8.たとえ君の言うとおりだとしても
「メッセ、え、電報配達員?」
何も知らないヴェールイは当然そう考える。
妹から手紙でも届いたのかと、のんきなことを思ったほど。
だが現実は違う。
そして
幸か不幸か、看守はそれを訳知り顔で語ったのである。
「なんでも『メッセンジャー』ってのは、人の記憶や考えてることが分かるらしい。
つまり、おまえさんが必死に黙秘してきたことも全部ムダってわけだ」
「な……」
ヴェールイの心臓は一瞬で凍った。
正直眉唾な話である。
というか普通あり得ない。
信じる要素がない。
しかし彼にとっては違った。
極限状態が続く日々に、判断力が低下していたのもあるだろう。
0.01パーセントの確率でも、妹のために無視できなかったのもあるだろう。
その決断をする言い訳に、なんでもいいから理由が欲しかったのもあるだろう。
ただ、
その『メッセンジャー』とかいうのが、オレの情報を吸い出してしまったら
それで万が一、指示役に繋がる何かをつかまれてしまったら
アリョーナは
ヴェールイはゆっくりベッドから立ち上がる。
すっかり痩せ細った体のくせに、妙に重い。
それでも彼はなんとか二本足で立つと
前歯で自身の舌を挟む。
体幹までボロボロの体は、意図しなくとも前傾姿勢。
自然と頭が壁に向かって差し出されると、世界が決断を肯定したように感じられた。
そうすると、俄然何かが湧いてくる。
勇気とか決意の力とも違う、解放感とも諦めとも違う、
ただ、この世の全てから浮遊してしまったような感覚。
ヴェールイは適当な壁のシミを見定め、そこをゴールに決める。
シミュラクラ効果だったか。
ちょうど3つの点が意味ありげに見えたのだ。
彼はふくらはぎに力を込めると、
その逆三角形の中心へ向かって駆け出した。
しかし満身創痍なのだ。
思うように体は動かず、自分でも走れているのかもがいているのか分からない。
ただ、重い頭部を突き出した姿勢が、前方に倒れ込む動きを生み出す。
ヴェールイはそれを利用し、引っ張られるように壁へと突き進み、
アリョーナ
あぁ
アーリャ
ゴールにたどり着く直前
人の顔に見えるとかいう3つの点が、
一番大切な人の笑顔に見えた。
「んあ〜ぁ、あっ?」
看守が軽くあくびをしたそのときだった。
ベッドの上で死んだように動かないし、正直油断があったのだろう。
ゴッとかガンとか、オノマトペにすれば日常生活でも聞くような
それでいて、何かに例えようとすると同じ音が思い付かない鈍い音。
彼が音のした方へ視線を戻すと、
そこにはすでに、壁に新たなシミを作って崩れ落ちる
人間だったものがあるばかりだった。
狭いアパート内では、沈黙がより大きく聞こえる気がする。
タシュとアーサーは先に静寂を壊すのが気まずいのだろうか。
身動き一つせずに固まっている。
しかしジャンヌにとってはどうでもいいことらしい。
彼女は語り終えると、疲れ切ったように横になる。
枕を抱き締めたまま、二人には背を向けてポツリ。
「私は『メッセンジャー』という仕事が人のためになると。そのために今までがんばってきました」
静かな、聞こえるか聞こえないかの声。
「私が壊してしまった、私の家庭。人の心と心を繋ぐことで償いになると信じて、信じていたのに」
けれど誰かにちゃんと聞いていてほしそうな声。
「私が、『メッセンジャー』が、『メッセンジャー』であることが。人を殺してしまった」
だけれど素直に泣けはしない、必死に波を抑えるような声。
ジャンヌはあくまでこちらを向かない。
なので彼女が今どんな表情をしているかは分からない。
だが背中や肩だけでも読み取れることはある。
小刻みに震えたり、深い深呼吸で大きく上下したり。
「だから、もう辞めてしまおうかと。こんな仕事、ない方がいいでしょう?」
彼女が何を思っているのか。
彼女に何が必要なのか。
「ねぇジャンヌ」
タシュはようやく動くと、ベッドの端の方へ腰を下ろす。
相手とは背中合わせの向き。
僕は今の君を無遠慮に見ないし、無遠慮に触らない
そんな配慮と同時に、
沈むマットレスの振動。
近くにはちゃんといることが伝わる。
「まず事実としてね。『君が殺した』っていうのは絶対に違うんだ。君の主観ではそれが真実でも、客観的事実としては君のせいじゃない。受け入れられなくとも、そういう考え方があるのは分かっておいて」
ジャンヌは否定も肯定もしない。
返事をされて、今の声を聞かれるのが急に恥ずかしくなったのかもしれない。
それくらいには今、タシュが寄り添おうとしていると伝わってはいるのだ。
「それと、辞めるのは君の自由だとしても。『メッセンジャー』なんかない方がいいってのは、違うと思うんだ」
いつもは口を挟んだりするアーサーも、今回ばかりは静かに見守っている。
「月並みだけど、君が解決してきた依頼で何人が救われた? 人を救えば全て帳消しになるとは言わない。でもそれと同じように、誰かを救った事実が消えはしないんだ」
ジャンヌは返事の代わりに、ギュッと枕を抱く腕に力を込める。
どういう意図かは分からない。
それでも、話を聞いて、何か心の動きがあったのだ。
「何よりね。君は過去に対する罪滅ぼしの場を求めている。『メッセンジャー』として人の心を繋いできたことがそれになるなら。他でもない君に必要なものだ。そして」
タシュはようやく振り返ると、
ジャンヌの肩に、そっとシーツを被せる。
「『君に必要なものが、ちゃんと存在している』それが僕にとって必要なんだ。だから、できればそのままであってほしいな」
そのまま彼は勢いで頭を撫でようとして、
ギリギリ手を引っ込める。
見られてはいなかっただろうが、バツが悪そうに笑うと
「じゃ、いい加減お茶でも淹れようか」
ベッドからゆっくり立ち上がった。




