8.改めまして
エンディの動きが止まる。
ジャンヌはその背中に向かって続ける。
「こんなタイミングで卑怯かもしれませんが。パワフルを動物病院に運ぶさい、素手で抱えさせていただきました」
エンディは何も言わない。
ただ、紅茶を淹れようとしていた手先までピタリと止まっている。
「エンディさん。彼が伏せっている姿が見られるようになったのも。人に吠えるようになったのと同じころではありませんか?」
「そう、かもしれないわね」
彼女はフラッとキッチンに手をつく。
「パワフル、ずっと具合が悪かったのね。私ったら飼い主なのに、ちっとも気付いてあげられなかった」
「責めているのではありません。必要なことだから話しているのです」
逆にジャンヌは椅子から立ち上がる。
「いいですか、ミアンシーさん。彼は、パワフルはあなたがいるときしか吠えなかったんですよ」
「どういうこと……?」
エンディも反射的に彼女を見つめる。
「昨日散歩に出かけ、あなたが散髪に場を離れたときです。それまで散々人に吠えていたパワフルが、あなたと離れると途端に吠えなくなった。私にはもちろん、触ろうと近付いてきた知らない子どもにさえ」
「それが、どういう」
彼女はまだ理解が追い付いていないようだ。
自分で気付くのを待ってもいいが、
「つまり、彼が吠えていたのはただ『知らない人に向かって』ではなく」
ジャンヌは言葉を続ける。
「ミアンシーさん、『あなたの近くに知らない人がいるとき』なんです。パワフルは必死に、あなたから知らない人を遠ざけようとしていたんです」
「でも、今までは知らない人にも吠えない子でした。それがどうして急に」
エンディは食卓の方へ。
立っていられないのだろう、椅子を引く。
「はい。それが今回読み取るようご依頼いただいた内容です」
ジャンヌは歩み寄ると、彼女の両肩を手で抑え、優しく椅子に座らせる。
「もう自分が長くないことを知っていたからです。今まではあなたを守ってきたけれど、じきにそれが適わなくなる。だから残された時間、最後の力を振り絞って吠え続けたのです。少しでもあなたに近付く怪しい人物を追い払えるように。だからいつでもどこへでも、あなたに付いていこうとした。目を離しているあいだに何かあってはいけないから」
「あぁ……! パワ……!」
顔を覆って泣き出したエンディを、彼女は優しく抱き締める。
「あなたがパワフルの不調に気付かなかったのだって、彼のがんばりです。自分がどれだけあなたを心配しても、あなたに心配は掛けたくなかった」
「そんな……、そんな優しいパワフルに、苦しいのまで我慢させて、なのに私は……!」
「いいえ。パワフルは幸せでした。幸せだったとずっと繰り返していました。あなたのような飼い主がいてくれたことも、喜びも悲しみも分かち合えたことも。心を読むなかで何度も何度も伝わってきた、彼の思いです」
「本当に? 気持ちばかりで、私があの子に何をしてやれたと言うの?」
「ミアンシーさん」
彼女はエンディの手を引いて椅子から立たせると、眠るパワフルのところへ連れていく。
「あなたは最後に彼の望みを叶えてあげたんです。そんなことを言ってはいけない」
「私が……? パワフルの望みを……?」
ジャンヌは彼女の手を、そっとパワフルに触れさせる。
「動物病院へ行く途中、私はあなたにパワフルを託しましたね」
「それが……?」
「『あなたの腕の中で終わっていきたい』。彼の最後の望みです。あなたは最後のとき、彼を抱えていたではないですか。彼は望みどおりあなたの腕の中で、満ち足りて旅立ったのです」
「パワフル……!」
エンディはパワフルを抱き寄せ、しばらくのあいだ泣き続けた。
それをジャンヌは、静かに静かに見守り続けるのだった。
ジャンヌがミアンシー宅をあとにしたのは翌朝である。
玄関に立つ彼女へ、エンディは名残しそうに話しかける。
「せっかく話相手がいてくださったのに、寂しくなりますわね」
「『ケンジントン人材派遣事務所』は必要な人材を必要なところへ派遣します。ですので『話し相手がほしい』とご依頼くだされば、手が空いていれば駆け付けますよ。その程度の案件なら安く済むでしょう」
「あら! そこはお友だちとしてサービスしてくれるものじゃないかしら」
エンディが口に手を当て驚いた表情を作ると、ジャンヌも意地悪い笑顔を浮かべる。
「あれ? 私たち、友だちになりましたっけ? 契約内容にも覚えがありませんが」
すると彼女はジャンヌへ手を差し出す。
「そうだったわね。じゃあ私たち、お友だちになりましょう」
「喜んで、ミアンシーさん。では、汽車の時間がありますので」
二人はお互いの手をぎゅっと握った。
「メッセンジャーさん、本当にありがとうございました。あなたに依頼をしてよかった。本当によかった」
「光栄です」
「あ! ごめんなさい! 右手……」
「もう痛みはしませんよ。ご安心ください。包帯が取れたらお目に掛けましょうか?」
「そうね。そうしてもらおうかしら」
「ではそのときまで。またのご依頼をお待ちしております」
緩やかな長い坂道は互いが見えなくなるまで距離がある。
エンディはずっとずっと手を振っていた。
「お帰りジャンヌ〜。寂しかったよぉ〜」
事務所にて。
戻って早々キス顔で迫るタシュを、彼女は郵便受けに入っていた新聞で叩く。
しかし彼はまったく気にする様子がない。
「うーん、数日会わないだけでこんなに恋しくなるなんて、僕の愛は本物だね!」
などと悦に入っている。
それだけでもウザいのに、
「メッセンジャーくん!」
今日も来客用のソファにはアーサーがいる。
彼はめずらしく恨みがましい目を向ける。
「あの日病院へ連れていってあげたのは私なのに! そこの男と夕食に行ったそうじゃないか! 私の誘いは断ったくせに!」
おそらくジャンヌが帰ってくるまでに、野郎どもの自慢大会があったのだろう。
しかし彼女は全て無視し、自分のデスクに座る。
「無事案件は終了し、顧客にも大変ご満足いただけました。くだらないこと言ってないで請求書の作成とか、することがあるんじゃないですか?」
「あぁ、そうかそうか。うまくいったんだね」
アーサーが相手されなくて機嫌がいいのだろう。
タシュも素直に自分のデスクに座る。
しかし書類作成には取り掛からず、ジャンヌの方へ身を乗り出した。
「それで、あの犬とはお友だちになれたのかい?」
一瞬動きを止めたジャンヌは、
少しだけ目線を上に向け、やがて軽く微笑む。
「友だちとは何か、教えてもらいましたよ」
「なんだいそりゃ。でもそれなら君も、僕と仲よくしてくれるようになるかな?」
「ノー。そこに因果関係はない」
「ちぇっ、冷たいなぁ。そんな冷たい態度で仏頂面してるから、犬とも仲良くできないんだぞ」
タシュは椅子の背もたれに体を預け天井を向く。
ジャンヌはペンでその顔を指す。
「私なら詐欺師みたいな笑顔をする輩よりは、仏頂面の人と仲良くしますね」
「では私と」
「あなたの笑顔も大概うさんくさい」
ジャンヌはアーサーを封殺すると、メモ帳を開いてペンを走らせる。
包帯が巻かれた右手を見て、タシュはまた身を乗り出す。
「あぁ、その右手、もういいのかい?」
「あー」
彼女はどうだろうか、と自分の右手を見つめた。
「日常生活に支障はありませんが、正直言うとまだ痛みますね」
「そうなんだ」
「はい。しかし」
「しかし?」
「まぁ、まだしばらくは痛いままでいいかな、と」
メモ帳にはエンディの住所とその横に
あまり上手ではない犬の顔が描かれている。
── 『メッセンジャー』は犬に吠えられる 完──
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