湖の村
村は、大きな湖を臨む山沿いにあった。
山の斜面のわずかな平地を覆うように建つ家々は、土地が狭いせいだろうどれもこじんまりとしている。
「数十年前に見たヨーロッパの田舎のようだな」
「そうねえ、新婚旅行で行ったイタリアを思い出すわあ」
坂道の下に広がる景色を眺めて十蔵とキヨラが言葉を交わす横で「チィちゃん写真見た!」「ああ、そんなアルバムあったな」と兄妹はうなずく。
「よろっぱ?」
ひとり、地球のことを知らないメーラが首をかしげたそのとき。
ばたばたと騒がしい足音が複数、近づいてくるのが聞こえた。
警戒をする間もなく、坂道の下から駆けてきたのは村人の集団。
頭頂部がまぶしい還暦を迎えているであろう男を先頭に、十人ほどが坂を上ってきた。
たどり着いた一団から守るように、メーラが一家の前に巨躯で立ちふさがる。チィはすでにトオルの腕のなかだ。
「あなたがた! 村の外から、来ましたなっ」
集団の先頭に立った男が息を弾ませながらたずねた。毛のない頭部で汗がきらりと光る。
その声には警戒ではなく、隠し切れない期待がにじんでいる。
「ええ、この村へ来るのは初めてです。失礼ですが、あなたのお名前は?」
なんと答えるべきか、トオルが悩んだときには十蔵が答えていた。村人でないことは一目瞭然、隠しようもないのだから素直に告げることで不利益はないと踏んだのだろう。
メーラと並んで立つ背中が大きく見えて、トオルはすこしだけ悔しいような気持ちになる。
「おお! 名乗りもせずにこれは失礼を。わしはトゥルーリと申します。して、あなたがたは神さまでしょうかな?」
つるりと磨かれた頭頂部を光らせたトゥルーリの問いに、十蔵はちらりとメーラに目をやった。
あなたが神だと伝えてもいいだろうか、と十蔵の目が問うのに、メーラはうろりと視線を泳がせる。
わずかな間を置いてかすかに頭を上下させたメーラだったが、十蔵は「ふむ」と眼鏡を押し上げた。
「私はひとです」
メーラのことには触れず十蔵が答えれば、トゥルーリはあからさまに落胆を見せる。
「ああ、村の外へ通じる道が消えてからいつぶりの来訪神かと思ったのですが」
「私たちは道の神の気まぐれでこの村へ寄こされただけですから。あなたがたは、神をお待ちなのですか?」
神の気まぐれ。
先ほど別れたシルベの所業をやんわりと表現した十蔵の言いようは、現地人の同情を誘うものだったらしい。
相対する村人たちの落胆が同情でやわらいだ。
同時に、警戒心もゆるんだのだろう。
村人の長的存在だと思われるトゥルーリが感情も露わに肩を落として頷いた。
「ええ。下に見えるでしょう、湖の力が弱っておりましてな。獲れる魚の量が年々、減っている。加えて各家に植わっている木から採れる果樹の数も減り、大きさも小さくなる一方でしてな」
「神頼みをしようと思っておられた、と」
「その通りですな」
途絶えたはずの道を通って神々が助けに来てくれたのだ、と駆けてきたのだろう。
その期待と落胆を思って、トオルはたまらなくなった。
――なんで父さんはメーラが神さまだって言わないんだ。メーラも、どうして顔を伏せてるんだ。人の姿に戻って言えばいいのに。俺が神だ、って!
一様に落ち込む村人たちの姿を前にトオルは黙っていられなかった。腕のなかの妹を母に渡して、一歩踏み出した。
「神さまなら、この大きな獣が神さまだ。鍛冶の神。なあ、メーラ!」
獣の大きな頭をぐいと押すように村人たちへ向ける。
返ってくるのは喜びの眼差し、そう思っていたトオルだったが。
「鍛冶?」
「なんだ、火にまつわる神じゃないか」
「うちに鍛冶師はいねえのにな」
村人たちは眉を寄せ、肩をすくめたのみ。そこに神を迎える喜びはない。
「え、なんで」
トオルが驚いたとき、後ろのほうに立っていた村人の女性が「ああそうだ」と声をあげた。
「鍛冶の神さまなら、包丁を研いでおくれよ。切れ味が悪くって不便なんだ」
「ああ、それならば俺が力になれる」
ほっとしたようにメーラが答える、その声を受けてトゥルーリがひたいをつるり。
「それじゃあ、まあ、皆に知らせてくれ。手入れしてもらいたい道具がある者は広場に持ってくるように、と。鍛冶の神も良いですかな。しばらく後に、湖そばの広場へ来ていただいて」
「ああ」
メーラがうなずいて、トゥルーリは人びとに声をかけた。
指示を出すその声も格別に弾んだものではなく、喜びは見えない。
動きだした村人たちも急ぐ様子は見て取れず、仕方なしに行動しているとしか感じられなかった。
「なんで」
トオルにはその反応が信じられなかった。
トオルはメーラが神だと知っている。それも金づちの一振りで道具を生み出す、素晴らしい力を持った神だ。
そんな神が来たのだと知れば村人たちはきっと喜ぶだろうと、メーラのことを褒め称えて歓迎してくれるだろうと思って声を上げたというのに。
思い描いたものとまったく違う反応に戸惑うトオルの肩を十蔵が叩いた。
「トオル。常識というのはひとによって変わるものだ。特に私たちは違う世界から来たのだから、我々の『当たり前』がこの世界の人々に通じない可能性を考えておくべきだ」
トオルがむっとしたのは、それが正論であったから。そして正論であるとわかっていても相手が父親だと思うと、反抗したい気持ちが湧いたのは、トオルが思春期だからだ。
けれど。
「私の言葉を受け入れるも拒絶するもお前しだいだ。だが、今は他に気に掛けるべき相手がいるだろう」
続いた十蔵の言葉に、トオルの意識は父の隣に立つ巨大な獣へ向く。
大きな耳をわずかに伏せて長い尾を力無く垂らし、明らかにしょげている神。
「あ、メーラ……その、ごめん……」
「謝るな。お前に悪気が無いことはわかっている。ただ俺が、村人たちの望む神ではなかっただけのこと。俺はひとに寄り添う神だからな、神力が満たされようとも成せることは多くない」
寂し気に片目を細め、尾をちいさく振る姿はひどく寂し気だ。
誇らしく思っている神を落ち込ませているのが自分だと気づいて、トオルの胸がきしりと痛む。
けれどなんと声をかけたものか、トオルにはわからない。
おろおろと視線をさ迷わせるだけのトオルを気遣ってか、キヨラが言った。
「坂を下りてみましょう。広場は湖のすぐそばだそうよ」
「チィちゃん、お水ぱちゃぱちゃするー!」
「坂がきついからな、チエは父さんが抱っこしよう」
いつもよりほんの少しだけ落ち着いた母の声が、いつも通りに明るく愛らしい妹の声が、いつもと変わらず落ち着いた父の声が、今のトオルにはひどく染みた。