〔4-14〕てき
そして、会話ができる程度の距離で、その人物は立ち止まる。
顔はサングラスに隠されてはいるが、平凡そうで。
その黒髪は短く、おそらく男性。
一時期流行った、汚らしいひげも無く。
あまり年齢判定は得意ではないが、まあおそらくは三十前後。
格好として、この炎天下で上下黒のスーツ姿。
左手には黒のアタッシュケース。
左耳の変な機械とサングラスが無ければ、多分ごく一般的なビジネスマンとして通用する。
リリィのように変形したりするのかどうなのかは知るすべが無いが、ジャケットを着ているならその内ポケットあたりに何らかの飛び道具を隠している可能性が、あったり無かったり。
血を見たり、するのだろうか?
対面してしばらくすると、その人物は話し掛けてきた。
「田中一郎の所のマークⅡだな」
え、えええええー……。
それ、リリィのマスターの名前なの?
どんな一流の偽名?
そう訝しがる僕の隣で、リリィは首を傾げてみせた。
「田中、さん? マークⅡって何ですか?」
「そういうのは無しにしてくれ。今のは確認じゃなくて、ただの挨拶だ。あんたがそれで間違いないのは判ってる」
「こちらには何の事だかまったく解りません。警備員の人を呼んでいいですか?」
「別にいい。それで俺は困らんが、俺はそいつにお前の事を話す」
「何を言うつもりか知りませんが、私は全部否定します。あなたのようなオジサンと私のような少女、どちらが信用されると思いますか?」
あ、なるほど。
リリィはシラを切り通すつもりなんじゃなくて、時間を稼いでるのか。
「俺はまだ二十八だ。オジサン云うな」
「オジサンです。そうですよね? サトシ、ユキナ」
「え……あ、うん」
「そーですねオジサンですね」
一応シラを切るつもり、という建前は通すという事なんだろうか。
いきなり違う名前で呼ばれたから、戸惑いかけてしまった。
修行が足りないなあ……っつーか、松平さん強気だなあ。
まあ相手は大いに傷付いたようだが、こう反撃してきた。
「お前に金をスリ盗られたと訴える。そうすれば警備員も、お前の鞄を検めない訳には行かないだろう。それで実際に大金が出てきたらどうする?」
「私のお金だと主張します。通帳を持ち合わせていますから、残高を見てもらえば納得は得られます。そうすれば今度はあなたのほうへ疑いの目が向く事になりますが、その通帳までがあなたの物だと訴えますか? 仮にその通帳が私の物ではなかったとしても、そのままあなたの物だという事にはなりませんが」
肩をすくめる。
それで降参したようだ。
僕が言えた義理ではないが、論戦は得意ではないらしい。
まあリリィが相手では、大抵の人間が太刀打ちできないだろうけど、しかしもちろん難が去った訳では全然無い。
「俺はただ、ご足労願いたいだけなんだがな」
「やっぱり警備員を呼びます」
「俺のほうは、事が荒立ってしまっても構わないと許可が出ている。だから、これ以上シラを切られようが誰を呼ばれようが全然困らんが、そっちはどうだ?」
そんな事を言い放つ男の手は、既に懐の内側にあった。
引き伸ばすのは、限界か……。
リリィもそう思ったようで、少し対応を変えた。
「あなたがたが私に会話を持つのは珍しいですが……私に、何の用ですか?」
「知らないし、知ってても話さない」
「来いというのは、どこへですか?」
「教える訳が無い」
「そうですか。私一人ならいざ知らず、この二人をそんなどことも判らない場所へ連れては行けません。しかし、二人を置いて行く訳にも行きません。どうしましょうか?」
「どうも何も、用があるのはお前だけだ」
「そうですか。それなら招待はお断りしますが、取りあえずあなたは誰ですか?」
「話す訳が無い」
「そうですか」
「そんな態度でいいのか」
男の懐から現れたのは……見た事が無くても判る。
拳銃とか、詳しい型式は知らないけど、とにかくそういうやつ。
それはそれ以外の何物でもなく、それはすぐに……こちらが身構えたりする前に、火のようなものを吹いた気がする。
ぼおぁん!
轟音を聴いた。
それは、ドラマやゲームであるような、パン! だとか、バキューン! だとか、そんな生易しいものではなかった。
音と云うよりむしろ、衝撃。
そんな感じだった。
音と云うなら、今残っているキーンとした耳鳴りを挙げればいいのだろうか。
あれだけ騒がしかった辺りはシンと静まり返り、一様に何が起きたのか解らないという顔をしている。
……発砲、したんだよね?
今。
どこへ?
周りに特に、異状は見られないけれども……威嚇射撃、だった?
やがて、何やら凶悪な行為が展開されようとしている事だけは認識した周りの人達が、ざわつき始める。
居合わせた警備員も二人、我に返っては駆け寄ってきた。
ぼおぁん!
ぼおぁん!
「がっ、あああっ!」
「ぐううーっ……!」
そんな彼らの足を、男は容赦無く、正確に、撃った。
ちなみにその部位は……うわ、よりにもよって……膝。
激痛によるものと思われる叫び声が、漏れ。
「キャアアアアアアアアアアーっ!」
居合わせた誰かも悲鳴を上げ、それを受けて周囲はいよいよ大騒ぎになる。
小さな子どもたちは、泣き出し。
それよりもう少し大きい子どもには、面白がる者もおり。
そんな子どもを引き連れた親たちは、ほとんどパニック状態に陥って、総勢悲鳴を上げてはこぞり屋上入口へと押し寄せた。
もちろんその広さは有限である訳で、押し合いへし合いの酷い騒ぎと化してしまっている。
が、男はそんなものには気にも留めず、セリフを続ける。
「俺が躊躇しないで撃つ事は分かったな? 大人しく来ればよし、そうでなければ」
その銃口は……松平瑞穂を向いた。
「や……やめろ!」
「それ以上喋ったら撃つ。お前をじゃないぞ?」
そんな事を言われたらどうしようも無い。
黙らざるを得なかった。
男はリリィへ向く。
「では、来い」
「不可能です」
「何だと?」
「私は今、まったく身動きできません。ですから不可能です」
「意味が解らん。普通に喋ってるじゃないか」
「信じるかどうかはあなたの自由ですが、嘘ではありません」
「なら、勝手に運ばせてもらう」
男は遠慮無くこちらに歩み寄り。
僕と松平瑞穂は動くに動けず。
リリィはそれでも悠然と待ち受け、こんな言葉を紡いだ。
「私が何をされても、オリヒコ。ミズホ。絶対に何も喋らないでください」
「素直になったな」
そうして、両手がふさがっている事をものともせず、器用にもアタッシュケースを持つほうの腕でリリィの胴を抱え、担ぎ上げる。
銃を持つ手を不自由にする訳には行かないだろうからそれも当然ではあるが、そのような扱いをされたリリィは再び言葉を紡いだ。
「そうでもありません」
「何?」
「たった今、動けるようになりました」
次の瞬間、何が起こったのか認識できなかった。
ただ、体を何かにギュッと包まれ、それから持ち上げられたような気がする。
「ひ……ひああああ!」
そんな松平瑞穂の声が聴こえてきたから、何だと思ってどうにか気を取り戻し、よく目を見開いてみると。
……眼下に、道路が見える。
それは、近付いている。
……横に、百貨店の壁と窓が見える。
それは、下から上へスクロールしている。
えええ落ちてるのかよ!
屋上って十階だよ!
死ぬでしょこれ!
何でどうして死にたくないよ!
十階相当の高さから飛び降りた後、地面へ到達するのに四秒掛からないらしい。
だから、そんな事を考えたりしてるのも一瞬の事かなあ、とか思ったのだが、どうやらそうではなかったようだ。
真横で流れている壁のスクロールは縦から横へと変化していて、落下の速度は減少の途をたどっている。
地面も近付いているには近付いているが、到達しない。
それよりも明らかに、水平方向への速度が増加している。
これは、えっと……どうやって?
もう一度身のまわりを見てみて、状況を把握した。
まず、僕の体を包んで離さないのは、リリィの髪だ。
大幅に長さを増しているそれは僕の胴体を腕ごと巻き包んでいて、それはすぐ傍の松平瑞穂も同じだった。
彼女も驚いているのか何事か言葉を口にしているようだが、凄い風圧で聞き取れない。
そして、そんな僕らの落下を回避させているのは、リリィの腕……なのか?
生えてる位置的には多分そうなんだろうけど、それは翼だった。
それは広く大きく、片翼だけで優に身長の三倍以上の長さがあり、ハンググライダーのような膜を具えていた。
足からも膜を張っては体勢を制御し、普通に……飛んでいる。
あ。
ああ……飛んでる!
飛んでるよ!
凄いやリリィ!
そこでふと、気付いた。
僕は今、ライトノベルの物語の中に飛び込んだかのごとき体験をしている。
それにちょっと憧れみたいなものは漠然とあったが、別に夢見るくらい切望するものでもなかった。
いきなりそんな状況になったのも不本意ではあるし、正直ついていけない部分もある。
平凡な日常も、無くなってしまってからその貴重さに気付かされた。
でも。
悪くない。
ちなみに通行人はというと、ある一定以上の高さにあるものには割と気が向かないらしく、特に騒ぎにはなっていない。
リリィはその頭上を通過しつつ、ほとんど人目の無い裏路地を見付けると、翼を上手い具合に操ってはそこへ入り込み、すとんと着地した。
取りあえず風圧は受けなくなったから僕はリリィに話し掛けようとしたのだが、彼女は髪による僕ら二人の拘束を解く事無く、そのまま走り出す。
……ってか、待った!
何で走ってるんだよ!
「ちょっ、リリィ足! 怪我!」
「話は後です」
速かった。
頬を風が切る。
大丈夫かなあ……。
まあ事実走れてはいるのだけれど、怪我の完治はまだしていない筈で。
走りつつも一方、リリィの翼膜はゆるゆると変形し……普通の手足に戻ったりした。
それはもう現実的な眺めではなかったけれど、まあ見てしまったんだからどうしようも無い。
その後リリィは僕と松平瑞穂を自分の両肩に運んで腰掛けさせると、元に戻ったばかりのその両腕で僕らをガッチリ押さえる。
そうすると髪もまた普段の長さへ戻っていき、ごく当たり前の髪の毛ですが何か? とでも言わんばかりに受ける風にたなびいた。
当然ながら、こんな場所で人に出くわさないのは、シャワーを浴びながら濡れないでいるのと同じくらい難しい。
僕らを肩へ移したのはもちろん、その奇異さを少しでも抑える為だろう。
それでも金髪美少女が二人も肩に担いで高速で街中を駆け抜けるさまは、どう見てもおかし過ぎるとしか云いようが無いのだけれど、事無かれ至上主義の国の人たちは、何じゃありゃ? 程度の感想しか持たなかったようだ。
苦労は報われている。
そんな猛スピードで街中を駆け抜けるリリィは、街から遠ざかりつつも、駅にもバス停にもマンションにも向かってはいないようだ。
それよりもどうやら、何かを探しているといった感じである。
しかしそれはなかなか見付からないようで、結構時間を食っていた。
それについてちょっと、気になる事がある。
すなわち、最初出会ってリリィが僕を拘束した時、エネルギー切れとやらまでに、それほど時間が掛からなかったような気がするのだ。
きっちり計った訳ではないが、体感にすれば十五分か二十分くらいだった。
そしてそれは今、過ぎている筈。
大丈夫なのだろうか。




