1.刺激的な一日のスタート
ある日の午前9時をいくらか周ったころ。
夏ゆえに、まだ朝でも少しずつ気怠くなる気温の中へ、
「送迎ご苦労」
まだ一部の金持ちにしか普及していないモーターカーから降り、
『ケンジントン人材派遣事務所』を見上げる人物がいる。
オーディシャス伯アーサー・ブルーノ・アーリントン・シルヴァーである。
彼の手には季節の花束。
「ふふふ、早速来たぞ、メッセンジャーくん」
胸には過剰な愛着。
彼は高貴な人物に似合わない、青レンガの細長く怪しい建物へ消えていった。
呼び鈴も鳴らさず、直接2階の事務所フロアへ。
奇襲を仕掛け、相手を驚かせようと思ったのだ。
乙女はサプライズ好き、とプレイボーイの経験が囁いている。
おそらく多少ズレている。
階段を上がってすぐのドアの前で一度止まり、一呼吸入れ、
「いい朝だね! メッセンジャーくん!」
勢いよく中へ踏み込むと、
「……住所を間違えたかな?」
『そうだね。お呼びじゃないからね』
彼は思わず固まる。
何せ、
デスクで手紙を読んでいるタシュが、この暑いなか、
鳥面のマスクをしているのだから。
「その憎らしい声は、どうやら間違ってはいないようだ」
『覚えていただけて光栄だね。帰ってくれるともっとうれしいな』
「ふむ、これはコスプレ、いや、花粉症かな?」
『違うよ』
アーサーは挑発的に花束を揺らすも、タシュは動じない
と思う。
正直マスクで表情が分からない。
「じゃあどうしたんだ。結核でも患ったか」
『似たような危険性かもなぁ』
本当に病気ではないだろうが(そもそも感染者側が被るマスクではないし)。
彼の反応は妙にローテンション。
だが、タシュごときを心配するアーサではない。
彼は事務所内を軽く見回す。
「それで、メッセンジャーくんは?」
『あぁ』
タシュは親指で3階へ続く階段を指す。
マスクで表情は見えないが、仕草に気だるさが見える。
『キッチンで朝食作ってる』
「ほう」
確かに耳を澄ませると、上からジュウジュウ火を使う音がする。
「それには少し遅いな」
『昨日は案件で夜遅くてね。だから起きるのも遅くなったらしい』
『来るのは昼からでいい』って言ったんだけどね。
彼はそう付け足すが、そんな事情もアーサーにとってはどうでもいい。
「そうかそうか、メッセンジャーくんの手料理か」
普段から凄腕シェフの料理で舌が肥えている伯爵である。
一般家庭はおろか、そこいらのレストランでも話にならないが、
『好きな女性の』とくれば、まったくの別問題。
「どんなものが飛び出すのかな」
『なぁに分けてもらえる前提でいるんだよ』
彼も朝食は食べてきたが、3階へ続く階段へ足を掛ける。
『あ。そっからは僕のプライベート空間なんだ。入るんじゃないよ』
タシュが真っ当な権利を主張するも、
「気にするなよ。女性が入っていいのなら、同性に入られて困るものはないだろう」
アーサーは気にも留めない。
『僕は忠告したからな』
「あぁどうも」
言葉を背中で流しつつ、階段を登りきり、
「おはようメッセンジャーくん! いい朝だn」
部屋に一歩踏み込んだ瞬間
「ぶおぁっ!? ヴエッホヴェッホエ゛ッホ!!」
目、鼻、喉。
粘膜という粘膜の上で踊り狂う刺激。
もはや劇物というにふさわしい蒸気が顔を包む。
夏の籠った空気だけでは説明が付かない威力。
花束も一瞬で萎れた気がする。
「なっ! がっ! はっ! はぁっ!!」
アーサーが屈んだのは、崩れ落ちたか本能で火災対策の動きをとったか。
汗と涙と鼻水が湧く顔をハンカチで覆っていると、
「おや? 伯爵ではありませんか?」
フライパンに向かっていたジャンヌが、ようやく彼に気付く。
なんなら彼女も、砂漠の発掘隊のようにスカーフで顔を覆っている。
「きっ、君はっ! 何をしている!?」
「朝食を」
「嘘だっ! 化学兵器だっ!」
「あぁ、ベイクドビーンズを作っているんですが。ちょっとペッパーを出しすぎてしまって」
『それはおかしいだろ!』とか、せめて『そうかい』という相槌でも。
なんらか返事をしたかったアーサーだが、限界である。
「うもおおぉぉ!!」
ほうほうの体で階下へ落ち延びる。
そこではようやく落ち着いたのか、マスクを外したタシュが紅茶を飲んでいる。
「忠告はしたよ」
「あんなのがあるなら最初からそう言え!」
「どうせ『私は平気だ。君とは違うのだよ』とか言うだろ」
彼のモノマネはさっぱり似ていないが、わざと似せずバカにした感じ。
しかし発言内容にはアーサーも反論しづらい。
だから話を変えてしまう。
「アレはなんだ。彼女は料理ができないのか? それとも辛党なのか? 味覚が崩壊しているのか?」
「まぁ、あんまりしないそうだけどね。それ以上に」
アーサーが花粉のように刺激物を運んだだろうか。
タシュはまたマスクを装着する。
『いるだろ? 料理できるけどキッチン汚すタイプ。油やソース飛ばしまくったりさ。あぁ、高貴な人はキッチン入らないから分からないか』
「……とにかく、雑で撒き散らすってことだな」
『嫌だなぁ、僕の生活スペースなのに。狭いワンルームなのに』
「ご愁傷さまだよ」
ちなみに2階にも紅茶を沸かす用の給湯台がある。
わざわざ狭いフロアを割いているというのに。
やがてジャンヌが朝食を持って二階へ降りてくる。
メニューは新たにトースト、ベーコンエッグ、チーズが加わっている。
彼女がそれをモソモソ食べはじめ、
「メッセンジャーくん。ビーンズはおいしいかい?」
「辛すぎます」
「誰も幸せにならない呪物じゃないか」
悲しい事実が公表されたところで、
「うーん、それはまいったなぁ」
また手紙を読んでいたタシュがデスクで伸びをする。
一応『ケンジントン人材派遣事務所』にも電話は引いてある。
が、案件のスケジュールは早い者勝ち。
実は昼から電話するより、朝一番に読まれる手紙の方がいい場合もある。
それはさておき、
「大丈夫ですよ。そもそもあげませんから」
ジャンヌは相変わらずの塩対応。
しかしタシュの話はそこではないらしい。
「いらないいらない。さすがに僕も、最初にもらう手作りは甘いお菓子がいいからね」
「はぁ」
「じゃあいったい何に困っているんだい」
アーサーが問うと、
「これだよこれ」
タシュはさっきまで読んでいた手紙を中央の応接テーブルへ投げる。
アーサーがそれを手に取ると、ジャンヌも首を伸ばす。
だが彼女の位置からはよく見えないだろう。
そもそも距離的に、便箋の小さい文字は見えるまい。
なのでアーサーが読み上げる。
「なになに? 『拝啓ケンジントン人材派遣事務所さま』……」
「結論から言ってください」
お手紙のあいさつなんて心遣いの塊だろうに。
『メッセンジャー』とは思えない発言のジャンヌ。
「ちょっと待ちたまえよ」
アーサーも流し読みで結論を探す。
「えーとだね、『体調の悪い父が』……『ボロネーゼを作ったのですが』……ちょっと待ってくれ?」
彼は急かされても目が滑らないよう堅実にいく。
業を煮やした短気なジャンヌが腰を浮かせたタイミングで、
「あぁ、あったあった。
『父の記憶にあるレシピを読み取っていただきたいのです』
だってさ」
ジャンヌが腰を落ち着けると、タシュがふふんと笑った。
「ね? 料理の案件するには少し、危険なベイクドビーンズだろう?」
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