4.伯爵は斯く語りき
なんとなくとはいえ、動きを目で追っていたにも関わらず、
「がっ!! うっ……ぐ」
「あ、ああ、あぁ……」
『硬いガラス製の灰皿で殴られた』
トーマスが理解するには、床に血まみれの実物が落ちてくるまでかかった。
落ちてくる。
それを待ち受けるような位置で、視界の左からやってくるのを見る。
彼は同時に、ようやく自分が床に倒れていることにも気付いた。
トーマスの状況はそんなものとして。
「ああっ!!」
灰皿を落とすほど取り乱しているキャスリーン。
彼からは見えないが、おそらく顔を両手で覆っていることだろう。
見えている足元はガクガク震えている、のだと思う。
正直視界がボヤけて揺れて、何もどうにも分からない。
そのまま彼女は、
「いやああぁぁ!!」
部屋を飛び出していってしまった。
残されたトーマスの心にあるのは後悔である。
『浮気しなければよかった』とかは、今さら悔いる資格などない。
ただ、そのために妻を傷害罪に、
いや、
「うっ……ぐっ……」
このままでは、なんだろう。
なんと言うのだっけ。
分からない。
それが証拠。
それはよくない。
それだけは避けねばならない。
悪いのは自分なのに、妻に罪を背負わせてはならない。
視界は霞み、思考は回らず、手足はもう痺れてきた。
それでも何か、本能というか。
例えば蟻が群れのため、機械的に動いて死んでいくような。
もはや自身の意思を超えたようなところから湧く活力で、トーマスは床を這う。
ゆっくり地道に向きを変え、窓側へ向かうと、
「キャスリ……すまな……」
桟をつかみ、無理矢理上体を持ち上げ、
「人殺しには……させな……い……」
震える手で窓を開け放ち、
雪降る夜の外気を浴びながら、
暗い夜道、2階分下の石畳へ、
するりと、干した布団がずり落ちるように身を投げた。
それから1秒としないうちに鈍い音がして、
彼の頭は、妻の付けた傷ごと砕け散った。
「まさかそんなことが、ねぇ」
一連の話を聞き終わったタシュは、リアクションに困っているようだ。
そりゃそうだろう。
ただ自殺の動機を測るだけだったはずの案件が、まさかの犯罪捜査に。
その原因がいい話なのか、そうでもない浮気話なのかも困惑するが、
何より、気付けば犯罪を隠蔽するかどうかに巻き込まれている。
「どうしましょうね?」
ジャンヌも困った笑みを浮かべている。
しかし急に振られたって、彼になんの答えが出せるだろう。
かろうじて出した答えは、
「とりあえずどこか暖かいお店に入ろう」
「即座に通報するべきだろう」
時刻はもう夕方。
暮れなずむ街を行く車の、2人掛けの後部座席。
そこに無理矢理3人で座った向かって左。
アーサーは力強く言い切った。
「気持ちは分かるぞ? それぞれ同情するよな。浮気された妻にも、最後くらい命を使って守ろうとした夫にも」
彼はギチギチに詰まった車内で身振り手振りを入れる。
隣のジャンヌは迷惑そうにしている。
その彼女が寄った分、タシュは壁に押し潰されている。
「しかし王国は法治国家だ」
だがアーサーに気にする様子はない。
「私だって君の立場なら悩むさ? 夫の遺志を感じることは、話で聞くより切実だろう。それを踏みにじることになってしまう。避けたいに決まっている」
弁舌が止まる様子もない。
「依頼人に伝えるのも辛いだろう。何せ、彼の残った唯一の肉親を奪うことになる。躊躇して当然だ。しかし」
「王国は法治国家ですからね」
「そういうことだ」
アーサーは腕を組み、大きく頷く。
その一方で不思議そうな顔もする。
「君だってそれくらいは分かっているだろうに」
「えぇ」
「分からないのは、それで君が通報をためらうことだ。何も私だって、メッセンジャーくんが冷血だとは思っていない」
彼はジャンヌの顔をじっと見つめる。
「だが、それで判断を見失うほどの人間ではないだろう」
「買い被りかもしれませんよ」
対して彼女はさらりと流し、
「けっ。おまえにジャンヌの何が分かるってんだよ」
その向こうでタシュが悪態をつく。
これにはアーサーも反応する。
「雑な口撃をするじゃないか。君は何かと過ごした時間でマウントを取ろうとするよな。それしか取り柄がないかのように」
「はぁ?」
売り言葉に買い言葉、ヒートアップしかかるタシュだが、
パッと堪えるような顔をしてジャンヌを見る。
まるで彼女に何か確認を取るような、
あるいは気を使ったかのような。
それを察したのか、ジャンヌは深いため息をつく。
「別に私がミスター・ケンジントンを擁護する理由はないのですが。今回に関しましては、多少伯爵が思ってらっしゃるのとは違う要素があるのですよ」
「違う要素?」
「はい」
彼女は狭いなかで、なんとか小さく居住まいを正す。
「真実を話すということは、フリッツさんにもトーマス氏の不倫が伝わるということです」
「そうなるな」
「『父の自殺の原因が分かれば、母も立ち直れるかもしれない』とおっしゃるほどの人です。きっと相当家族を大切に思ってらっしゃる」
ジャンヌはアーサーから目線を外すと、少し遠くを見つめた。
「その幸せを、壊すことになるかも……」
アーサーはその横顔をしばらく見つめていたが、
「そういえば」
やがてポツポツと言葉を紡ぎ出す。
「君は以前、マルクス家の案件でも似たようなことを言っていたな。それで“『メッセンジャー』を使うのはオススメできない”とも」
「えぇ」
「……」
伯爵はここで数秒を間合いをとった。
しかし、
「聞いてもいいか」
意を決して相手を真っ直ぐ見据えると、
「なんなりと」
彼女も涼しげに見つめ返す。
なのでアーサーは、溜めた分だけおずおずせずに切り出す。
「君ほどの人間が、職業倫理すら超えて優先する
『美しい家族愛を壊したくない』
『円満な家庭に対する執着』
というのは、いったいどこから来ているんだ?」
その疑問に、ジャンヌは表情ひとつ変えず、何も言わない。
「いや、私の思い過ごしならいいんだがね」
慌てて付け加える伯爵に、
「そうですね」
彼女はようやく口を開く。
「伯爵は私を愛しておられますね?」
「なんだね藪から棒に。当然だとも」
普段なら実に嫌そうにしている話題である。
しかしジャンヌは、今回ばかりは微笑んだ。
爽やかに、
少し悲しげに。
「では、虎の尾を踏まないように、知っておいていただきましょうか。
私が『メッセンジャー』などしているルーツについて」




