7.兄の戦い
王国は世界最大最強国と言って差し支えない。
本土の島こそ小さいが、世界中に植民地を持つ『太陽の沈まない国』。
合衆国が独立して久しいものの、いまだ超大国の地位は揺るぎない。
本作ではずっと『王国』と呼称されているが。
この時代は周辺国が大体帝国ゆえの、便宜上の呼び名であり、
なんなら国際社会において、帝国といえば王国のことなのである。
そんな世界のトップランカーが、ヴェールイの新しい相手だった。
正直緊張したし、恐怖ですらあった。
それでも合衆国から帰国し、休暇を得て故郷へ戻り、
アリョーナと夕食を囲んだとき。
「兄さん。今度の休暇はいつまでいられるの?」
「それがね、たっぷりひと月はゆっくりできるんだ」
「まぁ! 太っ腹な会社なのね」
「いやなに、特別なんだ。次からは王国に出向でね。準備があるから」
「王国」
「栄転だよ?」
「そうね」
彼女は相変わらず質素なスープをスプーンでかき回しながら、
「合衆国よりは近いわね」
うれしそうに微笑んだ。
「五十歩百歩だよ」
「それでもよ。それより出世したのね! じゃあ明日は奮発してお祝いしないと!」
「そりゃ楽しみだな!」
「私、今度のお土産は紅茶がいいわ。本場のお茶でジャムを舐めるの」
「おいおい、向こう1ヶ月はここにいるんだからな?」
その姿が、その姿だけが、
ヴェールイに勇気と使命感を与えるのだった。
しかし、グローバル化の黎明期だった合衆国と王国は違った。
毎日のように移民の人材が乗り込んでくるわけではない。
よって異邦人を正しく警戒する土壌があり、
明らかに北東人であるヴェールイが、いきなり軍関係の工場には入れなかった。
そこで彼はまず、在王国北東人のコミュニティに近付いた。
海外で会う同胞は、詐欺師でなければ親切なものである。
民族への帰属意識とともに、
『亡命してきた』と言えば、深く同情し受け入れてくれた。
彼らの大半がそうであるように。
しかしヴェールイがここに来たのは、寂しさを埋めるためではない。
彼は北東移民3世の、クラウス・カスパロフという青年に近付いた。
カスパロフ家は3代に渡る暮らしによって、『無害な王国人』という立ち場を得ている。
また、年齢もヴェールイに近く、親とも疎遠な独身の一人暮らしだった。
二人はどんどん意気投合し、コミュニティ外でも親しく会うようになり、
ある晩ヴェールイはカスパロフになった。
重いライフルを抱えて雪山を走り回り、200メートル先の標的を正確に撃ち抜く。
そんなこと何度もこなしてきたのに
おもちゃみたいなピストルで、至近距離の背中を撃つ。
それだけの引き金が、妙に硬かった。
しかしクラウス・カスパロフは善良な市民である。
彼はなんの問題もなく、軍用車両の工場に職工として転職することができた。
入ってしまえばこっちのものである。
もちろん全てを教えてはもらえないが、部品単位では何を作っているのか聞き放題。
ネジやその他部品の規格も測り放題。
なんなら現物をくすねるチャンスすらある。
実際は監視や荷物検査が厳しく、やりたい放題ではなかった。
それでも成果は大違い。
本国から『祖国は君の働きを大いに評価している』との言葉を賜った。
個人的にもアリョーナから紅茶に関して『余は大変満足である』。
彼の人生は全てがうまくいっている
はずだった。
カスパロフが工場で働きはじめて2ヶ月ほど
ちょうど午前の作業、エンジンを組み立てていたときのことだった。
「クラウス・カスパロフくんだね?」
キャメルのトレンチコートに中折れ帽。
明らかに工場の人間でもカタギでもない3人組に声を掛けられた。
「は、はい」
「ちょっと同行願えるかな?」
彼らは言うまでもなく王国軍情報部のエージェント。
スパイ狩りの専門家たちだった。
どこからバレたかはいまだに分からない。
本国とのやり取りでヘマをしたか。
別のスパイが捕まって、何か情報を漏らしたか。
あるいはカスパロフ殺しから足が付いたのか。
なんにせよ確かなことは、
「ではこちらへ。抵抗しようと思わないことです」
「……はい」
男たちが乗ってきた馬車に乗せられ、ドアを閉じられるが最後
ヴェールイの人生も幕を閉じたということである。
それからは当然、拷問と尋問の日々であった。
詳細は控えるが、足の先から頭の先、身体から精神まで。
ありとあらゆる責め苦に曝された。
「どこまで情報をつかんでいる。言え」
「どこまで情報を送った。言え」
「おまえ以外にどれだけのスパイが潜伏している。言え」
毎日毎日、変わり映えのしない質問と暴力が飛んできた。
もちろん吐いてしまえば、命はともかく楽にはなれただろう。
しかしヴェールイは黙して口を割らなかった。
悲鳴を上げても、何一つ意味のある情報は出さなかった。
他のスパイについては、本当に何も知らないというのはある。
連携することがないので、必要も機会もなかった。
知っているのはただ一人。
顔も名前も居場所も知らない(王国にいるのはいるらしい)元締めの電話番号くらいである。
それでも彼は何も答えなかった。
なぜなら、おそらく自分が逮捕されたことは本国も把握しているからである。
急に連絡が取れなくなったのだから、察するというもの。
そのタイミングでスパイ狩りが加速したら。
当然ヴェールイが自白したと考えられるだろう。
彼は祖国を裏切った犬畜生の烙印を押されることになる。
いや、それはかまわない。
自分がどれだけ貶められようと、そんなことは些細なことだ。
問題は、
──兄さん!──
最愛のアリョーナ。命より大切な妹。
きっと彼女も粛清されてしまうだろう。
それだけはあってはならない。
許されない。
自分には何があっても、アリョーナだけは守らなければならない。
祖父が死んでから今まで、ずっとそのためだけに生きてきたのだから。
だからヴェールイは耐えた。
このまま拷問死してもかまわない。
それが妹を守ることに繋がる。
そう思えば不思議と、痛みも苦しみも効かないような気がした。
そんな、これまでのお話。
ヴェールイが今日も尋問に耐えるため、決意を新たにするため
虚空に記憶を描いていると、
「よう、スパイ野郎」
それを掻き消すように、嘲笑うような声が掛けられる。
痛む体でゆっくり顔を向けると、そこには馴染みになった看守が立っていた。
彼は声のとおり、ニヤニヤしながらヴェールイを見ている。
「おまえもよくよく運のない男だな」
「……そうだな」
ヴェールイは自分の境遇について言われていると思い、素直に肯定する。
しかし、
話はそれどころではなかったらしい。
「今日はな、おまえのために『メッセンジャー』ってのが来るんだぜ」




