6.メッセンジャーは手袋をしていなかった
前述のように、ジャンヌ=ピエールも乗馬は嫌いではなかった。
『人馬一体』
馬に乗せてもらうには、彼らの機嫌を理解していないといけない。
思うように動いてもらうには、こちらの考えや指示が通じなければならない。
ロスなく走ってもらうには、動きを同調させなければならない。
まさに馬と一つにならないと完成しない取り組みなのである。
馬は人の言葉を理解するし、『どうどう』なんて言葉もあったりする。
だが、彼らの側から言葉を発したりはしない。
そもそも人を乗せて走る義理はないので、協力的とはかぎらない。
それでもともに過ごし、仕草や態度で気持ちを察し、歩み寄りを続けると、
ある日向こうも乗せて走ることを受け入れ、愛してくれるようになる。
彼女はその模索の道のりと、心が通った瞬間を
神経が繋がっていない馬体に来る向かい風すら感じるような
一つになれる感覚を愛していた。
「馬の気持ちになりなさい。心を読みなさい」
先生は常日頃そう説いており、ジャンヌ=ピエールもそこを目指していた。
そんなある日のことだった。
ジャンヌ=ピエールはいつも、馬に乗るまえに相手の首を撫でていた。
あいさつのようなもので、必ず乗馬用の手袋を外して行なうのがルーティーンだった。
その日も厩舎から連れ出した馬の首を撫でた、そのときだった。
『今日はお嬢ちゃんか。蹴りが優しいから好きなんだよな』
「え?」
彼女の脳裏に、声が響いたのである。
思わず周囲を見回したが。
少なくともあんな響き方がする距離に人はいない。
というかそもそも、今のは人の言う内容ではない。
乗馬の指示の過程で蹴られる、
つまりは馬側の思うことである。
彼女が人を蹴るようになるのはタシュと出会ってからである。
「もしかして」
ジャンヌ=ピエールはふと、今首を撫でている馬と目が合った。
馬は優しい瞳で彼女を見ている。
いつだって優しい目をしている。
しかし、
「気のせいか、自惚れか」
そんなはずはない。馬がしゃべるわけがない。
馬に愛されたいという、自分への贔屓目が聞かせたものだろう。
その日はそう片付けた。
だが、また別の日。
その日も素手で首を撫でてやると、
『今日はやるぜ! 飛ばすぜ!』
「は?」
そんな声が聞こえてきたのである。
「私は疲れてるのか?」
またも気のせいと流したジャンヌ=ピエールだが、
その日馬は軽く蹴っただけで、彼女の想定以上にグングン駆け回った。
『右後ろ脚がなんか変だ』
という声を聞いて診てもらうと、見事に蹄鉄が欠けていたこともあった。
段々自分に何が起きているのか少女が察しはじめたころ。
それでも
『一流の騎手になれたんだ。だからいろいろ気付けるんだ』
と片付けていたころ。
決定的なことが起こった。
ジャンヌ=ピエールは学校ではおとなしい子であった。
母の目がないために、ここでは好きなだけ静かに過ごせる。
そのため、あまり人には関わらず、
ぶつかったり触れたりすることも多くなかった。
そんなある日、帰り支度をしていたときのこと。
前の席の子が筆箱をカバンに入れようとして
「あっ!」
落とした。
たまたま口が開いていたために、鉛筆や消しゴムがぶち撒けられる。
ジャンヌ=ピエールも積極的に交流はしないが冷酷でもない。
鉛筆削りを拾い、
「どうぞ」
「ありがとう」
手渡そうとして触れたそのときだった。
『あ。ジャンヌちゃん、爪割れてる』
「へ?」
「どうしたの?」
「あっ、いや」
また脳内に声が響いたのである。
それも、馬のときには分かるべくもない、
相手の少女本人の声で。
思わず右手を確認すると、知らぬ間に人差し指の爪が欠けていた。
彼女はこの日、自分に読心の能力があることを認めた。
しかし、なかなか認めなかった割に。
いざその段になってジャンヌ=ピエールは悲観しなかった。
「これでますます乗馬が楽しくなる。馬の体調不良にも気付いてあげられる」
そのくらいにしか考えていなかった。
今のところ、将来厩務員か馬医になりたい少女には『ちょうどいい』程度の話。
自身の馬を思う気持ちに、天がギフトを授けてくれた
なんて喜んでいるくらいだった。
しかしその感情は、その日のうちに砕け散ることとなる。
「ただいま」
夕方。
ジャンヌ=ピエールが帰宅すると
「お帰りなさい」
母はキッチンで夕食を作っていた。
「ちょうどよかったわ、ピエール。グリンピースのポタージュを作っていたところよ。手伝ってちょうだい」
「……分かった」
彼女が手を洗い戻ってくると、調理工程はグリンピースを潰す段階に。
「さ、ピエール、お願い」
「ん」
ボウルと麺棒を渡され、作業をするジャンヌ=ピエールだが。
このごろは少し、嫌いなメニューへ真面目に取り組むのがバカらしくなってきた。
それが動きに出ていたのだろう。
「ピエール。何度も教えたでしょう? こうよ」
見かねた母が背後から手を伸ばし、麺棒を握る彼女の手に重ねる。
動きを直接教え込もうとしたのだろう。
その瞬間だった。
『どうして』
「!」
少女の脳裏に、母の声が流れ込んできた。
それは
『どうしてこの子は女の子に生まれてきたの?』
『ピエールの月命日に生まれた、約束の生まれ変わりのはずなのに』
『確かに目鼻立ちはスッキリしてる』
『確かに声は低い方』
『確かに背は高い方』
『確かに胸は薄い』
『でもそれも、女の子の範疇じゃない!』
『この子はどうしたって女の子じゃない!』
『ずっとピエールとして育ててきたのに! ピエールになるよう育ててきたのに!』
『この子はどんどんピエールから離れていく! ピエールじゃなくなっていく!』
『このままだと、ピエールが失われてしまう。私はどうしたらいいの? 約束はどうなるの?』
『私のピエールはどこにいるの?』
『私のピエールを返して!』
『男の子に、本当のピエールに生まれてくれればよかったのに』
『こんな』
『娘なんか産んだばっかりに』
残酷な現実であり、地獄のような時間であった。
強烈な目眩と吐き気が襲い、体のあちこちから汗が吹き出した。
今すぐにでも、心を読むのをやめたかった。
この情報を遮断したかった。
しかし、母の方からガッチリ握っている手を解く手段はなく、
彼女は初めて、この力がON/OFFもできないこと
絶望的な呪いであることを理解した。
「どうしたのピエール。ちゃんと自分で手を動かして」
「はっ」
ジャンヌ=ピエールは母の声で我に返る。
しかしそれは、あるべき世界へ引き戻してくれる母の福音ではなく、
地獄へ引きずり込む呪いの嘶きとしか思えなかった。
「ピエールったら」
「はっ、はっ……!」
最初についた息が、乱れたまま戻らない。
苦しい。
うまく酸素が吸えない。
「どうしたの? 具合悪いの?」
「いや、まぁ、そうかな」
「それは大変だわ。部屋でゆっくりしてなさい」
「うん」
ようやく彼女は母の手から解放されたが、
そのあとのことは記憶がない。
ただ視界が真っ暗になったようにも、
何かがチカチカ光っているようにも感じた。




