6.人となり犬となり
「パワフルについて?」
「はい。人……犬となりが分かれば、何かつかめるかもしれない」
我ながら迷走の極みとジャンヌは自嘲気味に頬を歪める。
エンディは頬に手を当てる。
「そうねぇ、パワフルがどんな子か。もうすでにお話ししたことは省くとして。あとは茹でたササミが大好きでお風呂は嫌いとか。お医者さまで注射を打たれても暴れないとか。耳掃除をしてやると『フルルルッ、フルルルッ』って気持ちよさそうにしているとか……。なにか参考になりまして?」
「例えば耳掃除で骨抜きになっているところを触る、というプランがあります」
「あら、よろしいわね」
「暴れたパワフルちゃんの鼓膜と私の左手が犠牲になりますね」
「あら、全然よろしくないわね」
それからしばらく両者は無言になった。
ワンワンとパワフルの声だけが響く。
いまだに『おまえは敵だ!』と言わんばかりの姿。
ジャンヌはあることに思い至った。
「ミアンシーさんはどうやってパワフルと仲よくなったのですか?」
「どうやってと言われましても。元々人懐っこい子でしたから、ウチに来た日からファミリーでしたわ」
これでは参考にならない。ジャンヌの脳内で諦めムードが、台風まえの黒い雲のように染み出す。
しかし顧客に無気力を悟られても困る。
とにかく前向きに構えることに。
「でしたら何か、エピソードを語ってください。些細なことにこそ人、犬格の根幹があるものです」
「そうですわね! では、何からお話しましょう」
エンディは少し間を取ったのち、
やがてすっと背筋を伸ばし、ゆっくりと語り始めた。
夫が家を空けると寂しいのは、息子だけではありませんのよ?
こう言ってはなんですけど。
新婚のころに一人置かれるより、子どもができてからの方が寂しいこともありますの。
文句でも愚痴でも後悔でもありません。
ただ、少しの風邪が命に関わり、何げない言動が心の発達に影響するデリケートな時期。
それでいて、できることも知っていることも少ないのに無茶やイタズラをする。
幼い我が子に一日中向き合うのは、やはり大変なことです。
夜、寝かし付けたあとにリビングで一息ついたりすると、
『なんでこんな大変な時に、あの人は側に居てくれないのかしら?』
となりますわ。
でも夫も仕事で、何より私たちを生活させるために。
本当は我が子と過ごしたい時間を削っていることも分かっております。
すると、それでも飲み込み切れない悲しみや怒りが
仕方ないと自分で結論づけられるゆえの絶望が
夫を責めてしまう自己嫌悪が渦を巻き始めますの。
そんなとき必ず、
「ワン!」
と一声、パワフルが私に吠えるのです。
その瞬間暗い思考がプツッと切れて、優しい顔が目に入って。
それにどれだけ救われたことでしょう。
あの子を抱き締めて独りの苦しみを二人の空間にしてもらう。
一度や二度ではありませんわ。
私も親ですから、親なりに息子と衝突したことはよくございます。
そんなとき、パワフルが私の分まで息子に寄り添ってくれる。
何より助かることですわ。
叱られたあと部屋に籠って落ち込んだり泣いたりしているとき。
誰にも会いたくないようで、一人でいたくもない心の距離がございますでしょう?
そこにそっと入り込むのは、人間ではちょっと難しいことです。
しかし一番助けられた思い出は、息子が家を飛び出したときです。
きっかけは些細なことでしたわ。息子も10歳になり、学校で出される宿題もやや難しくなってくるころです。
それで分からないことがあると私や夫に聞いてくるのですけど。
その日は苦手な王国史の宿題が多く出たようで。
聞きにきて戻っていったと思えばまた質問にきて、といった具合でした。
私も最初は普通に対応していたのですが、途中で一本電話がかかってきたのです。
『エンディかい? 私だ。……その、だな。本当にすまないのだが、帝国での仕事が長引きそうでな』
「また!?」
『うむ、ぐむ……。またなんだ。だから、もうしばらくは帰れそうにないんだ』
「ちょっと! 約束はどうなるの!」
『これから商談があるから、細かい話はまた今度』
「そうやって、都合が悪くなったら切る口実になるから! 商談まえを選んで電話してきたんでしょう! 卑怯者! ちょっと!」
夫から『商談が長引いて帰れない』と連絡があったのです。
しかも1回の出張で2度目のことでした。
それだけならよいのですが、今回は事情が違いまして。
このままでは夫は、結婚記念日に間に合わない目算となるのです。
それも、去年も同じように仕事でふいにしてしまって。次は必ずと約束した記念日だったのに……。
息子の成長につれ入り用が増えるので、これも仕方がないのですけれども。
「はぁ……。もう!」
「お母さん、ここなんだけど」
そこに息子がまた宿題について聞きに来たのです。
……あぁ、本当にあの子には悪いことをしましたわ、本当に。
私は苛立ちを息子にぶつけてしまったのです。
「少しは自分で考えなさい! もう10つでしょう⁉︎ なんでもかんでも親に頼って! あなたもあの人も全部私任せで!」
「ワンワンワン!」
パワフルの声にハッとすると、息子の顔が見る見る凍っていくのが分かって。
私は自分の過ちに気付きました。
しかし何か声を掛けるより先に、
「ごめんなさい」
とだけ残して、息子は部屋に戻ってしまいました。
あの時の私はどこまで愚かだったのでしょう。
すぐに息子のところへ行って謝らなければならないのに。
過ちを悔いること、気持ちを整理することに時間を使ってしまったのです。
いえ、息子を放って勝手に延々落ち込んでいた、と言うべきでしょう。
しばらくして、ようやく息子に謝りに行こうと部屋を訪れると、
息子は部屋どころか、家のどこにもいないのです!
「私が『親に頼るな』なんて言ったから……!」
慌てて家を飛び出しましたが、どこに行ったか皆目見当も付きません。
交番に駆け込んで警察の方に、
「まずはお友達の家に上がっていないか確認してください」
と言われるまで、そんな初歩的なことも忘れていたほどです。
そして息子がどのお宅にもお邪魔していないと分かると、もう半狂乱です。
このときもやはり、救ってくれたのはパワフルですわ。
私や警察の方が探しても見つからない息子を見つけてくれたのです。
警察犬のように匂いを追って。
え、どこにいたかって?
キングジョージに向かう汽車の中ですわ。いくら街を探しても見つからないわけです。
私が「頼るな」と言ってしまったばっかりに。
あの子は一人で生きていくため、街へ出て仕事を探そうとしたのです。
それをパワフルが駅まで導いてくれたから、見つけることができました。
そんな息子も今は立派になって、父の元で忙しく世界を飛び回っています。
なので家に帰ってこないことも増えましたわ。
そんな親の甘美な寂しさに寄り添ってくれるのもパワフルなのですよ。




