5.耐久耐久耐久
夜のミアンシー宅。
本来ならとっくに帰っている時間だが、今日のジャンヌはまだお邪魔している。
「ア゛ルルルルル!」
パワフルの威嚇が響くなか、
「この方がメッセンジャーさん」
「そうよ、あなた」
エンディが、口髭が立派なダンディの上着を脱がせる。
「『ケンジントン人材派遣事務所』から参りました。『メッセンジャー』のジャンヌ・ピエール・メッセンジャーです」
お決まりのあいさつが出ると、自分で上着を脱ぐ青年が苦笑いする。
「ややこしい自己紹介だな」
「あら、そんなこと言ってはダメよ。あなたの婚約者なんだから」
「はぁ!?」
エンディがご近所由来のジョークを飛ばすと、青年は頓狂な声を上げた。
「ちょっと待てよ! どういうことだよ! なんで初顔の人が婚約者なんて……!」
彼がチラッと視線を向けたので。
ジャンヌはキリッとした顔立ちを活かした、爽やかな微笑みを返してみる。
「そ、それより母さん! 夕飯!」
そのまま彼はジャンヌへ背を向け椅子に座った。わずかに見える耳まで朱が差している。
ふふ。チョロ、もとい、かわいい坊や
ジャンヌの笑顔が少し悪くなる。
ちなみに二人の年齢はほぼ変わらないし、坊やと評したジャンヌが年下である。
「しかしこんな時間なのに、まだ勤務を続けるのかね」
ミスターミアンシーは対面のジャンヌにクルトンを勧める。
食卓には空豆の黄緑鮮やかなポタージュ。
ちゃっかり夕飯をご馳走になっているのだった。
「はい。案件の内容はご存知と思いますが、ご覧のありさまで」
「ウゥーオォウ! バウ!」
「こらパワフル! おとなしくご飯を食べなさい!」
エンディの声は届かないようだ。パワフルはジャンヌの足元を行ったり来たり。
「二度もこうはなりたくないので、彼が寝たあと仕事に取り掛かろうかと」
ジャンヌは右手を顔の高さへ持ってくる。
ミスターミアンシーはため息とともに首を左右へ。
「申し訳ない。嫁入りまえの女性に傷でも残ったら」
「大丈夫です。そこの婚約者さまなら、痕に口付けしてくださるでしょう」
「ぶっ!」
彼女のななめ向かい、青年は飲んでいる水を吹き出した。
「おい、行儀が悪いぞ」
「おほほほほほ!」
「ワウワウワウウェウ!」
「アンタらねぇ!」
慌てる彼をよそに、ジャンヌは澄まし顔でポタージュを口へ運ぶ。
スプーンなら左手だけでも食事ができる。
話題を変えたいのだろう。
青年は一つ咳払いをすると、吠えて跳ね回るパワフルへ顔を向ける。
「でもパワフル、昔みたいになったよな」
「そうねぇ」
ジャンヌの眉が少し動く。
「昔みたい、とは? 吠えないお利口さんだったと伺いましたが」
「ガンガンバウバフ!」
同調するようにパワフルも吠える。
青年はジャンヌから微妙に目線を逸らし、後頭部を掻いた。
「いや、人に吠えたりはしなかったけど。昔は元気で、家の中だろうととにかく走り回る犬だったんだよ。それこそ活力の権化って感じで。それが最近はめっきり、伏せていることが多くてさ」
ミスターミアンシーも水差しを取りながら頷く。
「倅が小さいころなど、私が出張でいないときはパワフルが相手してくれたものです。おかげで明るく寂しくない幼少期を過ごせたのだ」
「でももう、この子もおじいちゃんだものね。そういうものよね」
エンディは静かに笑う。
「キャウキャウ!」
が、パワフルの怒号はまったく歳とは思えない。
ジャンヌは親切にカットされた、ニシンのグリルをフォークで刺した。
夜のリビング。
明かりのない室内を窺うなんて、まるで泥棒みたいね
ジャンヌはパワフルが犬用ベッドで丸くなっているのを確認した。
千載一遇の好機。音を立てないよう抜き足差し足で近付き、左手を伸ばすと、
「クアアァ!」
「ば、馬鹿な!?」
ミミックのごとく急に目を見開いたパワフルが牙を剥く。
ジャンヌが反射的に手を引くと、立派な歯並びが虚空を噛んだ。
もうワンテンポ遅れていれば、確実にやられていたことだろう。
「寝たフリまでして待ち構えていたのか! 小癪なマネを!」
「ガグルルルル……!」
暗い室内、間合いを取った一人と一匹が対峙する。
姿勢を低くするパワフルに対し、彼女は抜き手で構える。
「いいでしょう。私とて仕事柄、修羅場の経験はある。このまえは油断ゆえに不覚を取ったが、立ち合いで犬に遅れは取らない……!」
「シャーッ!」
パワフルも呼応するように体を起こす。
『メッセンジャー』としてプライドをかけた闘争が幕を開ける……!
「何をなさっているの?」
パワフルの咆哮を聞き付けリビングへ来たエンディ。
彼女が見た光景は
紅茶をなみなみ蓄えた鍋を抱えるジャンヌだった。
「あ、鍋お借りしています。茶葉は自前のものですので、ご安心ください」
彼女は鍋からオタマで掬って直接飲んでいる。
「あのね、いえね? そういうことではなくてですね?」
「私も若い人間。老いた犬よりは起きていられますよ。そこにカフェインがあれば、先に寝落ちする道理などない」
「そ、そう」
「私は必ずパワフルちゃんに勝利し、眠った彼から安全に心を読みます。ご期待ください」
「がんばって……」
エンディは半笑いでリビングを後にした。
ジャンヌが紅茶をすすりながら、真剣な目でパワフルを見つめると、
彼はしょうもなさそうに欠伸をした。
翌朝、リビングにて
「おわあああぁぁぁぁぁ!!!!!」
「どうした!」
「メッセンジャーさんが! 死んでる!」
うつ伏せで転がるジャンヌが発見され、一家の一日は息子の絶叫で始まった。
それから1時間ほど経ったミアンシー宅。
男衆は仕事に出掛け、目覚めたジャンヌとエンディ、パワフルだけになった。
「ウォン! ウォン! ウゥー!」
パワフルは案の定吠えるが、
数度吠えるとペタッと伏せて、少し休んでからまた吠える
というサイクルを繰り返している。
さすがの彼も睡眠時間が短かったのだろう。それが響いている様子だ。
「このまま耐久レースで追い詰めるんですの?」
エンディがジャンヌの顔を覗き込む。
「それは、血を吐きながら続ける悲しいマラソン……もとい動物虐待ですから。ご安心ください」
それを聞くとエンディの表情は少し柔らかくなる。
とはいえ、ジャンヌにとってはチャンスを制限することに他ならない。
そのぶん何か別の、冴えた一手を繰り出さなければならないのだが。
「……」
犬と遊ぶ引き出しも乏しい女である。
メモを開いたはいいが(この時点で意味もなくそうしている)。
ペンは紙面にプランを生み出すことなく、彼女の額ばかりノックしている。
「行き詰まっておられます? 紅茶……は昨日散々飲まれたから不要かしら」
エンディも気に掛けてくれているようだ。落ち着かなさそうに周りをうろうろしている。
気まずさも重なったジャンヌは、苦し紛れに言葉を絞り出した。
「えー、そうですね。ミアンシーさん」
「なんでしょう!」
「紅茶は結構なので、もっとパワフルちゃんについて聞かせてもらえませんか?」




