1.ドッグドクター
「それで、うちの子はどうでしょうか……?」
大きな邸宅の大きな広間。
窓から入る、昼まえながら特別強くもない春の日差し。
それを目敏く反射して光り輝く、金銀細工の調度品。
ある遊牧民の伝統的な柄の、テニスコートも覆えそうなカーペット。
今の事務所で働いてたんじゃ、生涯年収でもこの一室に勝てないな……
ジャンヌは乾いた笑みを浮かべる。
その空間のど真ん中で。
彼女はお座りしている長毛種大型犬の背中から手を離す。
犬は円らな瞳でジャンヌの手を見つめている。
舌を出してハッハッハッハッ、尻尾でカーペットをパタパタパタパタ。
「はい。特に不調もなく元気そのもの。たまに散歩が早めに終わるのが少しご不満、くらいで」
「あらまぁ!」
「まだ寒い日もありますからね」
派手なデザインではないながら、使っている素材は上等なドレス
──これもジャンヌの月収何ヶ月分になるのやら──
を身に纏った、若いマダムがお行儀よく頬に手を当てると、
「クゥゥ〜ン」
犬がゴロンと仰向けになる。
腹を見せながら、ジャンヌへ向かってあざとい表情。
『さぁ、撫でてくださいまし』という心の声が、直接触れなくとも聞こえてくる。
マダムがどうぞ、と手で促す。
特に撫でたいわけではなかったが、せっかくのご好意。
手袋に収めようとしていた右手を、そのまま豊かな黄金色の毛に埋める。
軽くわしゃわしゃと撫でてやったそのとき、
犬が、『かかったな人間!』という顔をして身体を丸めた。
「あわぁっ!」
そのまま甘噛みを交えて手をペロペロ。
彼女の口から情けない悲鳴が漏れる。
「おほほほほほ!」
マダムな上品な笑いが一しきり続いたあと。
解放された右手を顔の高さに持ってくると、
「あー……」
一連の攻撃でテカテカ光って濡れていた。
「洗面台へご案内しますわ」
「ワン!」
マダムの先導、その後ろにジャンヌ、尻尾を振る犬の順で洗面所へ歩いていく。
唾液ではめられなくなった手袋が、彼女の左手の中で所在なげに揺れている。
「しっかしジャンヌ、獣医までするんだもんねぇ」
昼下がりの『ケンジントン人材派遣事務所』2階。
デスクのタシュは小さなナイフでリンゴの皮を剥く。
「診断も治療もできませんけどね」
ジャンヌはやはりデスクで、紅茶をカップに注ぐ。
「むう」
「どうしました」
「キレイに一本にならない」
見ればズタズタになったリンゴの皮が、チラシの上に散乱している。
人間なら『ママ、今日はなんだか頭が痛いの』と言うところ、動物はそうはいかない。
せいぜい態度で示すのが限界だし、
示すまでもなく
見るからに具合が悪いときは、マズい状態であることも多い。
そんなときに役に立つのが『メッセンジャー』である。
飼い主や動物園の求めに応じ、声に出ない動物たちの状態を聞き取る。
通称『定期検診』をすることで、彼らの健康管理・病いの早期発見に寄与するのである。
が、
「仕事はありがたいけど、普通に動物病院行けばいいんじゃないのかなぁ」
タシュは口惜しそうにリンゴの皮を摘みあげる。
「知らない人に血を抜かれたりするよりは負担が少ない、と好評なんです。手で触れるだけで済みますからね」
「そういうもんか」
「そういうもんです。それに、もし不調が判明して病院へ行くことになっても。私が内容を読み取れば獣医に説明がしやすい。もっとも、自覚症状がない場合には無力ですが」
すると、淡々としたジャンヌの代わりに
「今回もご満足いただけていたしね。私も鼻が高いよ」
タシュとは別の自慢げな声がする。
震源地、来客用ソファを占領するのは、
「せっかく無視してんだから、声を出すなよ」
「なら、声を出しても無視すればいいのでは?」
今日も今日とてご来訪
オーディシャス伯、アーサーである。
「それにゃうるさいんだよ」
「気にしないでくれたまえ。最初から君には話していない」
「あーん?」
タシュはナイフをリンゴに突き刺すと、ジャンヌの方を向く。
「ねぇ、君もこのキザ男嫌いだろう? 一緒に叩き出そうよ」
「はぁ」
しかし彼女は新聞の壁を建設。
『私には一切関係ありません。勝手にやれ』を貫いている。
「ジャンヌやーい」
「私からも抗議しようメッセンジャーくん。この扱いはあんまりじゃないかな?」
「法的に問題はありませんよ」
「おいおい、『メッセンジャー』ともあろう人が、人情を無視するのかい? マダム・カントリーに君を紹介し今回の案件を舞い込ませたのも。彼女の邸宅まで車で送迎したのも私だというのに」
「運転していたのはお宅の運転手さんですよ」
「おぉ、もう」
アーサーは演技掛かった動きで天を仰ぎ目元を抑える。
そこにタシュがガタガタのリンゴを咀嚼しながら悪態をつく。
「頼んでもないのに感謝を求めるんじゃないよ。密室でくっ付こうって下心見え見えでさ」
「何を言うんだ。君にも感謝してほしいくらいさ。何せタクシー代が浮くんだからな。ここの事務所はケチで経費を渋るそうじゃないか」
「けっ! そもそも家の事業で上京してるんだろうがぃ。こんなところで遊んでていいのかよ」
アーサーへ向かって口から種を飛ばす真似をしたタシュだが、
「あっ」
と、不意に抜けた声を上げる。
「なんですか」
あまりにナチュラルなものだから、ジャンヌも新聞の壁を低くしてそちらを見る。
「歯茎から血が出た」
「おめでとう」
「嘘だよ。っていうか『おめでとう』ってなんだよ」
しかし彼女は何も答えず、また新聞の向こうへ消えていった。
ある日、ジャンヌが犬犬猫セキセイインコの定期検診を終え、
「最近動物の案件が増えているね」
「おかげさまで、と言っておきましょう。ご紹介いただいたマダム・カントリーが宣伝してくださった結果なので」
「私も鼻が」
「はいはい嘘つき木人形」
アーサーの車で事務所へ帰ってくると。
タシュはデスクで手紙を読んでいた。
彼はジャンヌに気が付くと、便箋をヒラヒラ振る。
「今日は動物デイだね。新しい案件だよ」
彼女が便箋を受け取ると、丁寧な文字でこう綴られている。
『拝啓ケンジントン人材派遣事務所さま
私、エンディ・ミアンシーと申します。
このたびは、そちらにお願いすると
『動物の心理を読み取っていただける』
とのことで、お仕事の依頼をしたく筆を取りました。
依頼といいますのが、うちで飼っている老犬パワフルのことでございます。
この子は赤ん坊のころからウチで暮らしてきた家族です。
小さいころから、それはそれは利口で聞き分けがよい子でした。
人さまへ無闇に吠え掛かるなど、決してありませんでした。
それが近ごろ、朝の牛乳が届くたび。新聞が配達されるたび。お客さまが家にいらっしゃるたび。
ワンワンと止めどなく吠え掛かるのでございます。
いくら叱っても治らず、大変困っております。
他のことは今までのようにお利口さんであるにも関わらず、です。
どうしてもこれだけが改善されないのでございます。
どうか、どうして急に吠えるようになってしまったのか。
心理的原因かもしれないので一つ、読んでいただくことはできませんでしょうか。
エンディ・ミアンシー ロイヤルオーク市ハーキュリーズ5番地1-2-2』
お読みくださり、誠にありがとうございます。
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