〔2-13〕君の願いは
「……そろそろ、タオルを取ってみてください」
「あ、うん」
思えば結構、長く喋った気がする。
ゆっくり、タオルをどけてみた。
あれだけ激しく血が流れたのが嘘であるかのように、傷口は穏やかだ。
出血が止まっているかどうかは血だらけで確認できないが、少なくとも溢れてはこない。
「いいようですね。洗ってください」
「沁みないかな?」
「大いに痛むと思いますが、仕方ありません。それよりついでです、血だらけですから先に、私とあなたの体を流してください」
「了解」
何となく、慣れてきた感じ。
シャワーを開栓すると、手際よくそれぞれの血を洗い流していく。
それが済むと、彼女の傷口に取り掛かる前に、尋ねた。
「ええと、掛けるよ?」
「はい」
傷に流水を当て、手でやわやわとこすった。
「っ……」
「あ、痛い? 大丈夫?」
「痛いですが、大丈夫です」
何か凄く無意味な問答をしているような気がしないでもないけど、しかし。
我慢強いんだなあ、よっぽど。
僕が、あれだけ痛かったのに。
僕があれだけ、うめき声を上げたのに。
まあ、やはり血は固まっていないから、それほど労せずに傷は綺麗になる。
出血もほとんど収まっているようだ。
「これでいいでしょう。シャワーを止める前に壁の血を落として、それからタオルをもう一度洗ってください」
あ、壁か。
そこまで気が回らなかった。
「ずいぶん的確に指示するね?」
「そうですか? 特段の意識はありませんが、そうだとすればそれは……慣れでしょうか」
うーむ。
あまりこういうのは、慣れたくない。
まあ、壁の血を洗い流すのも、やはりそれほど苦労しなかった。
タオルを洗い、水を止め、絞る。
「んー。ええと君は、タオルで拭いたりしても大丈夫なんだろうか」
「ダメなので、ぬぐわずに軽く叩くようにしてください」
「あ、なるほど」
「その前に、先にあなたの体を拭いてください。私の出血はまだ完全に止まっていませんから、私が先だとタオルが汚れます」
「あ、なるほど」
「あと、それはやっぱり、脱いだほうがいいですよ? きちんと拭けません」
「あ、なるほど」
……。
「いや、あの……これは……」
「これから私と、するんでしょう? セックス。誰も咎めません、大丈夫です」
「……でも」
「それよりも早く拭いて、早くラップを巻いてください」
……ああ、もう。
どうにでも。
と、破れかぶれでブリーフを脱ぎ捨てたが、彼女は目撃しても特に何も言わなかった。
しかし……若い男女が、お互い全裸で、狭いシャワールームに……ああああああああああああああああ……。
とにかく僕の体をわしわし拭き。
とにかく彼女の体をぽんぽん叩き。
素早く。
素早く。
「完了!」
「ラップを」
「ハイ」
一旦シャワールームを出て、台所のラップを手にすると、取って返す。
「きつく、三重でお願いします」
ぐるぐるぐる。
「こんなもんで?」
「はい。後は……はい。お願いします」
……布団まで、という事だ。
「また、引きずっても?」
「平気です」
「えっと、じゃあ」
先に道を作り、再び彼女を羽交い絞め。
きちんと、牛乳の匂いは取れていた。
ただ……よく話に聞くような、いわゆる女の子の匂いというようなものも感じられなかった。
まあ、丸洗いしたばかりな訳だから仕方無いんだろうけれども……。
はっきり言って、シャンプーの匂いしかしない。
何となく残念では、あった。
いや別に、シャンプーの匂いが悪いという訳でもないんだけれど、これといって男好きする匂いでもないよね?
よく、女性向けの商品には男性が好む香りを付けてあるとか云うけれど、正直はなはだ、疑問。
まあ、僕が買ってるのは女性向けも男性向けも無い激安シャンプーだから関係無いんだけど、単なる洗脳じゃなかろうか?
頭を洗うだけに。
まあ、そんなこんなで布団に到達し、彼女を横たえる事には成功したのだが。
「……あー」
「何ですか?」
「いや、タオルや下着がダメなら、シーツは大丈夫なんだろうか、と……」
「不思議な事に、それは大丈夫なんです。すべてダメなら、これは綿アレルギーか何かだという当たりをつけられるんですが……かといって私の場合、どんな異常が検出されるか判りません。病院へ持ち込むのは躊躇われますし」
「それはちょっと、困ったもんだね……」
「はい。では、あなたのラップも水で少しずれ始めてますから、交換してください。その後は……」
「……」
「後は、私には判りません。お任せします」
お任せします、か。
こんな状況でこんな女の子からこんな事言われたら、男は舞い上がっちゃうよな。
で、今、実際に言われてしまった訳だけれど。
……うん。
取りあえず、今巻いているラップをはぐる。
新しく、ラップを巻く。
そしてその後、僕は……。
服を、着た。
「え」
まあもちろん彼女は、猛然として抗議する。
「どうしてですか! 約束は、やっぱり嘘なんですか! あんなにお願いしたのに……あんまりです」
「いや、リリィ落ち着いて。違うから」
すいません僕は健康男子なものですから、こんな状況になったらもう止まれないです。
そんな訳無いじゃないですか。
そうじゃなくてね。
「違う……どういう事ですか?」
「ちょっと、買い物に行くだけだから」
「今になって……何を?」
「うん、やっぱりね。リリィはさっき、ちょっといろいろ言ってたけど……でもやっぱり、困る……っつーか、ちょっといろいろ考えちゃうから。今、子どもが出来ちゃうのは。だってそれ、リリィが産んでくれるにしても……僕の子どもだよね?」
「……そういう、事ですか。勘違い、してしまいました。ごめんなさい」
「いや、こっちこそごめん。ええと……それとあと、ガーゼとか」
「それは不要ですよ。活動時なら衝撃保護になりますけど、安静時は血を吸い取る以上の仕事はしませんから、血が止まっているなら無意味です。繊維が傷にこびりついたり、雑菌が溜まってしまったりするというデメリットもあります」
「そう? じゃあ他には……」
「ラップを押さえる為の、包帯かテープがあったらいいと思います。傷口を合わせる為の医療用接合テープがあればなおいいですが、それは今は手に入らないでしょう」
「了解。行ってきます」
リリィに掛け布を掛けてあげ、そして今度は確実にチェーンを外し、玄関ドアを開ける。
相変わらず降り続いているから、まあ傘を開いた。
男子高校生たるもの、頭を悩ませるのは近藤さんを買い求める場所であろうが……いやいや、人身売買じゃないからな!
実は僕のアパートのすぐ向かいがちょうど薬局で、もちろん真夜中に店舗が営業している訳ではないものの、そこには避妊具を扱う自販機が備え付けられていたりする。
っつーかもし店が開いてたとしても、こんな時間に男子高校生がそんなモノ買いに行ったら、間違いなく面倒な事になるよなあ。
しかし、いろいろと種類があるみたいだけれども。
……うむ。
薄いほうが、いいよな! な!
丈夫って書いてあるから、破れたりしないだろうしな! な! な!
……少し高いけどな。
ちょうど千円也。
なかなかの出費である。
まあその分、内容数がいっぱいあるみたいだけれども……。
たくさんいたしてくださいって事?
コレってそういう事?
ねえ答えてよ青春の疑問!
しかし出費といえば……リリィ。
彼女は今後、僕の部屋で暮らす事になるのだろうか?
一人ででさえやっとギリギリの現状、彼女を食わせてあげる余裕などまったく無い。
どうしようか……いや。
それは後で、彼女と考えよう。
取りあえず、避妊具の自販機で包帯やテープまで販売している訳が無いので、近くのコンビニへ向かう。
そこまで片道、徒歩五分。
本当にここは、都合がいい。
店に到着し、時刻は深夜三時ほど。
いわゆる丑三つ時というやつだが、それでも客足はあるらしい。
商品搬入する店員の他、堂々と雑誌を立ち読みする客の姿が二名ほど確認できた。
いや、立ち読みしかしないんなら客と云えるかも怪しい所だし、注意しなくていいのか店員。
ええと、包帯の取り扱いは、無し。
テープは……不織布製のホワイトテープとかいう物もあるけど、微妙に高いからセロハンテープでも、いいよね?
コンビニに置いてある品物は基本的に安くないから、あんまり高い買い物はしたくない。
でもそういえば、冷蔵庫の物をほとんど放り投げてしまったのだった。
明日食べる物は、何か残っていただろうか?
惣菜パンくらい買おうか。
いやしかし、パンってあんまり腹が膨れないんだよな。
ここはやっぱりおにぎりとか……お、おお。
百円均一。
これを一人、三個あてで買っていこう。
それから飲み物。
一リットルの紙パック物が意外と安価だ。
玄米茶でいいか。
しかしそれでも会計してみると、千円近くに達する。
恐るべしコンビニ、とてもデザートとかには手が届かない。
……って、そんな事を考えている場合でもない。
コンビニとの往復で、約十分。
自販機とコンビニでの買い物で、合わせてやっぱり約十分。
買い物へ出るほうとしてはそれくらい割と気にならないものだが、しかし一方で動けない体で一人寝かされて、二十分もじっと待つというのはかなり苦痛な筈である。
これ以上長く待たせては可哀相だ。
あー諸君。
早くヤりたいからじゃないからな!
あー諸君。
早くヤりたいからじゃないからな?
重要な事なので脳内で二回繰り返しつつ、急ぎ帰路をたどった。
しかし……。
リリィには何か言われたけれど、やっぱりケーケンするの、早過ぎないだろうか。
そんなような固定観念は、なかなか打ち破るのに難しく。
何か現実感無い感じと、期待と、不安と。
ところが、そんな感じのものを抱えつつ雨の中を行き、アパートの部屋の前にたどり着けば……何やら部屋の中から人の動く気配がするのである。
……誰?
リリィの例もあるし、また他の誰かが来ていないとも限らない。
人は危険に晒されなければ警戒する事を覚えないと云うが、今はそれと逆の状況だ。
少し緊張し、おそるおそるドアを開け……。
「お帰りなさい」
それは果たして、リリィだった。
力が抜けた。
でも、よかった。
「はあ何だ、やれやれ……」
「どうかしましたか?」
「いや、何でも。……動けるの?」
「ホットミルクを振る舞ってもらったお蔭かも知れません。予想より早く回復したんですが、牛乳を放置するのもどうかと思いましたし、掃除をしていました。本当は片付けもと思ったんですが、その前にあなたが戻ってきてしまいました」
「そっか。何か、悪いね」
「いいえ」
「足、大丈夫なの?」
「かなり動かしづらいですが、どうにか」
「あーいやいや、そうじゃなくて……痛く、ない?」
「痛いです。でも、平気ですよ」
何かもう……健気、という言葉で片付けてしまっていい、のかな?
何かもう……いじらし過ぎて。
何かもう……いろいろと。
何かもう……僕は、松平瑞穂が、好きなのである訳だけど。
何かもう……リリィにはさっきああ言ったけど。
何かもう……実は僕の心は既に、彼女へ傾いたり……していたり、するのかな?
「あ、ええと。セロテープ買ってきたけど」
「では貼りましょう。脱いでください」
「いや、自分で」
「背中は無理な筈です」
「あ……そっか。お願い」
「貼ります」
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。
「終わりです」
手際いいなあ。
「僕も、貼ってあげようか?」
「そうですね。座ったほうがやりやすいと思うので、布団のほうでお願いします」
布団がある場所以外の床、ずいぶん散らかってるしね。
移動。
「テープは長目に切って、縦にいくつも貼ってください」
「なるほど」
ぺった、ぺた、ぺたり、ぺったん、ぺた。
「こんな、もんか、な……?」
「そうですね」
いいのかな?
あんまり綺麗にできなかったけど……。
「では……」
「あ。えーと。うん……えーと」
「……はい。お願いします」
ちょっと、見詰め合った。
その視線は、まっすぐ僕を捉え。
その面貌は、可愛さと美しさを兼ね備え。
その肢体は、すらりと神々しく。
この子は……この子が、僕の、初めての人、に……。
「明かりは?」
「どちらでも」
「じゃ、消すよ」
「そうですか」
それが僕の初体験になった訳だが……細かい部分は、よく覚えていない。
何とか記憶に残ったのは……暗がりだったから、避妊具の装着に恐ろしく手間取った事。
期待に反して……僕が彼女に何をしても、まるで無反応だった事。
それでも彼女と一つになれた時……この世のものとは思えない、至福と感動を得た事。
そうしてすべてが終わった後……彼女がこんな言葉を、漏らした事。
「私を……殺してください」




