婚約者が浮気してました。私の大切な人を寝取ったあいつは許しません
短編です。
「あら」
「…どうした、ティアナ」
「い、いえ」
慌てて取り繕うように、ティーカップの紅茶で唇を湿らせた。
「紅茶の香りがいつもと少し違ったので」
にっこり笑って誤魔化す。
「昨日、茶葉を新しくしましたのでそのせいかもしれません」
私の後ろに控えていたマリアが話を合わせてくれたのかと一瞬思ったが、そういえば確かに昨日彼女は買い出しに出かけていた。井戸の傍で手を洗っていた姿を思い出す。
テーブルの向かいに座るエドガーは、手にしていたカップを顔に寄せて鼻をひくつかせた後。
「俺にはいつもここで出されるのと同じに感じるがな」
「私の気のせいかもしれませんね」
その後、別の話題を出して退屈な茶会をやり通した。
全く、どうして今まで気が付かなかったのか。
*****
「浮気…ですか?エドガー様が?」
「ええ」
毎週恒例の茶会を終えた後、口直しの紅茶をマリアに淹れてもらいながら話した。
「気の所為では?」
「以前からそれらしい兆候はあったのよ」
約束をすっぽかされて部屋まで呼びに行ったら、上気した顔で出てきたこととか。
シャツに化粧を擦った跡のようなものを見つけたこととか。
”そういう行為”に使う道具が紙に包まれてくずかごに捨てられていたこととか。
「むしろ何故今まで気付かなかったのか不思議なくらい」
「お相手の方に心当たりは」
「学園の生徒…それも市街層の生徒かと思ってるの」
エドガーが浮気をしているとわかったのは、彼から匂いがしたからだ。
「彼から市街層の婦女子の間で流行しているという、香水の匂いがしたの」
「それは……」
「エドガーはあれで潔癖症なところがあるから、市街区域にでかけるようなことはまずしないし、それ以外で接点なんて学園しかないでしょう?早く相手を突き止めないと」
*****
伯爵家である我が家と、子爵家である向こうの家。
その親同士が決めた仲である婚約者のエドガー。
彼に対して私は恋愛感情を抱いていないし、それは向こうも同じだろう。
周囲から将来の冷えっぷりを危ぶまれて、毎週二人きりのお茶会などさせられているくらいには明らかだ。
まあ、実際彼に魅力を感じていないのは事実だし。
そういう意味では浮気などされたところで気持ち的には痛くも痒くもない。
だが自分の男を別の女に寝取られたという事実は、貴族の女として些か外聞がよろしくない。
婚約者に浮気された愚かな女。その女を輩出した愚かな家。
自分一人が汚名を被るなら別に構わないが、家にまで迷惑をかけたくない。
ならばどうするか。
浮気相手を突き止めるしかない。
これが結婚後であれば取り返しのつかないことになっていたかもしれないが、幸いにも私達はまだ婚約止まりだ。
エドガーの不貞行為を白日のもとに晒し、それを理由に婚約破棄できれば、相手だけを一方的に貶め、私はうまく立ち回り難を逃れた女として悪評を回避できる。
男女の駆け引きには疎くとも、浮気相手を追い詰められる位には賢い娘。
少なくとも浮気を放置して、いつか来る破滅を待つ女よりはマシ。
プラスに転じることは期待し過ぎかもしれないが、マイナスをゼロにするくらいはできるだろう。
*****
「マリア、あなたは明日、エドガーのもとへ行って彼を見張って頂戴。彼が密会に及ぼうとしたらすぐに私のもとへ使いを寄越しなさい」
マリアに髪を梳かしてもらいながら考えた方針を説明する。
普段はメイドとして仕えて貰っているが、密偵や護衛などもこなせる彼女はついつい重宝してしまう幼少時からのお気に入りである。
私より一つ年上だが、落ち着いた物腰と濡れたように艷やかな黒髪のせいで、五歳くらい離れているように感じてしまうことがある。
「承知しました。ティアナ様はどちらへ?」
「とりあえず学園に行くつもり」
「明日は日曜日なので学校は休みですが?」
「大丈夫。学生寮に足を運ぶつもりだから」
髪の手入れを終えた彼女と、目の前のミラー越しに視線が合う。
「では…」
「ええ」
浮気相手の候補は既にある程度絞れている。
*****
まず一人目は同級生で特待生のシャーロットさん。
彼女は市街層出身でありながら、入学試験で貴族の子息に勝るとも劣らぬ成績を叩き出し合格した才女である。
かつては”平民”と呼ばれ、貴族とは揺りかごから墓場まで完全に切り離されていた中流階級だが、近年の政治転換などにより諸々の制限が撤廃あるいは緩和されたおかげで、出自の如何に関わらず交流する機会が増えてきた。
”市街層”という言い方になったのもこうした意識改革の政策が功を奏した結果と言えよう。
私達が通う王立学園も私やエドガーが入学した年から「貴族から推薦を受けた者」という条件付きではあるものの、市街層出身者の受験を許しており、現在全校生徒の1割にあたる100人ほどが在学している。
エドガーの付いていた香水が市街層で人気の商品だと気づいたのも、少し前に市街層出身の同級生と喋った際にその話題が出たからだ。
ただ一方で、彼らと我々のような上流階級の人間とでは、経済力や幼少時から授かる教育の質などに差があるのも事実。それは学力にも反映される。
市街層出身の在校生はその大半が貴族家に引き取られた妾の子だったり、貴族に仕えている騎士や付き人の子だったりと、何等かの形で貴族の教育の…悪い言い方をすれば、おこぼれに預かっている者達だが、傍から見ても授業についていくのがしんどそうだ。
だからこそ、ロクなパトロンもなく完全に独学で名だたるエリート貴族達をごぼう抜きにしてしまったシャーロットさんの優秀さが際立つ。
慈善事業感覚で庭師の娘を推薦したという男爵も、これには驚いただろう。
その優秀さから奨学金を受けながら学園に通う彼女は特待生という立場もあって、控えめな性格とは裏腹に否が応でも目立ってしまう。
生徒会長であるエドガーとの接点も少なからずある。
「私と…エドガー様ですか?」
「かもしれないと疑ったものの、どうやら見当違いだったようですね」
学園寮の応接室。
ちょうど出かけるところだったシャーロットさんを呼び止め、軽く話を振ってみた。
ただ、ここに来るまでの間で既に考えを改めていた。
よく考えれば彼女にそれは不可能だ。
彼女はエドガーの浮気相手ではない。
一応、関係を持っているのか尋ねてみたものの、思った通りの反応。
「まあ、女子寮は門限に厳しいことで有名ですからね…」
「疑ってしまってごめんなさい」
「い、いえ…ことがことですし。心中お察しします」
早計だったと言わざるを得ない。
エドガーの体から残り香を感じたのは土曜の茶会でのこと。貴族の衣服は使用人が毎日交換して洗濯しているため、あれは本人に直接付いていた香りだと考えて良いだろう。
だが金曜の放課後、週末茶会の予定を確認した際には匂いを感じなかった。
ならば不貞行為が行われたのはその後。
金曜の晩から土曜の早朝ということになる。
エドガーの屋敷は学園から少し距離があるため、そこまで行って行為を済ませて帰ってきては門限に間に合わないだろう。
シャーロットさんが浮気相手になり得ないことは少し考えれば分かる筈なのに。
私も自覚こそしていないものの、思ったより気が動転しているのかもしれない。
ありがたいことにシャーロットさんは苦笑して許してくれた。
いい子だ。
優秀であることを鼻にかけず誰にでも分け隔てなく接する彼女には自分も好感を抱いている。
だからこそ申し訳なさが募る。
改めて頭を下げた。
「どうかしていました。本当にごめんなさい」
「気になさらないで下さい。こちらにしてみればティアナ様と喋る機会が得られてむしろ有難いくらい……とと……」
「ん?」
「そ、それより!」
何だか一瞬、シャーロットさんから生ぬるい感情を向けられたように思えたのは気のせいだろうか。
「私が浮気候補の一人だったってことは、他にも候補がいらっしゃるんですよね?」
「ええ、あなたでなければ一年生のドリスさんあたりかなと…」
ああ、とシャーロットさんが納得げに頷いた。
「彼女ですか。確かに人気ありますもんね」
「ええ、人気があり過ぎるといいますか……傍から見ると些か不憫に思えるくらいですが」
一年生のドリスさんは、親戚筋にあたる騎士がエドガーの父に仕えており、その関係から推薦状を貰って今年入学してきた子である。
やや小柄で丸みのある体系の彼女は、その小動物的な愛嬌ある立ち居振る舞いで同級生から可愛がられていた。
本人に媚を売っているつもりはまったくないのだろうが、貴族の子が多い学園だと何をするのもおっかなびっくりらしく、見ているこちらはどうしても庇護欲を刺激される。性格的にもやや気弱なところがあり、周囲からもみくちゃにされても断りきれず、されるがままになっているのが現状だ。
「推薦の都合上、エドガーとの接点もあるし、あの性格なら迫られれば断れなそうなので…」
うーん、とシャーロットさんは人差し指を顎に当てて考える素振りをしながら。
「…でもちょっと彼女はないかもしれませんね」
「あら、どうして?」
「ちょうど約束の時間なので、ついてきて頂けますか?」
悪戯っぽく微笑みながら、彼女は寮の出入り口へつま先を向けた。
そう言えば、どこかへ出かけようとしているところを呼び止めたのだった。
「勿論です」
焦れったさに胸を軽く炙られつつ、私は先導する彼女に従った。
*****
「わ、わ、私がエドガー様と…!?あ、ありませんありません!いえ、別にエドガー様が嫌というわけではなく……あ、だからと言ってティアナ様から奪おうだなんて考えは毛頭なくて……うう」
うん、小動物。
その頭を包み込むようなふわふわした茶髪も、いとこが飼っている愛犬の子犬時代を彷彿とさせる。
遠目から見ても愛らしかったが、こう近いと思わず撫で回したくなる気持ちもわからないではない。
学園の食堂。
日曜日なので食事は提供されていないものの、学生同士の交流のためテーブルは開放されている。
最近冷え込んできたため、出入り口の風を避けた場所に陣取り、私と向かい合うようにしてドリスさんとシャーロットさんが隣り合って座った。
軽く咳払いして気を取り直すと、おろおろと胸の前で動き回る彼女の手を取り、ゆっくり下ろしてあげた。
「落ち着いて。今のあなたを見ればそういうことができないのはわかります。ごめんなさい」
「ひゃ…ティ、ティアナ様のお手々が私の……あばばば……!」
手を包んであげたのは逆効果だったらしい。顔が真っ赤になってしまった。
「ドリスさん」
隣に座るシャーロットさんがどこか底冷えするような声で彼女の名を呼んだ。
「いつまでもそんな風では、ティアナ様に失礼ですよ」
「はいぃ…っ!」
何度かひっひっと息を吸って心を落ち着かせた彼女は、鼻からゆっくり吐いた。
「も、申し訳ありませんでした……」
「いえ、失礼な問いをしたのはこちらですから」
「もう手を離されても大丈夫そうですよ」
ドリスさんの手を包みこんでいる私の手元に視線を釘付けにしたままシャーロットさんが言う。
にっこり微笑んでいるのに、目が笑っていない気がする。
何か背中に逆立つものがあり、私もそれとなく手を離す。
ドリスさんがやや残念そうな表情を浮かべるのと対称的に、シャーロットさんの笑みに温もりが戻った。
まあ、プラマイゼロということで。
「ドリスさんがエドガー様と関係を持っていないことは私からも示すことができると思います。少なくとも、金曜日の放課後は私が寮の門限ギリギリまで勉強を教えていましたし、その際に出した課題も土曜の朝にはきちんとこなしていましたから」
「ええ、シャロ先輩の出す課題をこなしていては、とても逢引などしている余裕はありませんから……」
「あら、私はあなたの学力を見極めて、すらすら解けるほど易しくもなければ、難しすぎて放り出すほどでもない、ギリギリを攻めているつもりですよ」
ははは、とドリスさんが遠い目をして笑う。
学園に入学することこそできた彼女だが、やはり貴族出身の同級生とは学力に大きな隔たりがあり、授業もあっという間につけなくなってみるみる成績を落としてしまったという。
学力で劣等感を抱いてしまった子が、そのせいでさらに学力を落とすという悪循環に陥ることはよくある。
周囲に勉強を教わろうとしてみたものの、彼女の愛らしさのせいで女子はどうしても甘い対応になるし、男子に至っては下世話な視線まで向けてくる。成績は右肩下がりで、いよいよ落第も視野に入りかけた。
覚悟を決めた彼女は、市街層出身ながら成績トップクラスの先輩に勉強を教えて貰えるよう頼みに来たという。
以来、毎日のようにシャーロットさんから勉強を教わり、課題もこなしている。
恋愛の挟まる余地はないそうだ。
「それにあなたは香水とかつけていないようですしね」
「あ、はい…そういったものはちょっと…」
最初に自己紹介した際にそれとなく彼女の体臭を嗅いでみたが、ナチュラルな女の子の香りがするだけで香水の類は微塵も感じられなかった。それはそれで抱き締めたい衝動に駆られたが。
「う、ウチは兄も騎士なので…」
「なるほど」
騎士のいる家庭は男に匂いが移ると戦いの際に位置がバレるという理由で、女も香水はあまりつけたがらないと以前聞いたことがある。
「それに私は正直、エドガー様とかより、その…ティアナ様の方が……」
「ドリスさん、今日の課題は苦手科目を中心にたっぷり出してあげましょう」
「はひぃ…!」
あたふたするドリスさんを目つきのおかしいシャーロットさんに任せ、しばし考え込む。
「でもだとすれば、浮気相手は一体……」
「それなんですが」とシャーロットさんがこちらに向き直った。
「ティアナ様、エドガー様の浮気相手というのは本当に学園の市街層出身者なのでしょうか?」
「どういうこと?」
「現状、相手が学園の市街層ではないかと疑う理由は件の香水だけですよね?」
「ええ」
「一応尋ねるんですが、浮気以外で何らかの形で香水を付けた相手と接する可能性は?」
私は少し考えてから「ないかと」と答えた。
「あの人は基本的に市街層の住む地域には行きたがらないし、学園の外では市街層の方とは会うのも嫌がります。第一、香水の匂いが移るほど異性と肌を密着させる理由が他に見当たらないので」
学園内では生徒会長という立場上、分け隔てなく接して猫を被っているが、外では古い考え方に基づいて露骨に態度を変える。
「そういう人だから尚のこと、市街層出身者でありながら貴族にほど近い場所にいて彼と接触する機会もある学園の者だと思ったのだけれど」
「でもそれなら庭師の娘である私も、親戚に騎士がいるだけのドリスさんも、エドガー様のお目に敵わないのでは?」
「……それもそうね」
父親の家に引き取られて貴族並の待遇で育てられた妾の子や、子息令嬢の付き人などであれば、エドガーも大して嫌悪感を抱くことなく近付くのではと考えて学園の市街層を疑ったが、その中から彼と接触する機会がある人を厳選した結果、貴族並の育ちからは程遠いシャーロットさんとドリスさんが選ばれてしまった。
その矛盾に気が付かなかった自分が情けない。
本当に二人に対して申し訳が立たない。
二人に報いるためにも、何とかして本当の浮気相手を探し当てねば。
そんな風に決意を改めながら、私は引き続きシャーロットさんの言葉に耳を傾けた。
「学園の生徒ではない可能性はありませんか?例えば貴族であっても市街層に人気の香水をつける機会があった方、あるいは学園の生徒でなくとも市街層出身でエドガー様と接触する機会のある方など、心当たりはないでしょうか?」
シャーロットさんに問われ、私は彼の周りにいる女性達を頭の中で見比べた。
「………ああ」
両方の条件に当てはまる人物が一人いた。
「二人ともご迷惑おかけしましたこと、近いうちに改めて謝罪の場を設けさせて下さい」
私はやおら立ち上がると、二人に向かって深々と頭を下げた。
「今は少し急がねばならない用事ができたのでこれにて失礼させて頂きます」
そう言って食堂の出口へ歩を進めかけ、だが立ち止まって振り返った。
「そういえば、ドリスさん」
「え…あ、はい!」
彼女は寝ているところを小突かれた子犬のように、びくりと体を震わせて返事をした。
「あなたがシャーロットさんのことを『シャロ先輩』と呼ぶの、とても羨ましいです。良ければ私のことも今後は『様』付けでなく、是非『先輩』で呼んで頂戴」
「い、いいんですか!?」
「勿論」
「で、で、ではそのようにしましゅ、ティア先輩!」
隣のシャーロットさんが禍々しい視線を送っているが、ドリスさんは全く気にしていないようだった。
うん、こっちもフォローしとこう。
「シャーロットさんも」
呼ばれた彼女は瞬時にこちらを振り返った。
本当に面白い人達。
「今後、私のことはティアと呼んで下さい。あなたのこともシャロと呼んでいいかしら?」
「は、はい!ありがとうございます!」
「ふふっ。ではまた明日、シャロ」
「はい、ティア!」
彼女たちに少しだけ勇気を貰い、私は食堂を後にした。
エドガーと接点があり。平民に人気の香水を付ける機会があり。
そして、今まで私が気付けなかった人物。
そうだ。
何故今まで気付かなかったのかを考えるべきだったのだ。
*****
「いけません…お嬢様があなたの不貞をお疑いになられています。こんなことはもうおやめ下さい」
「いいじゃないか、少しくらい。お前の話によるとあいつは相手が学園の誰かだと思って駆けずり回っているんだろう?」
青ざめた屋敷の使用人を隣に、私は扉の向こうで交わされる会話に耳を傾けていた。
「と、とにかく今後は体についた匂いなどに気をつけて…あ…っ」
衣擦れの音と、木枠の軋む音。
扉に触れれば震動が伝わってくるのではないかと思うほど、エドガーの寝室から聞こえる音はやたらと耳に響いた。
「てぃ、ティアナ様……その……」
「私がここを訪れたことは他言しないように」
視線を向けると、使用人の少女が息を呑むのがわかった。
私は今、どんな表情をしているのだろう。
「誰にも話さなければウチの屋敷で拾ってあげます」
震えながら頭を垂れる使用人を背に、私はエドガーの屋敷を後にした。
*****
「荷物はまとめておきました」
部屋へ呼び出したマリアに私は解雇を告げた。
「お、お嬢様…」
「もうあなたに『お嬢様』と呼ばれる筋合いはありません」
エドガーと接点があるのは私の側近だから。
香水の匂いは金曜日に買い出しをした際、街でつけてきたもの。
調べたところ、いつも彼女が紅茶を調達する店の隣の雑貨屋が、道行く女性たちに売出し中の新商品を勧める際、お試しで手首に一吹きしていることが分かった。
その帰りでエドガーの屋敷に寄り、首に腕を回した際にでも香りが移ったとかそんなところか。
香水は一般に水で洗い流せば落ちるものと思われるが、シャワーを浴びるなど湯を使った際には毛穴が開いてしまうことで成分が入り込んで、匂いが残ることもあるという。
帰宅後、井戸水で手を洗ったマリアからは感じなかった香水の匂いを、シャワーを浴びたエドガーから感じたのもそういった理由なのかもしれない。
おそらく、以前から情事の残り香はあったのだろう。
だが、あまりに慣れ親しんだ使用人の匂いだったために、私は今までその匂いに気づくことが出来なかった。
「エドガーには明朝、両家を通して婚約破棄を正式に伝えます」
婚約破棄を伝え次第、家ごと潰すと父は言っていた。
向こうの家の弱みをいくらか握っているらしい。それを全て白日のもとに晒すと息巻いていた。
『一つ、我が娘を婚約者にしながら不貞を働いた。二つ、その相手というのが我が屋敷で雇用していた者であった。三つ、わざわざ週末の茶会まで催し関係改善に努めていたにも関わらず逢瀬を重ね我が家に砂をかけた。潰すには十分な理由だ』
浮気相手を探し始めた当初は私も婚約破棄くらいで許してやろうと思っていたが、側近に手を出されたし、そうもいかなくなった。
その場に立ち尽くすマリアにせめてもの慈悲で声をかけてやる。
「一応、弁明があるのであれば窺います」
観念して目を閉じたマリアは、だが縋るような声で「エドガー様は…」と絞り出した。
「エドガー様は結婚後の生活で優位に立とうとお嬢様を…」
「あなたの『お嬢様』ではないと言ったでしょう?」
びくり、と彼女は体を震わせた。
鼻を啜り、声を潤ませる。
「…ティアナ様を貶める計画を立てていました」
半年ほど前のことだったという。
エドガーは週末茶会でこの屋敷を訪れた際、わざと家宝の宝玉をマリアの目の前でそれとなく落とした。
「私が拾うとあの男はすかさず『我が家から失われていた宝玉を盗んだのはお前だったのか』などと言い出し、おじょ…ティアナ様の指示でやったのだろうと難癖をつけ始め……っ」
彼女は反論したものの、既に宝玉には彼女の指紋が付いてしまっている。司法の場に出れば、所詮は使用人でしかないマリアよりもエドガーの発言の方が重く扱われるだろうと言われて、気が動転したそうだ。
「私は『黙っていて欲しくば後で自分の屋敷に来い』という彼の言葉に従ってしまい……」
「体を許した、と」
すすり泣く彼女は静かに頷いた。
私はゆっくりと彼女に歩み寄ると、その震える腕にそっと自分の手を添えた。
「私の名誉を守るために、辛い思いをさせたのね」
「…………はい」
「ごめんなさい、マリア。ありがとう」
「おじょうさ」
パン、と私はマリアの腕から外した手を打ち合わせた。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
扉の前で控えていた執事が姿を現した。
「この者に一生食うに困らぬ金貨を授けて下さい」
緩みかけたマリアの顔が引きつる。
「その上で屋敷から追放し、二度と敷居を跨がせないよう、衛兵にきつく申し付けておいて」
「畏まりました」
「な、何故ですか、お嬢様!」
マリアが掴みかからんばかりに迫り寄ってきたので身を躱すと、彼女はその場に転倒した。
そのまま涙を流しながら、怒りとも哀しみともわからぬ瞳を向けてくる。
「これまで仕えてくれた恩義に報い三度まで許したけれど、次に『お嬢様』と呼んだらその首落とすわよ」
「何故…何故なのですか……」
「何故?当然でしょう。あなたは私を裏切ったのだから」
「ですからそれは脅されて仕方なく…!」
「ならば脅された時点で何故私かお父様に訴えなかったの?」
マリアがはっと目を見開く。
「私もお父様も、エドガーの妄言なんかより、あなたの言葉を信じるとは思わなかった?」
「そ、それは……」
「一度体を許してからは尚更言い出せなくなったのでしょう?それは理解できるわ。でもだからこそ、最初に脅された時点からあの愚か者の屋敷へ行くまでの間で、あなたは我が家に仕える者としてまず私か父に訴え出るべきだった」
物心ついた頃から共に育ってきた姉のような存在だった。
だからこそ、気が動転していたとはいえ……いや、そんな状態だったからこそ、自分よりあの男の言葉に従ってしまったという事実が許せない。
「咄嗟の判断で主人を信じられない者をこれ以上、傍に置くことはできない。これは家名を背負っている人間としての決断よ。さあ、出ていきなさい」
貴族として、如何なる理由であっても一度裏切った人間を近くに置き続けるなど許されることではない。
しばらく座り込んだまま俯いていた彼女は、だがやがて膝を折って座り直すと、その場で静かに頭を下げた。
「……これまで……お世話になりました。どうか………お達者で…………」
そうして静かに立ち上がると、よろよろと部屋を出ていった。
「お察しします、お嬢様」
彼女を部屋の外へ見送った執事が声をかけてきた。
「平気よ。それより今後マリアが道を誤ったりしないよう、動向はしっかり追ってあげて」
最早、これくらいしかしてあげられない。
「家名抜きで生活面精神面共に支えてあげるの。人もお金もそれとなく差し向けて。間違っても、自ら命を断つなんてことだけは絶対にさせないで頂戴」
「承知しました」
「……あの男だけは許さない」
自分から大切な奪ったあの男だけは
「地下の拷問部屋を用意して。それから医者の手配を。この街で一番の名医を呼びなさい」
そう簡単に死なせてやると思うな。
舌を抜き、四肢を落とし、目を抉り、鼻を削ぎ、人の形をしなくなるまですり潰して、それでも生かし続けてやる。
私の大切な人を寝取ったあの男だけは、生涯かけて後悔させてやる。
一度大きく深呼吸した後、私は憤怒だけを抱えて部屋を出た。
残されたのは、涙で濡れたカーペットの染みのみ。




