2.グルメ漫画によくある導入
ベイクドビーンズテロ事件から1週間と少し経った日の13時過ぎ。
ジャンヌはサンダラー市にある一軒家を訪れていた。
表札には『Illel』。
今回の依頼人、ブリジット・レッリの住まいである。
そのリビングでジャンヌは、彼女とテーブルを挟んで向き合っている。
カップから立ち上るのはレモングラスの香りがする湯気。
彼女は喉を湿らせるとメモ帳を開き、早速仕事の話に入る。
「『ケンジントン人材派遣事務所から参りました。私『メッセンジャー』を務めます、ジャンヌ=ピエール・メッセンジャーと申します」
「メッセンジャーさんが……『メッセンジャー』?」
「ややこしいでしょう? 雇い主が愚かなもので」
おそらく今ごろ誰かが事務所でクシャミをしているだろう。
しかしジャンヌは歯牙にも掛けない。
「それより、お手紙拝見いたしました。ご依頼は『父の記憶にあるレシピを読み取る』とのことですが」
「はい」
ブリジットは勢いよく頷く。
表情は困り顔というか、
それ以上にムッとした雰囲気がある。
それもそのはず、今回の件には、
単に記憶を探りたい以上の拗れがある。
「確認ですが、まずお父上が病気で入院していらっしゃると」
「はい。これがなかなか重いようでして。食欲がなく、見る見るうちに痩せていってしまって」
彼女はうなじに掛かる程度のウェービーな髪を掻き上げる。
長くもない髪すら気になるほど神経質になっているのだろう。
本来三十路に踏み入ったあたりのブリジットだが、疲労でもう少し老けて見える。
もっとも、ジャンヌは彼女の正確な年齢など知らないが。
「それで本人に何なら食べられそうか聞いたところ」
「妻、私からすれば母ですね。の作ったボロネーゼをもう一度食べたい、と」
「しかし」
ジャンヌがチラリとメモ帳から視線を移すと、ブリジットが頷く。
「はい。母は私が16のときに他界しています。元から体が丈夫ではなくて」
「お悔やみ申し上げます」
悲しい話だし同情するが、今そこを掘り下げても仕方ない。
ジャンヌは短い社交辞令に留め、話を進める。
「それで、お作りになった」
「はい。母が遺したレシピ帖に載っていたので。書いてあるとおりに作りました」
ここまでなら美談、素晴らしい夫婦の愛の物語だが。
ブリジットの声は後半をやや強調するように力が籠る。
「ですが」
ジャンヌの繰り出した接続詞に、彼女は渋い顔で頷く。
思わずこんな態度になるほど、
親夫婦の愛に子の愛情で応えたい思いより表に出る感情があるほど、
「お父上に食べさせると、『これは違う』とおっしゃる」
「えぇ、調味料を量っても、何度作っても」
面倒な事情があるのだ。
「違うわけはないんですよ。誰でもない母自身が遺したレシピどおりなんですから。なんなら私が嫁入りするまでのあいだ、何度か作って二人で食べたこともあります。そのときは普通に喜んでいました」
「しかし今回だけは違うとおっしゃる」
「譲りません。今までは毎回使っている赤ワインが違っても分からなかったくせに」
ブリジットは長いため息をつくと、視線を左へ向ける。
「正直言って」
そちらはリビングの奥の方であり、
年齢一桁代後半くらいの男の子が、ジグソーパズルで遊んでいる。
「私が実家を出て、それから息子があの大きさになるだけの歳月が流れているのです。もう何年もまえの記憶の味なんかあやふや、とまでいかなくとも」
彼女は左手の指先を額に添える。
「今は亡き愛した妻です。命日ごとに思い出を美化してしまうものでしょう」
あまり言いたくはなかったのだろう。
彼女は中指の先を支点に首を左右へ振る。
「あり得る、よくある話ですね」
対してジャンヌはあくまで冷静に断じる。
もちろん肯定で相手の気を楽にしてやる意図もあるが、
『メッセンジャー』だからこそ、その論は大いにあると思ったのである。
彼女自身、多くの記憶を読んできたから分かる。
これほどいい加減なものも、そうはないのだ。
本人が『覚えている』と自信たっぷりのものでも、
平気で落丁、改ざん、混線が巻き起こっている。
しかもそれを心の底から、無編集の事実だと思い込んでいたりする。
真実や答えが存在していない場合も往々にして見掛けるのだ。
すると、さっきまで眉が釣り上がり気味だったブリジットだが。
今度は八の字になる。
「ですので今回はメッセンジャーさんに記憶を読んでいただいて。本当に違うならよし。そうでなければ父に納得してもらう理由付けになっていただこうと」
読心そのものより、ダシに使うような依頼に負い目があるようだ。
だがジャンヌは気にしない。そんな類いの依頼、山ほど受けてきた。
「承知いたしました。ではまず、デモンストレーションから」
『一昨日夫のヘソクリを見つけてテンション上がった(盗ってはいない)』
とかいう内容で読心を証明したあと。
「ウィリアム・コーリーの娘です。面会に来ました」
「どうぞ」
ジャンヌたちはブリジットの父の入院先へ。
ブリジットの手には包み。中には作ってきたボロネーゼが入っている。
一応調理工程を隣でチェックしたが、特別ミスはなかった。
パスタの茹で時間、調味料の分量、神経質なほどに守られている。
なんなら味見もしたが、普通においしく食べられた。
ブリジットの腕が壊滅的という線はない。
もちろんジャンヌ目線であり、父ウィルが一流ソムリエとかならお手上げだが。
「ジャン=ピエールさんですもの。海峡向こうの舌なら確かでしょう」
「ジャンヌ=ピエールです。あと私は王国人です」
なんて話をしているうちに、彼の病室に到着する。
「さて、今回は急にうまくいったりしないかしら?」
「うーん、なんか、違うんだよなぁ」
結果は呆気ないものだった。
ウィルは一口食べて数秒止まり、三口食べてつぶやく。
初手で言わなかっただけマシなのかもしれないが、娘の手料理に無慈悲である。
「やっぱりかぁ」
対して怒りもしないブリジットは、慣れたのか父に強く出られないのか。
もしくは何も変わっていないボロネーゼで急に合格しても、
『じゃあ今までのはなんだったんだよ!』
と逆の意地ができつつあるのかもしれない。
だがそのあたりの機微などジャンヌには関係ないのだ。
彼女の役割は、
『父の味覚と記憶は正確なのか読み取ること』
「ではコーリーさん、お話は聞いていますでしょうか?」
ジャンヌが手袋を外すと、彼はベッドの上で身構える。
「いや、あなたは誰なんですか? 医者や看護師じゃなさそうですが」
「『メッセンジャー』を務めます、ジャンヌ=ピエール・メッセンジャーです」
「ジャン=ピエール? もしかして男性?」
「女です。母が男性名など付けるのが悪い」
どうやらあらかじめのアナウンスはなかったらしい。
彼女は今回の案件の説明をし、またデモンストレーションを行なうことになった。




