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3.ジャンヌが見た雪の夜

「どう、って」


 聞かれていないタシュがつぶやくほど突飛な質問。

 どうしてそんなことを聞くのか。

 彼なりに考えようとしているあいだに、電話口では


「『自殺』ですか。そうですか。ありがとうございます。はい、失礼します」


 用が済んだらしい。


「電話、ありがとうございます」


 受話器を返して、ようやくタシュの方を向く。

 そのころには彼も、ある一つの推論を導き出せたらしい。

 もしくはジャンヌの表情を見て確信したか。


「ねぇジャンヌ」

「なんでしょう」

「君は、オーベンさんの死の動機を探るべく記憶を読んだんだよね」

「そうですが」



「そこで君は、何を見た?」



 彼女はすぐに答えず、タシュが真横まで来るのを待つ。

 それから彼の袖を摘んで小さく引っ張った。


 あざとい仕草ではない。



「殺人現場を」



 詳しく話すには場所を変えねばならない、ということである。






 二人は近くの噴水公園のベンチへ。

 ここなら人は多くない。

 いてもランニングで通り過ぎるか、耳の遠そうな老人くらい。


「はいこれ」

「どうも」


 時間も時間なので昼食を摂ることに。

 タシュは屋台でサンドイッチを買ってきた。全粒粉で、ハムチーズレタスとオイルサーディン。

 それと瓶牛乳を渡しつつ、彼はジャンヌの隣に腰を下ろす。


「それでジャンヌ。君は『殺人現場を見た』って」

「言いましたよ。事実です」


 今は落ち着いたのか、彼女は冷静にハムチーズレタスにかぶり付く。


「それで警察に確認したら、向こうでは『自殺』」

「でしたね」

「……それだけ?」

「とは」


 タシュはずいっと相手に体を寄せる。

 ジャンヌは狭いベンチの中で逃げようとするが、彼は素早く肩へ手をまわす。

 今は下心ではなく真面目な話なのだ。


 タシュは一応周囲を見てから、耳元で少し小声に。


「あのまま通報しなくてよかったのかい!? 今のは疑問じゃなくて反語だよ! 当然するべきだ!」

「えぇ、まぁ」

「響かないなぁ! 殺人だよ殺人! 犯罪じゃないか! 何を迷うことがある! 市民の義務だ!」

「それはそうなんですがね」


 あの人を罵倒するにも躊躇のないジャンヌが、なんとも歯切れ悪い。

 こうなるとタシュも察する。


「なんか、複雑な事情を読んだのかな」

「そういうことになります」

「でも個人の事情ったって、国家の法律に()かずだ。君個人が判断することじゃない」

「分かります」

「だから」


 彼はまわしていた手で、相手の肩をポンポンと叩く。


「僕に話してごらん。一緒に考えよう」











 雪の夜だった。

 ある一戸建ての2階、書斎にて。


 食事も終えたトーマス・オーベンは、ソファにゆっくり埋もれていた。

 ワインと()()()とミステリ小説。

 これが彼の就寝までのリラックスタイムである。


“チン・ルーの切れ長の目が──”


 トーマスがページを捲ろうとしたそのとき、



 コンコンコン、とノックの音がする。



「入っていいぞ」


 彼が本を一度閉じると、入ってきたのは



「あなた、お話があります」

「キャスリーンか」



 彼の妻であった。


「なんだ、話とは」


 トーマスはパイプの中身をガラスの灰皿に出す。

 すると副流煙を嫌う彼女はようやく近くへ寄ってくる。

 椅子は彼が座っている一人分しかないので、デスクを挟んで見下ろされるかたち。


 しかしそこには、単なる位置関係以上の冷たい気配があった。

 トーマスの背に冷たいものが走る。


 走るだけの心当たりがあった。



「あなた、浮気しているんでしょう?」



 間を置かず答え合わせがなされる。

 どうしようもないくらいの正解であった。


「ぅむ」

「むじゃないのよ」


 思わず漏れた言葉すら拾って叩かれる徹底ぶり。

 いつもより半音低いくらいの静かな声だが、これは相当怒りを孕んでいる。

 まぁ当然ではある。


「そんなわけないだろう」


 だが、ここですんなり自白するくらいなら、最初から浮気などしない。

 とりあえず()()()()()()()みるが、


「証拠があるのよ」


 すっとキャスリーンの手がテーブルを滑る。

 目の前へ差し出されたのは、



 自分が会社の部下とホテルへ入っていく写真。



 心当たりのど真ん中、致命的1枚。


「これは」

「探偵さんを雇って、調べてもらったの」

「ち、違うんだ、これは」


「何が違うのよ!!」


 往生際の悪さを見せた瞬間、キャスリーンに火が着く。

 さっきまでの静かな怒りは弾け飛び、握り拳がデスクへ落とされる。

 衝撃でパイプとタバコの燃えカスが灰皿から跳ね飛ぶ。


「何が違うのか言ってみなさいよ!! えぇ!?」

「いや、その、それは、すまん……」


 完全に形勢は決まった。

 彼女はついに両手をデスクについて上体を乗り出す。

 思わず引こうとするトーマスだが、立派な椅子の丈夫な背もたれが許さない。


「あなた、まえに浮気がバレたとき、言ったわよねぇ!? 『フリッツが多感な時期なのだから、離婚は勘弁してほしい。数年だけでも待ってほしい』って!」

「あ、あぁ」

「『だったら最初から浮気するな』って思ったけど、私受け入れたわ! あの子を人質に取られたらね! 育てるのにお金も必要だったから!」


 ぐうの音も出ない。全て心当たり、いや、ちゃんと記憶がある。


「だから数年待ったわ! そしたらあなたは、『完全に心を入れ替えた。やり直してほしい』って言ったわね! 私はまた受け入れたわ! ここ数年、確かにあなたが浮気をしている様子はなかったから!」


 キャスリーンの手がデスクからトーマスへ伸びる。

 彼の左右の髪の毛をがっしりつかむ。


「その結果がこれ!? あぁ、信じられない! 信じられない!」


 かと思えば放して、今度は自身の髪の毛を引っ張る。


「やめるんだキャスリーン!」

「どの口が! 私が心底腹が立つのはね! これがせめて、こっそりあの女と続いていたなら静かに心が折れたわ! 簡単に騙される、見抜けない私が節穴よ!」


 彼女はデスクを叩いたり蹴ったり。


「この新しい女はなに!? あなたはただの浮気者じゃないわ! 心を入れ替えたうえで浮気をする真実の畜生よ!!」


 言い返す隙もない。

 掛けられる言葉も言い過ぎとならない。

 100パーセント、トーマスの不明である。


「本当に、本当にすまない」


 だが99のどうしようもない浮気者に、1の人間性があるとすれば。

 一応申し訳ないと思う神経くらいは持ち合わせていることくらいか。


 とにかく、これはこれで嘘偽りない気持ちとして彼が頭を下げると、


 積み重ねてしまったものだろう、


「あなたはいつもそうやって、その場だけ謝ってればいいと思って!!」


 視界の端に、キャスリーンの手が灰皿へ伸びるのが映ったかと思えば


 残像すら見えるフルスイング、



 トーマスの左側頭部に、鈍い衝撃が走った。

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