【第2章】桃子との出会い
夜の森は、まるで生き物のようにうごめいていた。
枝が風に揺れ、ざわざわと囁く。木々の隙間から覗く月明かりが、地面に奇妙な影を落としていた。悠月は、息を潜めながら森の奥へと進んでいた。
帝国軍はもう追ってこないのか……?
村を出てから、ずっと走り続けていた。全身が痛み、足元はふらつく。しかし、止まれば捕まる——そう思うと、歩を止めることができなかった。
「はぁ……はぁ……っ」
大きな木の根元に寄りかかり、ようやく肩で息をする。汗が額を流れ、手のひらがじっとりと湿っていた。
バルガスの死。
帝国軍に奪われた「神託の書」。
考えるだけで胸が痛み、拳を強く握りしめた。
「……くそ……俺はこれから、どうすればいいんだ……?」
目の前は暗く、行く先の分からない道が続いている。ただ逃げるだけでは、何も解決しない。
俺は、答えを探さなきゃいけない。
帝国軍がなぜ本を求めているのか。バルガスが命をかけて守った理由は何なのか。
「……進むしかない」
悠月はそう呟き、立ち上がった。
その時だった。
——ガサッ!
何かが、茂みの中で動いた。
悠月は反射的に身を屈めた。帝国の追手か?それとも森に棲む野生の獣か?
音は近い。
じっと目を凝らすと、暗闇の中に人影があった。
人間……?
「……あんた、大丈夫?」
その声は、思ったよりも明るかった。
「——え?」
茂みの向こうから姿を現したのは、一人の少女だった。
月明かりが、彼女の顔を照らす。
肩までの栗色の髪。旅装束に身を包み、腰には短剣を下げている。表情には余裕があり、どこか飄々とした雰囲気を漂わせていた。
「そんな顔して突っ立ってると、魔獣の餌になっちゃうよ?」
悠月は、彼女の言葉の意味を飲み込めなかった。
「……誰だ?」
「それはこっちの台詞じゃない?」
少女は笑い、軽く肩をすくめた。
「ま、名乗っておこうか。私は吉本田桃子。旅の冒険者さ」
悠月は、警戒しながらも名を告げた。
「俺は……青柳悠月」
桃子はじっと悠月を見つめると、少し考える素振りを見せた。
「ねぇ、あんた——帝国軍に追われてる?」
悠月の肩がぴくりと動いた。
桃子の目は鋭く、冗談を言っている様子ではない。
「……なんで、そんなことを?」
「まぁ、色々察しちゃうんだよね」
彼女はにこりと笑った。
「それに、さっきから気配がある。あんたの後ろ、誰かつけてきてるよ?」
悠月の背筋が凍った。
悠月は息を詰め、背後の気配に意識を集中させた。
木々の間から、かすかな足音が聞こえる。乾いた葉を踏みしめる音。誰かが慎重に、だが確実に近づいてきていた。
「……本当に、つけられてるのか?」
「うん。あんたが森に入ってきたときからね」
桃子は軽い調子で言ったが、その目には鋭い光が宿っていた。
「帝国の追っ手?」
「さあね。でも、こっちがどう動くかで、相手の出方も決まる」
悠月は考えた。逃げるか?隠れるか?いや、どちらにせよ、見つかれば終わりだ。
桃子は、そんな悠月の迷いを見透かしたように、にやりと笑った。
「ね、私にいい考えがあるんだけど——乗ってみる?」
「……どんな考えだ?」
桃子は短剣の柄を軽く叩きながら、いたずらっぽく目を細めた。
「シンプルに、先制攻撃ってやつ?」
悠月は息を飲んだ。
「……戦うのか?」
「そりゃそうでしょ。どうせ逃げても追いかけられるんだから、やるしかないじゃん」
「でも、相手は帝国軍の兵士かもしれないんだぞ?」
「だったらなおさらよ。あいつらに捕まったら、私もあんたもタダじゃ済まない」
悠月は桃子の目を見つめた。そこには迷いがなかった。
——この人は、こういう世界で生きているんだ。
悠月の手は、無意識に腰の小さなナイフへと伸びた。
(やるしかない……ここで捕まるわけにはいかない)
「……分かった。どうする?」
桃子は満足そうに笑い、親指を立てた。
「いいね! じゃあ、私が囮になる。あんたはその間に、相手の背後をとって仕留めて」
悠月の喉が引き締まった。
「……仕留める?」
「できないなら、私がやる。でも、戦う覚悟くらいは決めてよね」
悠月はごくりと唾を飲み込んだ。
「……分かった」
森のざわめきが一瞬、静まる。
そして——
「じゃ、いくよ!」
桃子は茂みを蹴り、一気に飛び出した。
——バサッ!
桃子が素早く動き、音を立てて茂みを飛び出した。
「おーい、そこのあんた!隠れてるのは分かってるんだから、出てきなよ!」
まるでからかうような口調だった。悠月は木の陰に身を潜めながら、緊張に震える手でナイフを握りしめた。
相手は一人か? それとも複数? 武器は?
考えるべきことは多かったが、悠月には今できることをするしかなかった。
すると、森の奥からゆっくりと人影が現れた。
——黒い軽鎧を纏い、顔の半分を布で覆っている。
その姿を見た瞬間、悠月の背筋が凍りついた。
「……帝国の兵士じゃない?」
桃子が低く呟いた。
「誰だ?」
男の冷たい声が夜の静寂を裂く。彼は桃子を一瞥し、周囲を警戒するようにゆっくりと歩を進めた。
「ふーん、たった一人? 追っ手にしては少ないねぇ」
桃子は気楽そうに言いながらも、わずかに腰を落とし、短剣を握り直した。
男は答えず、ただじっと桃子を見つめていた。
悠月は木陰から静かに息を整えた。
(今なら……背後をとれるかもしれない)
相手が桃子に気を取られている間に、悠月はゆっくりと足を踏み出した。
——だが、その瞬間だった。
「……チッ」
男の足がわずかに動き、悠月の方向へと鋭い視線を向けた。
「気づかれた——!」
悠月がナイフを握り直した瞬間、男はまるで影のように素早く動いた。
「くっ……!」
悠月が身を引くより早く、男の腕が弧を描く。
——シュッ!
空気が裂ける音。
悠月は咄嗟に身を翻したが、脇腹を鋭い刃がかすめた。
「ぐっ……!」
鋭い痛みとともに、血がにじむ。
「悠月!」
桃子が叫んだ。
男は無言で悠月を見下ろすと、冷ややかに刃を構え直した。
「……なるほど。お前が"標的"か」
悠月は苦痛に顔を歪めながら、ナイフを握り直した。
(こいつ……ただの兵士じゃない!)
「悠月、後ろに下がって!」
桃子が前に出た。
「こいつ、普通の追っ手じゃない……プロの暗殺者だよ」
悠月の心臓が高鳴る。
——俺は、生き延びられるのか?
悠月の心臓は早鐘のように鳴っていた。
「標的」——俺を殺しに来た?
目の前の男は、まるで冷たい刃そのもののようだった。動きに無駄がなく、殺意に満ちた空気をまとっている。
「悠月、戦える?」
桃子が横目で問うた。彼女の顔には余裕があったが、ナイフを持つ手に緊張が走っているのが分かった。
悠月は脇腹の傷を押さえながら、息を整えた。痛む。だが、戦わなければ——ここで死ぬ。
「……やるしかない」
そう言うと、桃子は満足げに笑った。
「いいね、じゃあ——行くよ!」
——シュン!
次の瞬間、桃子が地を蹴り、男に向かって一気に詰め寄った。
「おおっと!」
桃子の短剣が閃く。しかし、男はそれを見切り、わずかに身を傾けてかわした。
「……速い」
悠月は、ただその戦いを見つめるしかなかった。
桃子は攻める。素早い突き、翻るステップ。しかし、男は一歩も引かず、冷静に受け流していく。
(駄目だ……動きが違う。桃子が本気でやっても、相手には届かない)
それどころか——
「——遅い」
男の刃が光る。
「っ!」
桃子は紙一重で後方に跳んだが、頬に薄く切り傷がついた。
「ふぅん、ちょっとやるね」
軽口を叩きながらも、彼女は苦笑する。
「悠月、こいつ……私一人じゃちょっとキツイかも」
悠月は奥歯を噛みしめた。
俺が、動かなきゃいけない——!
恐怖を振り払い、彼は地を蹴った。
「——うおおおお!!」
小さなナイフを振りかざし、男の背後に回り込もうとする。しかし——
「無駄だ」
男の動きは悠月の予想を超えていた。
一瞬で振り返り、肘を振るう。
「ぐっ……!」
悠月の体が吹き飛ばされる。
(強い……!)
地面に叩きつけられ、視界が揺れる。
「悠月!」
桃子の声が聞こえたが、体が思うように動かない。
男はゆっくりと悠月に歩み寄り、冷たい声を放つ。
「……ここで終わりだ」
悠月は息を詰まらせた。
——死ぬ。
このままでは、本当に——
「……いや、まだだ」
悠月は歯を食いしばった。
立ち上がる。まだ戦える——!
悠月の視界がぼやける。
体は鉛のように重いが、それでも——立ち上がらなければならなかった。
「——まだ……終わってない」
彼は脇腹の痛みをこらえ、ふらつきながら足を踏み出した。
暗殺者の男は、冷ややかな目で悠月を見下ろす。
「しぶといな。だが、それに意味はない」
男は剣を持ち直し、悠月に向かって踏み込んできた。
速い——!
悠月の体が反応するよりも早く、刃が閃く——
——キンッ!
刃と刃がぶつかり合う音が響いた。
「……あんた、なかなかやるじゃん」
桃子が悠月の前に割り込み、短剣で男の攻撃を受け止めていた。
「……ちっ」
男はすぐに体勢を立て直し、桃子を牽制するように距離を取った。
「悠月、今のうちに回り込んで!」
桃子が叫ぶ。
悠月はぐっと歯を食いしばり、最後の力を振り絞って動き出した。
「……分かった!」
男が桃子と対峙している間に、悠月は森の地形を利用して背後へ回り込む。
ここだ——!
悠月はナイフを強く握り、思い切り飛びかかった。
「おおおおお!!!」
——スッ
だが、男はそれすらも読んでいた。
「甘い」
悠月の攻撃が届く瞬間、男はするりと体を沈め、カウンターを繰り出した。
——ドンッ!
悠月の腹に衝撃が走る。
「ぐ……っ!」
地面に転がり、息が詰まる。視界がぐるぐると回る。
「悠月!!」
桃子が駆け寄ろうとした、その瞬間——
「——これで終わりだ」
暗殺者の男が悠月に剣を振り下ろした。
悠月は、動けなかった。
(あ……俺、ここで……)
——ガギィンッ!!
突然、空気を裂くような金属音が響いた。
悠月は反射的に目を開く。
目の前に立っていたのは——
「ったく、ギリギリじゃねえか」
悠月の上に降り立ち、片手で男の剣を受け止めている人物がいた。
銀色の髪をなびかせ、軽装の鎧を纏い、まるで戦場に生きるかのような鋭い目つき。
「お前ら、大丈夫か?」
それは、飯田仁典だった。
「……誰だ?」
暗殺者の男が、低く警戒するように問いかけた。
新たに現れた少年——飯田仁典は、悠月の前に立ちはだかるように剣を構えていた。彼の表情は落ち着いており、その姿には迷いがない。
「さあな。ただの通りすがりの元・軍人志望ってとこか」
仁典は軽く肩をすくめ、剣を片手で持ち直した。
「それより、仲間を狙われるのはちょっと気に食わねぇんだよな」
「……邪魔をする気か」
「そういうこと」
暗殺者の男は、ほんのわずかに目を細めた。
「貴様……ただの雑兵ではないな」
「さあな。でも、こっちも簡単にやられるつもりはねぇよ」
悠月は、地面に手をつきながら震える体を起こした。仁典の背中が、異様に大きく見えた。
(この人……強い……)
仁典は悠月の方を一瞬振り返る。
「お前、立てるか?」
「……ああ」
悠月は歯を食いしばりながら立ち上がる。傷の痛みはあるが、今はそれどころではなかった。
桃子も短剣を持ち直し、仁典の隣に並ぶ。
「じゃ、三対一ってことで」
「……愚かな」
暗殺者の男は、無言で剣を構え直した。
張り詰めた空気が森に満ちる。
そして——
「……行くぞ」
仁典が低く呟いた瞬間、戦いが再び始まった。
森の静寂を切り裂くように、仁典が踏み込んだ。
——シュバッ!
彼の剣が鋭く閃く。
暗殺者の男は、一瞬の判断で後方に跳び、攻撃をかわした。しかし、仁典は追撃の手を緩めない。
「逃がすかよ!」
すかさず踏み込むと、鋭い横薙ぎの一撃を放つ。
——ギィン!
男は間一髪で剣を立てて防ぐが、その衝撃に僅かに体が揺れた。
(すごい……!)
悠月は息を呑んだ。
仁典の剣さばきは、悠月がこれまで見たどんな戦いとも違った。無駄がなく、力強く、それでいて流れるようにスムーズだった。
「やるじゃん、元・軍人志望ってのは本当みたいだね」
桃子がそう言いながら、男の隙を突いて横から攻撃を仕掛ける。
——ヒュン!
短剣が空を裂くが、男は体をひねってかわす。
「……チッ」
桃子が舌打ちする。
「動きが無駄に洗練されてるねぇ。ホントにただの帝国の追っ手か?」
悠月も、ナイフを握りしめたまま男を観察する。
——この相手は、普通の兵士ではない。
帝国軍に雇われた刺客……それとも、もっと別の存在か?
「……お前ら、厄介だな」
男が低く呟く。
「だが、俺には関係ない」
その瞬間、男の空気が変わった。
悠月は本能的に感じた。
(ヤバい……!)
暗殺者は一瞬にして姿を消したかのように動いた。
——ヒュッ!
「くっ!」
桃子が後方に跳び、辛うじて回避する。だが、男の攻撃は止まらない。
「次は……こっちか」
男が悠月を狙う。
——刃が、閃く。
悠月の時間が一瞬、止まった。
(避けられない……!)
その瞬間——
「悠月!! 伏せろ!!」
仁典の怒声が響いた。
悠月は反射的にしゃがみ込む。
——ザンッ!
仁典の剣が、暗殺者の刃を弾いた。
「……チッ」
男はバックステップで距離を取る。
仁典は悠月を振り返り、歯を食いしばった。
「お前、戦う覚悟があるなら、もっと動け!」
「……っ!」
悠月の拳が震えた。
(俺は……何をしてるんだ……!)
——今、戦えなければ、生き延びることはできない!
悠月は立ち上がり、深く息を吸った。
「……分かった」
ナイフを握り直す。
(やるしかない……!)
戦いの行方は、ここで決まる——!
悠月の心は決まった。
もう怯えている場合ではない。ここで戦えなければ、もう二度と生き延びることはできない。
「……いくぞ」
震える手でナイフを強く握りしめる。
仁典と桃子が男を牽制している今こそ、反撃のチャンスだった。
——ヒュン!
仁典が鋭い踏み込みから男の腕を狙う。しかし、男はそれを見切り、体を捻って回避する。
「動きが読まれてる……!」
桃子が短剣を放り投げるように男の視界を塞ぎ、その隙に横から攻める。
しかし——
「甘い」
暗殺者の男は、まるで読んでいたかのようにステップを踏み、悠月の方へと一気に距離を詰めた。
「しまった……!」
悠月の体が反射的に動く。
(避けろ……!)
しかし、足が思うように動かない。
男の刃が悠月の喉元に迫る——
「——てめぇの相手は俺だろ!」
——ガキン!
直前で仁典が割り込み、剣を叩きつける。
「邪魔をするな」
男はわずかに苛立ったように呟き、距離を取る。
仁典は悠月を振り返り、怒鳴った。
「悠月!立ってるだけじゃやられるぞ!!」
「……分かってる!」
悠月は歯を食いしばり、全身に力を込めた。
(俺だって……!)
生きるために、戦うんだ——!
悠月は低く構え、一気に駆け出した。
男は、それを冷静に見つめる。
「無駄だ」
悠月の攻撃が届く前に、男が動く——その瞬間。
——ヒュッ!
「なっ……!」
男の足が、一瞬沈んだ。
「……縄?」
気づいた時には遅かった。
桃子が、いつの間にか男の足元に細い縄を仕掛けていたのだ。
「かかったね」
桃子が悪戯っぽく微笑む。
「悠月!! 今だ!!」
悠月は迷わなかった。
「——うおおおおお!!」
全力で踏み込み、ナイフを振るった——!
——ザシュッ!
男の肩に深々とナイフが突き刺さる。
「……っ!」
男が初めて、痛みの表情を見せた。
「やった……!」
悠月の手には、温かい血の感触が残っていた。
男は肩を押さえながら、一歩後退する。
「……なるほどな」
彼は悠月を見据え、静かに呟いた。
「……今日は引かせてもらう」
そう言うと、男はすっと闇に溶けるように姿を消した。
「お、おい!」
悠月は追おうとするが、仁典が止めた。
「やめとけ。深追いは危険だ」
桃子が短剣をしまいながら、ほっと息をついた。
「いやぁ〜、ちょっと焦ったけど、勝ちは勝ちってことで!」
悠月はナイフを握りしめたまま、荒い息を吐く。
戦いは終わった——いや、まだ始まったばかりなのかもしれない。
「……ありがとう。二人とも」
悠月は、小さくそう呟いた。
生き延びた。だが、まだ終わりではない。
彼の旅は、これから始まるのだから——。