低い彼の心臓の音が聴こえた。私の腹の辺りで鳴り響いている他人の心臓の音は、少々妙に聴こえる。
彼は私から身体を離すと、真剣な瞳で呟く。
「何故、惹かれて居ない方の前で、こんなにも心が震えなければいけないのです。こんな、身を焦がしてしまいそうな熱が、貴方以外の前で現れる筈が無いのに」
そう言うと、朔磨は顔を俯かせて黙り込む。私は────年甲斐もなく、頬に集まった熱を冷まそうと、彼に問い掛ける。
「…………君は、これから熱が出るのでは無いか?」
そうでもしなければ、こんなに上手く叶う筈が無い。彼が熱を出すか、私が夢を見ているかのどちらかだろう。
彼は呆れたように「未だそんな事を…………」と呟いた後、小さく口元を緩める。
「そう、僕と貴方は今から高熱に魘されて仕舞うのです。…………愛情と云う、高熱に」
「何とまあ、熱い台詞だな」
まるで彼のような言葉を呟けば、笑ってしまう。此れではまるで、いつもと正反対ではないか。
すると、彼も「小説家に云われたくは在りません」と、口元を緩める。
「馬鹿にしているのか?」
「いいえ、尊敬しているのです。僕には、貴方の様な物語は綴れない」
「………世辞は嫌いだ」「本心です」
柔らかな微笑みで云われては、何一つ云い返せなくなる。
────嗚呼、友人の云う「幸せ」とは、この様な感情の事なのだろうか。 左胸が、酷く五月蠅い。
しかし──…………しかし、酷く、温かい。
この感情が幸せと云うのだろうか。酷く温かくて、泣いてしまいそうだ。
視界が霞み、両目から小さな雫が零れ落ちる。温かくて、少々塩辛い。
私を抱き止めている少年の上着の肩口が湿る。酷く冷たい筈なのに、彼は何も言わない。
暫く考えを巡らせた後、私はそっと少年の背中へと腕をまわす。それは、確かな熱をもって、心の中へするりと入り込んだ。
────誰かと感情が交わる事は、もう無いだろうと思って居た。傷付くことも、誰かを傷付けることも恐れ、誤解され易い自分の感情を、もう二度と溢れ出さないように小さく押し込んで鍵をかけた。私の言葉をもう二度と伝える事は無いまま、やがて死んでいくのだろうと思っていた。
────然し、其れは違った。
あの、風の吹いた瞬間。古書店からの帰り道。舞っていた、白い雪。雪明かりに照らされた、彼。それらが全て、最初から決まっていたような気がしてしまうのは、私の自惚れだろうか。
目の前の少年から、私は幸せを教えられた。こんなにも幼く、華奢な少年から教わったのだ。
是を幸せだと思わないのならば、私はもう、二度と愛情を知る事は出来ないだろう。
私は少年────朔磨の背中へそっと腕をまわす。確かな温もりが、そこにはあった。
────…………………………い
不意に、頭の中に誰かの声が響く。よくよく注意して聞いてみれば、それはどうやら朔磨の声だった。
──………………先生、………………きてください
──………………先生、先生
──………………先生、起きて下さい
断片的な声が明瞭に聴こえた瞬間、私は目を開ける。目の前には、あの日よりも少し大人びた、けれども何も変わらない朔磨の呆れた表情があった。
「お早う御座います、先生。また風邪をひいて仕舞いますよ、寝るのなら布団へ────」
私は、その言葉を途中で遮る。不意に愛おしさが込み上げた彼の頬に、小さく口付ければ、彼は驚いたように目を見開く。
「待って居た。君を」
「…………何とまあ、熱烈な台詞ですね」
動揺を呑み込んで、まるで私の様な台詞を云い乍ら彼は微笑む。
「慣れたのか?」「貴方と暮らして居れば。…………全く、貴方はそんなに子供のような方でしたか?」
朔磨は呆れた、然し少々嬉しそうな表情で微笑む。「私は甘える君も好きだ」と呟けば、彼は「大人びた僕は嫌いでしたか」と笑う。
「………………厭、私はどんな君でも好きだ」
そう言えば、彼は「本当に、貴方と言う人は…………」と呟く。それでも、少しだけ嬉しげに上げられた口角に、私もつられて笑う。…………全く、彼と居ると幸せが多いから困って仕舞う。
「…………冷えて居るな」
「青果店の旦那様の雪掻きを手伝っておりましたから。…………ふふ、先生に渡してくれと沢山の果物や野菜を頂きました」
ふと、朔磨の横に置かれた袋から、沢山の野菜や果物が溢れ出しているのを見て、つい口元を緩める。
青果店の主人が私に渡せと言ったのは口実だろう。何処か不器用で優しい彼は、直接礼と称して朔磨に渡すのは照れ臭かったのだろうから。
「嗚呼、後で一緒に礼を言いに行こう。待って居ろ。今、温かい飲物を持って────」
そう云い乍ら、立ち上りかけた私の腕を朔磨がそっとひく。
「いいえ、何も要りません」「然し……寒くは無いか?」
「少々。然し、我慢出来ない程では御座いません。幸いなことに、石油ストーブは付いておりますから」
彼は、私の肩へ頭を預けると、そのまま静かに瞼を閉じる。私は、少しでも彼が温まるよう、そっと抱き締める。
「…………体調が悪いのか?」
「いいえ?感じて居るのです。貴方が此処に居ると云う、幸せを」
「幸せ」「ええ。暗闇の中に居ても、光の中に居ても、変わらずに貴方の温もりが此処に在る。貴方が、此処に居る。此処に居て、僕を抱き締めて下さる。其れだけで、僕は今日も幸せなのですから」
暗闇の中へ居ても、光の中へ居ても。変わらずに──
「先生?」
声の聴こえなくなった私を心配してか、朔磨が身体を離し、心配そうな面持ちで私の顔を覗き込む。
「先生?如何されましたか?」
私は、泣いていた。まるで幼い子供の様に、頬に涙を滑らせて、しゃくりあげる。
彼は、少しだけ驚いたように目を見開いてから、ゆっくりと再び私を抱き締める。微かな彼の温もりが、どうしようもなく涙を誘った。
「………………朔磨」「はい」
私は、朔磨をきつく抱き締めた。小さくて、そして、誰よりも大きなこの温もりを、決して手離さないように。
「朔磨。私は今、酷く幸せだ」「…………ええ、僕も幸せです」
朔磨は私の言葉を聞き乍ら、小さく笑う。
「……君の事を、「愛している」と云う言葉では云い足りない程、大切に想っている」
「……本当に、先生は……。日頃はもう少し言葉を抑えましょうね」
「厭か?」
「いいえ?」
くすりと笑う朔磨の、柔らかな声が耳に心地よく届く。
────君が、此処に居る。此処で、微笑んで居る。其れだけで、私は今日も少しだけ、人に期待して生きていける。
親愛なる君へ、臆病者の小説家が伝えたい事。
其処に、多くの言葉は要らない。君へ伝えたい事は、たった一つの言葉しかないのだから。
「…………朔磨」
「何でしょう?…………直哉さん」
戸惑ったような、それでいて何処か優しい声に、小さく口元を緩める。
「私は今日も、明日も、これから先もずっと永遠に、君の事を愛し続けて居る」
そう呟きながら、朔磨を強く抱き締める。もう二度と、手放したくは無い。……否、手放せる筈が無い。
朔磨は私の背中を擦りながら、呆れたように呟く。
「本当に……少しは言葉を抑えて下さい。…………僕の心臓が持ちません」
「……厭では無い、のだろう?」
「……ふふ、降参です」
朔磨は苦笑して、再度私の肩に頭を預ける。今度は、私も泣く事は無い。彼の頭に、私の頭を預ける。
私達はそうして互いに支え合ったまま、どちらとも無く互いに互いの指を絡める。
「…………朔磨。私の世界は、君に出逢えて、色が変わった」
彼に頭を預けたまま、私はぽつりと呟く。朔磨は再びくすりと笑うと、穏やかな声で
「…………僕の世界は、いつだって貴方の色で溢れています」
互いに微睡みかけた意識の中で、互いの想いを口にする。
大切な人が、此処に居る。君が唯、此処で微笑んでいる。今は其れだけが、唯、愛おしい。
間も無くどちらとも無く瞼を閉じる。遠くで夕刻を告げる鐘の音が響いて居た。
────こんな優しい日々が、どうか永遠に続きますように
どちらが先かは解らない、そんな祈りを呟いて、互いに意識を手放す。眠りに落ちた私達を、柔らかな橙色をした夕陽が、ただ静かに照らしていた。
此処までお付き合いくださり、本当に有難う御座いました。