〔4-7〕かし
結局の所、僕には物件の良し悪しなど判断できなかった。
あの狭いアパートに比べれば、どんな部屋でも別天地だからだ。
しかし、リリィはその遮音機能についての一点のみで満足し、松平瑞穂は二十畳の広いリビングと六階のベランダからの展望をいたく気に入り、その部屋は即決となった。
その足で不動産業者の事務所へ行き、小難しい説明を受けてから、ええと……区分所有建物売買契約書、なるものを受け取った。
説明のほうは本当によー解らんのだが、リリィが聞いてくれていたから大丈夫だろう。
ただ、書類に目を通したリリィは、こんな言葉を漏らした。
「なるほど、こういう事ですか」
「ええ。ご不満でしたら、今回はご縁が無かったという事に致しますが」
そう応対する担当者の人も、その居高げな言葉に反していかにも不本意そうな、申し訳無さそうな装いでいる。
何か問題があるのだろうか。
「どういう事? リリィ」
「こちらの要求があまりに通り過ぎだと思いました。特に、未成年者による購入と入居を受け付けるというのがその最たるものでしたが……問題はこれです」
リリィの指差したそれは……う。
読めねえ。
「瑕疵担保責任。物件に何らかの瑕疵があった時に、損害賠償や契約解除をする事を保証するものです」
「かし、って読むんだ。何かおかしいね? あはは」
駄洒落か。
「この契約書では、その責任を持たないとなっています。これは売主が直接取引する時には、買主の同意が得られれば放棄できるんですが、仲介業者が間に入る場合は、最低二年間の担保義務が定められています。それなのにこんな、法廷で争えば確実に折る事ができる特約を、あえて付けるからには……何らかの隠れた瑕疵が、あるという事です」
「瑕疵、って何なの?」
「早い話が、落ち度や欠陥の事です。しかし、見学の時に設備的な欠陥は見当たりませんでしたし、この契約書には他にこちらの不利に働きそうな記載はありません。そうするとつまり、何らかの心理的瑕疵があるんですね?」
「お客様は、お若いのに目利きでらっしゃいますね」
「教えてください。そちらには説明の義務がある筈です」
「申し訳ありません、今ここで私の口から申し上げる訳には行かないんです。どうしてもとおっしゃるのであれば、オーナー様と掛け合ってみますが……お力になれるかどうか」
「そうですか」
無表情ながら間違いなく不服であろうリリィに、しかしその担当者さんは弱々しくも確かに、ニッコリと笑ってみせたのである。
「少々私語を漏らしますと、先代より前の住人の件につきましては、ご案内の必要が無いというのが通例でして」
「! ……ありがとうございます、あなたはそのオーナーのかたと違って良心的ですね」
「恐縮です」
えええええ?
今、何のやり取りをしたの?
っつーか担当者さん、何か馬鹿みたいにニッコニコ嬉しそうだけど?
ツーカーが成立したから喜んでるって事?
「リリィちゃん、どういう事なの?」
「ミズホ。オリヒコ。どうしますか? きっと私たちが未成年という事で、バレても訴状を提出したりなどしないと、足元を見られたんでしょうが……これは、事故物件です」
「事故物件?」
「住むにあたって、精神的に支障がある物件の事です。よくある理由としては、よろしくない評判が噂されているとか、大家がよろしくない人物であるとか、近隣によろしくない住人や施設が存在するとか、そういったものです。今回の場合はそういう話は聞きませんから、誰か人がこの物件で、不幸な死に方で死んでいるといった所でしょう。自殺か、孤独死か、殺人か。その原因は判りませんが……」
「……あー……」
そんなもんがある訳ね、世の中には。
「直前の住人ではないようですが……あるいは、その住人がそれを知って逃げ出したので、慌てて売り急いでいるのかも知れません。物件の値段がこれといって低くないあたりに、狡猾さや巧妙さなど感じますが……」
「……タヌキだねえ……」
つまりこの担当者さん、オーナーの人に無茶か何かをゴリ押しされて不承不承だった所、リリィのお蔭でささやかながら反抗する事ができて、してやったりという所なのか。
いやまあ別にいいけれど、大人っていうのも結構面倒臭いなあ。
「どうしましょうか。私は構いませんが、オリヒコとミズホはどうですか?」
「僕も……あんまり、気にはならないかな? 直前でもないんでしょ?」
「では、ミズホは?」
「うーん……いやまあ、気にならないって言ったらちょっと嘘になるけど……でも、これ断ったら、次探すの大変でしょ? また足元見られちゃうかも知れないし……うん。私も多分、大丈夫」
「本当に大丈夫ですか? 契約前に知ってしまった心理的瑕疵は、後になってから瑕疵として訴える事はできませんよ?」
「じゃあ……何か出たら、リリィちゃんが守ってください」
「何も出ないと思いますが、ミズホがそれでいいならそういう事にしておきましょうか」
そうして手付けを決め、契約書を手に不動産業者の事務所を後にすると、リリィが僕の口座へ購入資金を移してきた。
だがしかし、通帳に記されたその数字は何度見直しても、現実のものとは思えなかった。
何しろ、高校生の預金通帳に八桁、それも九桁に届きそうな数字が並ぶって普通、あり得ないだろう。
まあ、僕が自由に使う事ができるお金ではないので、気にしても仕方が無いのだが。
リリィとその贈与契約書を準備した時、それに対して何気にリリィは拇印、つまり指紋を押印していた。
ハンコが無いなら、銀行の届け印はどうしているのか。
そう疑問に思って尋ねたら、口座はもともとマスター名義のもので、その為の印鑑はちゃんとあるが、字面が署名と異なってしまうのでこの契約書には使えないとの事。
その署名はリリィ・ウォーターとある。
まあリリィの場合、どうしても本名を書く事ができない訳だが、これは別に本名でなくてもいいのだそうだ。
つまり、本人が確かに署名したという事実だけが必要という事だ。
だからタイプライトではダメで、直筆によるサインを要するとか。
ちなみに二者間での契約書というものは、合意の無いうちに破棄されるのを防ぐ為に、二枚作成して両者がそれぞれ保管しなければならないらしい。
もちろんその署名は、直筆でないといけない訳だから、そこだけはコピーができない。
将来の為に、勉強にはなったが……面倒のひと言に、尽きる。
一方、マンションの契約書には恐ろしく様々な記入欄があったが、それらは既に不動産業者によって埋められていて、後はそれをよく確認して署名捺印するだけだった。
その捺印もどうやら、普通のハンコでいいらしい。
さっきの贈与契約もそうだが、マンションの購入契約などという大層な事には実印とかいう大層な物が要るのかと思っていたし、そんな物を高校生の僕が持っている筈も無いからどーするんだろとも思っていたが、実印は購入の為に銀行などから借金をする場合でなければ要らないのだとか。
肩透かしでも喰らった感じだ。
他にも登記だの何だのと、またもや面倒な書類の手続きがあるらしい。
あーもー、この世は書類で回っているんだなあ、と実感させられる。
ただそれは、リリィが代行してくれるとの事だった。
ありがたいのだがしかし、どうしてリリィはそんなにいろいろできるのか。
ちょっと訊いてみたら、こんな答えが返ってきた。
「できる事はする。判らない事は尋ねるか調べる。それだけですよ?」
うーん……。
それはまあ、確かにその通りなんだけれども……。
それを実行に移すのは、なかなか難しい事なんだよ?
リリィ。
そんなこんなで、残すはその二組四部の契約書に親の署名捺印を貰うだけになった。
その話を親へどう伝えたものかと、僕がケータイ片手に考えあぐねていると、リリィがそのケータイを拝借していき、何事か話し込んでその通話を終了すると、僕と松平瑞穂へ言い渡した。
「明日、オリヒコの実家へお邪魔する事になりました。一泊という話になっています。オリヒコ、ミズホ、準備してください」




