〔3-12〕嫌な私
流石にそのままで一時間ほども経過すれば、訝しさが募ってしまう。
もう一度声を掛けてみようか。
そう思った時、やっとリリィが声を発した。
「……あ」
「リリィ?」
「……オリヒコ。ありがとうございます、もう充分です」
「そう。それで、何の確認だったの?」
「やっぱり……間違いなさそうです。ついさっきまで私は、オリヒコ。あなたに抱かれながら、意識を閉じてしまったんです」
「意識を、閉じる?」
「多分、眠りに就いたんだと思います」
「え。寝てたの?」
「オリヒコ、聞いてください。そんな事は今まで無かったんです」
「……無かった?」
「私は殺人兵器です。危険に身を置いても問題の無いように、休止状態にあっても意識が途切れる事は無い筈なんです」
「そうだったの? なら……それが、どうして、今?」
「私は今、酷く安心しています。油断と云い換えていいくらい気も緩んでしまっていますが、とにかくとても穏やかです。そのせいかと考えられます。……あなたに抱き締められたら、そうなったんです」
「え」
「さっき私が取り乱して、あなたに抱き締められた時に気付きました。もしやと思いましたが、今ので確認が取れました。私はおそらく、あなたの抱擁から安らぎというものを受け取る事に成功しています」
「リ、リリィ! じゃあ!」
「はい。私は間違いなく、成長を見ています」
「やった……やった!」
すっかり嬉しくなった僕は思わず、彼女を力いっぱい抱き締めてしまった。
そっか、なるほど。
じゃあさっきのあれは、落ち着かせる事ができたのはやっぱり……。
っつーか、リリィが安らぎに目覚めてくれていなかったら、さっきの騒ぎは収まってなかったって事か。
すんでの所で、ってやつだったなあ……。
リリィのほうもその感触を確かめるように抱き返してきていたが、しばらくしてぽつり漏らした。
「これまでどんなに探しても手の届かなかったものが今、あっさりと手に入ってしまいました。理由が判らないだけに、どうもすっきりとしない部分があるんですが……」
「うーん、それは僕といろいろ……その。とか?」
「どうでしょうか。ただ、この感覚……とても恐ろしいです。永遠にこのままで居たい。そんな事を思わせられてしまいます。緊張も完全に解けてしまっていますから、今もし何らかの危険が迫ったら、おそらくきちんと対処できません」
「そんなの大丈夫だよ! よかったねリリィ!」
「いいえ。いいえ」
リリィは、かぶりを横に振る。
そして僕の両肩に手を置くと、合わせていた肌を離した。
「……え?」
「一方で、嫌な私も姿を現し始めています。私は、それを私にもたらしてくれるあなたを、独占したい。そんな考えを持ってしまいました。その結果あなたへ、故意に伏せた情報があるんです」
「え? 何を?」
「ミズホが急に、私たちを置いて出て行ってしまった理由です」
「え、知ってたの? 松平さんの用事」
「いえ、推測ですが……しかしそれで、間違いない筈です。彼女は……仕事をしに行ったんです」
「仕事? バイトか何か?」
「違います。客と、落ち合っているんですよ」
「客?」
「全部言わないと解りませんか? 援助交際の相手です」
……。
「あ……あああああ!」
「すぐに明かしてしまえば、あなたが彼女を追い掛ける事は判り切っていました。そして私は、それを嫌だと感じてしまいました。伏せた理由はそれです」
僕はリリィが全部言い終わらないうちに、ケータイを手に取った。
「何を話しますか? 彼女は止まらないでしょう。それにもう、行為に及んでいるかも知れません」
「黙ってられないよ! これ以上、松平さんが汚れるのは嫌だ!」
「……そうですか」
そうして、知ったばかりの番号にダイヤルしたが。
「あれ? 通話中……」
これでは、居場所を訊き出す事もできない。
それでも、何もせずに居られなかった僕はせめてメールを送ろうと、ケータイを操作し始めた。
文章を入力しながら、ふと思い立ってリリィに尋ねる。
「矛盾、しない? 僕を独占したいと思ったリリィが、何で松平さんに、僕に連絡先を教えろとか言い出した訳? しかも直前に」
「直前と言いますが、順序を考慮してください。彼女が部屋を後にする事になったのは、当然ながらアドレス交換の後です。私もまさか、こんな急な事になるとは思わなかったんです」
「……まあそれは、そうかもだけど」
「それから彼女に、あなたと仲良くしてもらいたかったのも本当です。私があなたにあげられないものを彼女が持っているのは、確かですから」
「……そう」
「でもそれが、矛盾になるのは、認めます。私も、私の事が、よく解りません。……オリヒコ」
「何?」
「私を……怒っていますか?」
「……リリィの気持ちは、解るから」
「ごめんなさい……」
リリィは頭を垂れる。
瞬間、メール作成途中のケータイが鳴動した。
「……あ」
それは通話の着信で、発信元は松平瑞穂とある。
「もしもし松平さん!」
『……あ……繋がった……よかった……』
という事は、さっき通話中だったのは向こうもちょうど、こちらへ発信していたからなのだろうか。
しかしその声は切れ切れで、どうにもか細く、頼りないものであり。
『……宮前くん……今どこ……ですか……?』
「まだホテル出てないよ! 松平さん、何かあった? 今どこ?」
『……今から……会いたい……です……。会って……くれま……せんか……?』
「行くよ! 今どこなの?」
『……ありがとう……ごめんね……』
「松平さん!」
『……再入室……できないから……。そこのすぐ近くの……公園で……』
「分かったよ! 松平さん大丈夫?」
通話は途切れた。
「もしもし!」
何が、あった?
何か、嫌な目に遭って?
「彼女は……何と?」
「判らないよ。でも、凄く弱ってるみたい」
「私の……せいでしょうか」
「言ってる場合じゃないよ。出よう」
服を着て、リリィにもそれを促した。
部屋をどうしておけばいいかはよく判らなかったが、多分スタッフが全部セットし直してくれるのだろうと勝手に想像し、放っておく事にする。
それから松平瑞穂が置いていった紙幣を手に取ると、部屋の片隅にある精算機に通す。
後になって、こういう場で人を介さずに客に支払いをさせるのは実は違法営業なのだと知ったのだけど、そんな事は今はまったく関係無かった。
それが済めば、リリィに肩を貸しながらもなるべく急いでラブホテルの外へ出て、すぐ斜め向かいに公園は見付かった。
そんなに広くない……というよりも、いっそ狭いと云ってしまっていいその公園に、まだ松平瑞穂の姿は無い。
雨はやんでいるが、ベンチは濡れていて座る事ができない状態だ。
取りあえず入口付近に、突っ立っている事にする。
位置が落ち着いた所で、リリィがぽつり尋ねてきた。
「オリヒコ……やっぱり、怒っていませんか?」
「……怒ってないよ」
「そう思えないので尋ねています。あなたの表情……とても、険しいです」
「それは、松平さんが心配だから」
「そう、ですか」
それっ切り、沈黙が訪れてしまう。
それから待つ間、こんな場所には付き物の、蚊などと交戦する事になった。
どんな場合でもこういった煩わしい些事にとらわれてしまうのは、まあ仕方が無いと云えばそうなのだが、だからこそ煩わしいと云える。
少なくとも見渡す限り無人の、その侘しげな公園の時計が、七時を示す。
それでも、まだ夏至が過ぎて間も無い空は、依然明るい。
その長針をぼんやり観察していると、それはやがて真右を向き……松平瑞穂は現れた。
「……松平さん……」
「宮前、くん」
彼女は元気無く、とぼとぼと、こちらへ歩み寄ってくる。
「大丈夫? 何があったの?」
「ううん……何も、無かった。ありませんでした……」
「え?」
「宮前くんと、エッチしちゃったの……失敗でした。もう失敗も失敗、大失敗だよ?」
「どういう事? 何があったの?」
「だから、何も無かったんですってば。あはは、は……」
彼女はそんな空笑いをしながら……落涙した。
「ま、松平さん……」
「私……どうしよう? もう、ダメだよ……」
「訳を、聞かせてよ……」
「うん……ごめんね……ごめ……えっ……えっ……えええええ……」
彼女は、泣きじゃくり出す。
「オリヒコ、抱き締めて背中をさすってあげてください。これでは話が聞けません」
「あ、うん……」




