6.本当のお味は意外にも
それからジャンヌは約束した『明後日』まで親子の前に姿を現さなかった。
しかし当日、ブリジットに電話が掛かってきたのだ。
『今日の昼食で、ウィルにボロネーゼを振る舞う予定である』
と。
それを聞いて駆け付けた彼女が、病院の玄関で待ち合わせると
「おはようございます、の時間ですね、まだ」
「おはようございます、メッセンジャーさん」
ジャンヌは手に袋を提げて現れた。
中身は今回使うボロネーゼの材料だろう。
持ってきたということは、本当に厨房を借りられるよう病院を説得したようだ。
ブリジットは財布を取り出す。
「全部でおいくらですか?」
「いえいえ、結構ですよ」
「そうはいきませんよ。あぁ、あとでまとめて請求書で?」
「いえ、以前『延長することで割増料金にはしない』とお話ししたでしょう? ですのでこちらこそ、そういうわけにはいかないのです」
なんだか善意による押し付け合い(厳密には引き受け合いか)の様相に。
押し問答の過程でブリジットが袋の中身を覗く。
「あれ?」
「どうなされました?」
「これだけ?」
「これだけですよ?」
しかしジャンヌは適当に流し、そのまま病院の中へ入っていった。
それから20分もしなかっただろう。
「なんだか緊張するな」
「緊張って、ボロネーゼよ?」
「そういうおまえも、ちょっとソワソワしてるよ」
「やだ」
ウィルの病室で親子が待っていると、
「お待たせしました」
ジャンヌがボロネーゼを盆に載せて現れる。
「おや、早い、ですね?」
「秘密がありましてね。どうぞお食べください」
目の前に置かれる、ひき肉と和えられたタリアテッレ。
ウィルがゴクリと生唾を飲んだのは、おいしそうだからか緊張か。
彼は恐る恐る、パスタをフォークで絡め取り、口へ……
娘が「どう?」と問うことすらできずに見つめるなか、数回咀嚼すると、
「これだぁ!!」
飲み込むまえから大声を上げる。
「そうだ、そうだよ! こういう味だったんだよ!」
「お父さん!」
歓喜する父の様子に、ブリジットも笑顔で駆け寄る。
味にうるさいことには辟易していたが、やはり娘としてうれしいのだろう。
彼女は父の肩に手を添えたあと、ハッとしたように振り返る。
「ありがとうございます、メッセンジャーさん!」
「いえいえ」
ジャンヌはというと、いつでも帰れるように病室の出入り口近くに立っている。
「では、これにてご依頼は完了ということでよろしいでしょうか」
「えぇ! 十二分に!」
「では請求書などの方は後日発送いたしますので。せっかくですし今回のレシピも同封しておきましょう」
割合手間暇の掛かった依頼だろうに。
終われば淡々としているのは、性分というものだろう。
「このたびは『ケンジントン人材派遣事務所』『メッセンジャー』をご利用いただき、誠にありがとうございました」
彼女は深くないが背筋は伸びたお辞儀をすると、
「またのご依頼を待ちしております」
ニヤリと笑い、さっさと引き上げていった。
「お疲れさまジャンヌ。さすがだねぇ。信じてたよ」
「やめてください。あなたからの信頼は評判に差し障る」
「僕雇い主ね?」
夜だが夏は日が長いので、空はようやく紫色。
そんな『ケンジントン人材派遣事務所』2階。
ジャンヌはタシュに一連の報告を終えたところ。
「しかし、あれだけ悩んでいたのにね」
そこに今日もソファにいるアーサーが混ざってくる。
「結局どういう解決をしたんだい? レシピが守られてなくて、『思い出の味』なんてのはなかったようだけど」
するとデスクの片付けをしていた彼女は
「それがあったんですよ、レシピ」
目も合わせず、なんてことなさそうにつぶやく。
「えっ、そうなの?」
今までとは180度違う展開にタシュもデスクへ軽く身を乗り出す。
「そこまでレシピが一定じゃないならさ。僕はてっきり食べたときのシチュエーションが9割占めてると思ったよ」
「実際そうですよ? 何度かコーリーさんの記憶を読みましたが。浮かべるシチュエーションは毎回同じでした。『ボロネーゼそのもの』ではなく、『その日の食事』に何かあるのは明白です」
「おいおい、ちょっと待ちたまえよ」
すると今度はソファに身を沈めていたアーサーが上体を起こす。
「でもそれは死んだ妻と小さかったころの娘だ。再現は不可能だろう」
こればかりはコスプレして同じ絵面にすればいいということもない。
だから掘り起こしてジャンヌも落ち込んでいたのだ。
「だからレシピがあったんですって」
しかし彼女はもう、そこを問題にしていない。
要領を得ないアーサーはさらに聞き込もうとするが、
「そのレシピとやら、気になるね」
タシュが割り込む。
「ねぇジャンヌ。よかったら僕らに食べさせてくれないかな?」
百聞は一見にしかず、というように。
「お待たせしました」
場所はタシュが住まう3階フロアへ移動して。
一人暮らし用の狭い食卓にボロネーゼが運ばれてくる。
「ん?」
「わぁい、いただきまーす」
「いかがですか?」
椅子にも座らず、立ったまま感想を聞くジャンヌだが、
「……なるほど」
「うーん」
「『なるほど』で入る食レポはおいしくなかったパターンです。遠慮なくおっしゃって結構ですよ」
一口二口食べて、チラチラ視線を交わす二人。
彼女も『メッセンジャー』の経験か業界談か分からない理解を示す。
「これは君の腕とかじゃなくて、レシピの問題なんだよね?」
「はい」
「じゃあ言うけどさ。ちょっとパンチ足りないってかさ」
「全体的に物足りない。味がボヤッとしている」
作ってもらって批判は気が引けたのだろう。
恐る恐るな男たちに
「そうだと思います」
ジャンヌは頷く。
当然、という態度がアーサーには引っ掛かるらしい。
「これがコーリー氏の『思い出の味』だというのか?」
「そのとおりです」
信じられない顔になるのは彼がグルメなばかりではないだろう。
「ですが、『シチュエーションが大事』という話で」
ジャンヌは食卓に肘をつき、2階から持ってきた椅子に腰を下ろす。
「コーリー氏が思い浮かべていた場面。毎回同じこともそうですが、より気になることがありまして」
「そりゃなんだい?」
聞き手は二人いるが、彼女は視線を正面にいるタシュの方へ合わせる。
「『妻のボロネーゼ』とおっしゃるわりに、
奥さまが一切登場しないことです」




