湖の神と有賀家の母
つつましやかな家々や点在するほっそりとした木々を横目に、急な坂を右に左に何度も曲がり、斜面を這うようにして進んだ先に湖はあった。
「わあ! おっきい!」
メーラの背中でチエが歓声をあげる。
坂道を進み火照った頬に、水面を走った風が心地良い。
「すごいなあ。こんなに大きいのに海じゃないのか」
トオルがうっかり素直に感心の声をあげてしまうほどには立派な湖だったが、湖面はどこまでも静かに凪いでいた。
やや離れた水辺の広場に、思い思いの道具を手にした村人の姿がちらほらと見える。距離があるため、声は届かない。
「静かだな……濁っているわけでもないようだが、底が見えない」
水辺に寄った十蔵が、湖をのぞきこんで眉を寄せる。
並ぶキヨラも頬に手を当てて首をかしげた。
「お魚いないわねえ。水草もないし、鳥もいないみたい。ちょっぴり寂しいわねえ」
「神の加護が弱まっている証拠だな。まだ消滅はしていないようだが」
鼻づらを水面に寄せたメーラは、水の匂いをふんふん嗅いで何か感じるものがあるのか、低くつぶやく。
背中のチエは静まり返った水をのぞきこんで「おさかなさんいないの……」としょんぼり。
つん、と静かな湖面を揺らしたのはキヨラだった。
「このお水、飲めるのかしら」
「ああ、問題ない。力が弱まっただけで、神が消滅したわけではないからな」
メーラが答えると、キヨラはいそいそと背負っていたリュックを下ろす。
「うれしいわ、水筒の中身がさみしくなっちゃっていたのよね」
「ああ、飲み水の確保は大切だな。私も補充しておこう」
「チィもー!」
「……チエ、兄ちゃんが手伝ってやるよ」
ほんわかしているようでいて案外しっかりものの母に続き、一家はそろって自分の水筒を取りだした。素直になれないお年頃のトオルは、幼い妹にかこつけて。
ハイキングの道中で消費した分の水をそれぞれの水筒に満たしていく。
たっぷりと汲んだ水をさっそくコップに注ぎ、ひとくち。喉を潤したキヨラはにこにこと水面に笑顔を向けた。
「冷たくってとってもおいしいわあ湖の神さま、きれいなお水をありがとうございます」
キヨラの口をついたのは、感謝の言葉。
その途端。
ぐわり、と湖の水面が揺れた。いや、水色の光が湖を覆いつくしていた。
「あら?」
「……出たな」
頬に手を当てて首をかしげたキヨラの隣で、メーラが心なしか肩を落とす。
そこへ透き通った声が降ってきた。
「あなたへわたくしの加護を授けましょう」
声の主は湖のうえに立っていた。いや、湖面に溶けるようにしてそこにいた。
深い青色の長い髪を背に流した、美しい女性。
抜けるように白い肌は温もりを感じさせず、潤んだ瞳は水面によく似てひどく凪いでおり、感情をうかがわせない。
淡い水色から黒にも見える青色まで流れるように色の移り変わる布をまとった女性の姿に、遠くで村人たちの騒ぐ声がした。
「あれは、湖の女神!?」
「おお、女神さま! 女神がようやく姿をお見せになった」
その声を受けてキヨラが「あらあ」と目をぱちくり。
そこへ女神の手のひらからぶわりと広がった薄青い光が、キヨラの身を包み込む。
光は瞬く間におさまったが、朝の水面のようなきらめきがキヨラに宿っていた。
何事か、と慌てた十蔵とトオルがキヨラに駆け寄ろうとするのをメーラが尾で止める。
「害はないから安心しろ。だが、あの女神の機嫌を損ねるのはまずいからな……黙って見ていてくれ」
「……何か起こりそうならば、私は飛び込むからな」
「そのときはメーラ、チエを頼むよ」
夫と息子が腹をくくっているとも知らずに、キヨラはにっこりにこにこ。
「湖の女神さま、はじめまして」
マイペースにあいさつするキヨラに、湖の女神は鷹揚にうなずく。
「わたくしの名はミクマリ。あなたの捧げた祈りに応え、名を呼ぶことを許しましょう」
「ミクマリさまというのね。水をたくさんいただいたの、とっても助かりました」
「おいしーよ! ありがとう!」
母の笑顔に続けて、チエがにっこり。
カッと水面を染めた光にミクマリはわずかに目を大きく開き、するりと手を持ち上げた。
手のひらがチエに向けられ、ミクマリが口を開く。
「あなたにもわたくしの、」
けれど皆まで言うことはできなかった。
「女神さま! 湖の神さま! わたしらの暮らしを助けてください!」
「魚が減っているんです。みんな満足に腹が満たせないんです」
「どうか神の力でわしらをお助けください。神さま、どうか!」
女神の姿を目にした村人たちが、口々に叫びながら押し寄せる。先頭には先ほど別れたばかりのトゥルーリの姿もある。
駆けてくるその勢いに、湖のほとりにいては巻き込まれてしまう、とチエを背に乗せたメーラはトオルを口に咥え、十蔵を前脚で抱えて飛び退いた。
けれど、女神のそばにいたキヨラまでは守りきれない。
「キヨラッ」
妻の名を叫び、十蔵が手を伸ばすなか、殺到する人々に押され、キヨラの身体はぐらり、水のうえ。
底の見えない深い湖に飲まれてしまう、と一家とメーラが息を呑んだそのとき。
しゃりん、と涼しげな音を立てて水飛沫がキヨラの身を受け止めた。
まぶしいほどにきらめく湖の水はキヨラを丁寧に陸へと押し戻す。口を大きくあけた村人の頭上を通り過ぎ、メーラと家族の元へ。
「あらまあ、助かったわあ。ありがとう」
湖へと帰る水にお礼を伝えるキヨラの姿に、ミクマリは濡れた目を細めた。
かと思えば、ゆるりと顔を持ち上げ凍てついた視線で村人たちを見据える。先頭にいたトゥルーリの広いひたいに冷や汗が光る。
村人の誰一人として身動きができないなか、ミクマリの視線がすうっとキヨラへ向いた。
ほんのりと潤んだ瞳でミクマリは問う。
「かわいい子、加護を与えし子、キヨラ。わたくしはあなたを害するものを許しません。この者どもを水の底へ沈めれば、あなたは喜びますか? それとも湖を無くし、村を干上がらせれば喜びますか」
さらさらと紡がれた恐ろしい問いかけに、村人たちがざわめき顔を青ざめさせる。
すがる目を向けられたキヨラは「あらぁ」と困り顔。
「どっちもうれしくないわねえ」
心からの本音に村人たちがほっとする間も無く、キヨラが続ける。
「でも、ミクマリさんがここにいるのがもう嫌なら、私たちといっしょに行くのも良いかもしれないわねえ」
ほんのりと笑顔さえ浮かべて告げられた村の破滅に、人々はどよめいた。