ある初心者傷売りの受難 3
コルフィを支えながら走るジーク。木造建築からは様々な魔物が次々現れ出ている。このままではオメガも危険に思われる。
それでも走らないわけにはいかない。カルロス無事だろうか、それにコルフィも、この怪我で本当に助かるのか? 分からない、いっそここで無傷な自分とエンジュだけでも逃げた方がいいのでは?
考えを振り切りながら渾身の力を込めて魔物たちを振り切り、やがてオメガの元まで辿り着く。エンジュが車から出てきた。
「ジーク……カルロスは?」
「陽動役として囮を引き受けた。しばらくしたら戻ってくるって言ってたから、とりあえず車を飛べそうな位置まで戻すぞ」
「うん……早く帰ろう」
そう、カルロスのいない今自分がしっかりしないといけない。ジークはコルフィを運転席に座らせた。しかし、
「……コルフィ、運転できるか?」
「て、手が震えて……」
コルフィはガチガチ震える手をハンドルに叩きつける。そして指をもう片方の手で折り曲げようとしていた。
「何してるんだよ」
「指を折って震えを止めなきゃ」
「馬鹿、そんなことしたら逆効果だろ」
「折れてよ、そして正気に戻してよ。私が、私のせいなんだから、だからやらなくちゃいけない、のに……カルロス……!」
コルフィは涙を流しながら頭を抱えた。
「コルフィ、助手席に移れ。俺が運転するから」
「ジーク……運転できる?」
コルフィが鼻をすすってそう尋ねた。
「できる、と思う。空中浮遊する際は代わってもらうかもしれんが、とにかく、ここから抜け出すには今誰かがやらないといけない」
ジークが運転席に座る。
運転、運転――
アレ? 運転ってどうやるんだっけ? ジークもまた冷静ではなかった。こんな状況下でパニックにならない方がおかしいとさえ言える。コルフィほどのパニックにはならないでもジークが焦っていると、
「まずはエンジンをかけて」
横からコルフィがそう言う。
ジークは言われた通りにした。しかし、車はなかなか動き出さない。次第にこちらにも魔物たちが集まってくる。
「コルフィ、どうすれば!」
「自動運転モードに切り替えるわ……」
コルフィは自分の手をハンドルにかざした。そうだこのオメガには自動操縦モードがあるんだった。
しかし、
「気を付けてね、このオメガの自動運転は結構荒れるから……機を見ながら手動で調整していって……一時的な手動モードの切り替え方は……」
「あ、ああ」
ジークは冷汗を垂らしながら答える。やがて車が急に走り出した。いきなりの事態にジークは焦ってハンドルに手をかける。ハンドルに手をかけても車は構わずに動いていく。このエスケーパーって指紋認証なんだよな、一度運転を止めたいときはコルフィに手を借りる必要があるようだ。
いや、今は余分なことを考えずに早く襲ってくる魔物たちから一刻も早く距離を取らねば。
早く、早く、とりあえず自動運転に任せて走る。しかしカルロスにはああ言った手前、あまり遠くへはいけない。だがもし魔物たちに追いつかれたら? 早くここから出ないといけない。そのためには何が使える。コルフィは満身創痍だしカルロスは今ここにいない。そして自分だっていっぱいいっぱいだ。後何かあるとしたらそれは――
そんな風に気をやってしまった。
「――前っ!」
だから失敗した。走るオメガの前に現れた、四足歩行の動物に老人の顔が乗っているような魔物、そいつを自動運転のオメガが勝手に避けようとして住宅へとエスケーパーが突っ込んでしまった。
「……うう、二人とも、大丈夫か?」
「ジーク、運転」
「駄目だ。動かない、糞!」
自動運転ってこんなに調整できないのか。どうせダンジョンには魔物がほとんどなんだから異物くらいそのまま轢いていけばいいのに、なんてのはシステムを知らない一般人の過激な意見だろうか。
安物は所詮安物の理由があるということかもしれないが。
「アア――……」
そして、見れば先程車にぶつかりそうだった魔物がこちらへのしのしと近付いてきている。これはまず車から出ないといけない。
「コルフィ、出られるか?」
「無理……もう無理よ……逃げられない。こんな体じゃ。私はもう」
「コルフィ!」
「逃げてエンジュちゃん、ジーク。私とカルロスのことはもういいから……」
「どこに逃げればいいんだよ!」
「多分、どこかに休憩地点があると思う。そこまで逃げて」
「そんなところ知らん!」
「ワタシ、ワカるかもしれない」
エンジュがそう言った。その言葉にジークは驚く。
「エンジュちゃん、本当か?」
「うん、知ってるから」
エンジュ――ジークは彼女をまじまじと見た。この危機的な状況でしかし彼女を信じていいのか? 本当に信じて……いや、今は彼女をただ信じてみよう。それしか助かる道はない。
「よし、じゃあ三人で一緒に」
「二人で行って……絶対に生き延びて」
「……コルフィ。でも俺はカルロスに頼まれたんだ」
「……なら私にも頼まれて。生きて帰るって。私のせいでこんなことになった……だから私のせいで更に皆を危険に晒したくない……」
「そんな、諦めるなよコルフィ、折角なんとかなりそうなんだ」
「その可能性を私が台無しにしたくないの。二人で逃げて、二人でも駄目なら一人でも生きて地上に戻って! 早く!」
迷っている時間はなかった。魔物たちは集まってきている。ジークとエンジュは車をしっかり閉めて出て行った。その去り際にエンジュはオメガの中に何かを放り込んだ。
そして二人は逃げ出した。
「無理よね。もうどうにもならない。でも私は一緒だから。逝く時は一緒だから……ね、カルロス……」
◇◇◇
何でこんなことになったんだ。どこで間違えた。こんなはずじゃなかった。油断してた? 魔物だってどうせ大したことないと高をくくってた? 直接見たことだってなかったのに? 糞、誰か助けろよ、神様とか。そんな神頼みをジークは心の中でした。そしてそんなこと無意味だろうことは分かっていた。
無意味――
今更カルロスとコルフィのことを考えてもどうしようもない、のか? もうあの二人のことを考えてもそれは……
なんて思いたくない。
でもどうすることも思いつかない。
それより今は逃げないと。現実が迫っている。逃げるしかないのだ、どれだけ無様でも知らない、だから早く安全なところへ――
しかし、本当に逃げ切れるのか?
安全な逃げ場所何て本当にあるのか?
エンジュを信じようとした矢先にコルフィとの別れ。こんなのあんまりだ。たとえ帰還できても自分はこれから一生このことを引きずるんだ。
そんな諦めをしたくなかった。
エンジュの手を引っ張りながら必死に足を動かすジークは、はち切れそうな頭の中でどうすればいいかを考えていた。
そんな風に我武者羅に走っていると、おもむろにエンジュが言う。
「なんだか、ダンジョン、ヘンな感じ」
「今更かよ。ああ、確かに変なダンジョンだ。まるで人間が住んでいるかのような建築物の数々、気味が悪い……」
「うーん、違うくて、そういうことじゃなくて……ダンジョンそのモノが……」
「どういうこと?」
そうジークが問うとエンジュは被りを振る。その煮え切らない様に少し苛立ったジークは話を変える。
「エンジュちゃん、休憩地点ってどこ?」
「このまま突き当りに行ってハシを渡って少し進んだサキ、あったはず」
「橋? でも何でそんなことを?」
「ホンで読んだことある。ここはクルウムラ」
「クルウムラ?」
「コーナンイドダンジョン。このダンジョンはソトからナカまで三つのモンがある、特にナカの建物、キケンなマモノがいるって」
「詳しいなエンジュちゃん。絶対に生きて帰ろうな」
仲間たちの分まで、とは言わなかった。
エンジュはこくりと頷く。彼女を信じることで安堵感を取り戻しているジーク。今までは思いもしなかった、彼女を頼りにする日が来るなんて。今エンジュこそがジークの命綱と言っても過言ではなかった。
でもカルロスは……。それにコルフィも、自分は見捨ててしまった。付き合いはそこまで長くはない、けれど、仲間をダンジョンの中に置き去りにするなんて。
頼まれたにも関わらずジークはそうしてしまった。なんて自分は、愚かで、薄っぺらくて、最悪なんだ。
いや、駄目だ……今はネガティブなことを考えてはいけない。そのテンションではエンジュまで危険に遭わせてしまう。今はただ生き延びることだけを考えて――。
すると、目の前に赤い橋が見えてきた。
「あれか。あの橋を渡ればいいんだな」
エンジュがこくりと頷いた。よし、と走る足に力を込めて行く。
しかし、
「きゃ――」
次の瞬間だった、橋の横道から現れた何かがエンジュに飛び掛かった。それは黒いボンテージを纏った女性形の魔物。
「サ、サキュバス……」
「こいつ、エンジュちゃんから離れろ!」
ジークは剣を抜いてエンジュの前に立ちはだかり魔物を追い払おうとする。自分にあるのは剣技のスキル、詠唱している時間はない、しかし無詠唱はまだできない。ならば、
よし、
「シャドウエッジ!」
一節まで内容を絞った短縮詠唱――所謂技名詠唱(一節でも言い終わるまでは技が出ないので、避けられる危険性がある)。ジークの剣とその影から発せられる二つの斬撃が魔物に襲い掛かる。
「…………」
「な――」
しかしサキュバスにはまるで効いていなかった。そのはずだ、所詮普通の人間にできるのは魔物への牽制が精々だ。自分の防衛機制技能では当然望むべくもない。
だがそんな現実をジークは認められない。
「もう一回、シャドウエッジ!」
泣きそうな顔で再び放ったその攻撃がサキュバスの肢体に飲み込まれる。斬撃はわずかにその肌に傷をつけた。
僅かだが効果はないわけではないようだ。
ジークは冷静さを取り戻そうと頭を回転させる。サキュバスということは魅了の状態異常を使うということ。だとしたら男の自分は危ない。できればエンジュに頑張ってほしいところではあるが……。
そんなことを考えていると、その視界の先でサキュバスが嘲笑のような微笑みを浮かべた。
サキュバスに目を向けるジーク。瞠目した。そこにあった血滴る傷跡が、熱を放ちながら塞がっていくシーンを。
「…………ぁ」
そこでようやくジークは悟った。
人間と魔物との間にある圧倒的な差を。
絶望と言うものを。
だが、サキュバスは妖艶に笑うと一度ジークたちから距離をとる。
「え?」
どうやら気を抜かせる程度には役に立ったのだろうか? 情けない話ではあったが今はそれを一縷の希望とするしかない、と思ったが、
「クスクスクスクス」
サキュバスは笑みを浮かべたまま先端がスペードの形の尻尾を揺らしている。この笑みの感じは違う。この魔物はこちらの命で遊ぼうとしているのだとジークは理解した。
「糞――糞ッ!」
もはや敵うはずもないこのモンスター。それだけではない、このドンパチを聞きつけた魔物たちが集まってくるのも時間の問題。だとしたら後できるのは、もう目の前の魔物たちを無視して一目散で休憩地点まで駆け抜けていくこと、それだけなのだと……とにもかくにも逃げなくては。
後ろ目でエンジュを見ると、
「エン、ジュ……?」
「あ、あ……」
エンジュの腹部から血がボトボトと零れている。先程のサキュバスの爪で引っかかれただけ、たったそれだけのことで腹の臓物が零れ落ちそうになるほどの大怪我をしていた。
「エンジュちゃん!」
「あー……これは……キケン」
そして更に周囲から聞こえてくる他の魔物たちが現れる声。赤い月が作り出す魔物の影がジークとエンジュを囲んでいた。
「――――」
嘲笑うような声が重なる。魔物たちは今まさにその残酷な本性を発揮する機会を窺っているようだ。きっと奴らはジーク達に簡単に諦めることを許さないだろう。とことんギリギリまで、心の臓が最後の断末魔を上げるまで暴虐の限りを尽くすのだろう。
人間の命を娯楽にするようにして。
これは、これは、もう――
「エンジュちゃん、早く休憩地点に……立てるか? 意識は?」
「ジーク、はなれてて……」
「エンジュ、おいッ! やめろよ。俺たちは絶対に帰るんだ、なあ!」
エンジュもまた自分のことを諦めているのか? だとしたら今無傷な自分が、自分だけが助かる道を探すべきなのでは? エンジュもカルロスやコルフィたちのように置いていく? そんな一人だけ助かる終わり方なんて、認めては……こんな恐ろしい場所に仲間を置き去りに? 嫌だ。一人でも生き延びろとコルフィに言われたがそれなら迷わずエンジュを逃がしたかった。それがこんな事態になってしまって。いっそ地べたに頭をこすりつけて魔物たちに命乞いでもしてみたらどうだろうか、何て考える。心から願えばあるいは、いやそんなことしても通じないだろう。しかしこのまま一人だけおめおめと逃げ生き延びるなんてそんなの……、
だが、
「ワタシ、イマからちょっと、頑張る。ジーク、テキ、引き付けて……」
「はあ?」
ジークは動き出すエンジュに呆気に取られていた。
「イマしかないこの瞬間、ゼンブ賭ける! ワタシがミンナ救ってみせる!」
ゆらりと腹部を抑えながら立ち上がる。右手に球体のようなものを掴んでいる。それが光り輝いている。いつものぬぼっとした表情でも、その目は死んでいないのが分かる。闘志が漲っている――。
「……ッ」
エンジュが何を言っているのか、何をしようとしているのか、ジークは分からなかった。しかし、それでも彼女を庇うように量を広げてて魔物たちに注意を張る。
そして魔物たちはそんな背後の彼女に呼応するように舌なめずりをしている。
怖気が走るのを我慢して剣を再び抜く。
すると直後、背後で今まで聞いたことのないような真剣な、さながら古文書を音読するような声をエンジュが口に出していく。
「薄くネを張りテンへと昇る。ソは紛うことなきマスイショウ。キハクに漏れて、縺れるコトバ。ワレと離れしココロも一つに集う。滴るチを捧げ、冱て、凍れ、冷気のカベンよワレのチカラをメザメサマセ――」
これはエンジュの詠唱?――しかし、それはジークが唱えたものよりもずっと高度なものだった。短縮詠唱ではない長文の詠唱というのもあるが、しかしそれだけではない。詠唱には本来決まった定型文があるが、それを自身や場の状況に合わせてアレンジするオリジナル詠唱という方法もあるという。成功するとより高度な形でスキルを発動することができるという応用技だ。
この言葉遣いは多分オリジナル詠唱だと、襲い来る魔物たちに及び腰で剣を滅茶苦茶に振るいながらジークは気付く。
「……氷魔法?」
詠唱とともに、冷たい空気がエンジュの周囲から溢れてきた。
そういえば聞いたことがある。エンジュは特殊な血筋の持ち主で、エルフとしては珍しい氷魔法を使えるということを。だが普段はマナが足りずに使えないとのことだったが。
待てよ、魔物による攻撃により傷跡からマナが満ちる。それは普段の肉体よりも豊富なマナがあるということで――。
つまり、そういうことか。
傷を受けた状態でのみ使える強力な魔法のことを。
「エンジュちゃん!」
エンジュの足元から氷の蓮が現れ、複数の魔法陣が展開される。そしてその容姿もまた白い妖精のような姿になっていった。彼女の体がふわりと浮かび上がり、右手が放った球体が宙を泳いだ――
「ダイヤモンド・ブレイバー!」
――そして凄まじい大きさの氷柱が空へ輝き上った。