樹の神イタテ
十蔵とキヨラが戻ってきたのは、朝食で膨れていたトオルの腹がすいてきたころ。
ちょうどメーラをたずねてくる街のひとの流れが途切れたときだった。
「ただいまあ。はあ~、楽しかったわあ~」
「ただいま……」
キヨラは声をはずませているのに対し、十蔵は眼鏡をどんよりと曇らせ覇気がない。
ふたりそれぞれに背負って行ったリュックサックのふくらみ具合が行きと変わらないのを見てとって、トオルは恐る恐る口を開く。
「おかえり、なんか、その……うまくいかなかったの?」
反抗期。けれど元気のない父が気にならないわけではない。
そわそわと視線をそらしながらも訊ねるトオルに、十蔵は「いや……」と力なく首を振る。その背にキヨラが飛びついた。
「交換はだーい成功よう!」
ぶいぶい、と両手でピースサインをつくるキヨラに、チエが「おかえりなさーい! チィちゃんもがんばったんだよ」と抱き着く。
チエの頭をなでなでしたキヨラは、リュックの中身を取り出しては並べていった。
「ほらほら、これは日持ちするごはんで、これはあ、歯ブラシ替わりのトクサっていう草だそうよう」
「え~、草でみがきするの? にがくなあい?」
「どうかしらねえ。お昼に使ってみましょうかあ」
キヨラとチエがはしゃぎながら確認している品々。
食料、衣類、その他の生活必需品。
たっぷりと集められた物資に不足はないように思える。
ならば何が十蔵をぐったりとさせているのか。
「……母さんは、すごいな……物々交換すら楽しんで。いくつになってもあの勢いが衰えないのか……」
遠い目でつぶやく父の姿に、トオルはいつか見た両親の若いころの写真を思い出した。
海で、山で、観光地で。どこで撮られた写真も共通していたことは、満面の笑みの母の横で父はいつもどこか疲れたように見えていたこと。
そして、トオル自身も幼いころいっしょに買い物に行ったときには、楽し気に商品をとっかえひっかえする母に付き合わされて気疲れしたことを。
「……まあ、お疲れ」
ぽん、と父の肩を叩いてトオルは戦利品を囲むひとりに加わった。
母の与えるパワーによって、思春期の少年と父親との溝がほんのり埋まった瞬間だった。
***
神樹を目指して一直線。
目印が見えているならあとは進むのみ。
休憩は必要ないと獣の姿をとったメーラの背で一家は交代で身体を休めつつ、どれほど進んだだろう。
昼を過ぎてしばらくするころ、彼方に見えていた巨木の真下にたどり着いていた。
広く張り出した枝葉はよく茂っているが、不思議と陽光をさえぎらない。
むしろほどよく光が絞られた木漏れ日は、生物にとって暮らし良い空間を作りだしているようで、神樹が伸ばす枝の下に入ってからはさまざまな野生動物の姿がちらついていた。
「ふむ……街の木の状態は良くないようだが、神樹自体はさほどくたびれているようには見えないな」
樹を見上げた十蔵が眼鏡を光らせる。
近づきすぎたせいで神樹の大部分は見えなくなってしまったが、見えている範囲に関しては枯れているということもない。
また、道中でも枝葉が落ちている様子も見られず、高くそびえる幹が折れているといったこともなかった。
「まわりも、むしろきれいじゃん。なんて言うの、自然があふれてる感じがする」
周囲を見回したトオルも同意する。
見下ろせば、足元にはちいさな花が揺れていた。
道中もあれこれと植物が芽吹き、花を咲かせていた。
トオルにはそれぞれの名はわからないが、樹に近づくほど種類が増え勢いを増していることくらいは見てとれた。
「街では木の実が成らなくて困ってるって言っていたのに、ふしぎねえ」
「みずうみのとこでも木さん、元気なかったよ! ひょろひょろ~ってしてた」
キヨラとチエが顔を見合わせる横をすり抜け、人の形をとったメーラが幹に手を触れる。
「ふむ。神力が満ち溢れているとはいえないが、枯渇寸前とも思えないな」
「そりゃそうさ」
返事は上から降って来た。
驚き、顔をあげた一家の視線の先にふわんと降りてきたのは緑の衣をまとった青年。
緑のじゅうたんに裸足のつま先が音もなく着地をし、あとを追うように服と髪の毛がふわりと彼の身に沿う。
「やあ、メーラ」
「イタテ。久しいな」
微笑む樹の神に、鍛冶の神はちいさく笑った。
互いに旧知の仲なのだろう。
笑顔を交わし合う神々の姿は、木漏れ日に照らされてまさしく神々しい。
おいそれと割り入ることのできない雰囲気に、有賀一家は声もなくただ見つめるばかり。
「メーラのほうから会いに来るなんて、はじめてじゃあないか? お前さんのところのひとも、とうとういなくなったかい」
穏やかにたずねるイタテは落ち着いていた。
あまりにも落ち着きすぎている、と感じながらもメーラは「ああ」とうなずく。
「神力が枯れてな。村が無に帰す前に皆、離れるよう伝えた。そのまま終わろうと思っていたんだが、何の縁かこの者たちに救われてな」
話の流れで紹介された有賀一家に目をやったイタテは「そうかい、そうかい」と反応が軽い。
あまりにも軽い反応にメーラが眉を寄せたのは、イタテが樹の神であるから。
創世のころ、メーラが定住する地を見つける前に見知っていたイタテは心底からあらゆる命を好いていた。
かつて、ひとが飢えないようにと国じゅうのひとのそばに実をつける木を与えたのはイタテだ。
神のなかでもひとを深く愛していた神であるのに、はるばる訪ねてきた有賀一家を見ても表情はうすく笑ったまま。
一家がメーラを救ったと聞いても、樹のそばに立ったまま近よりもしない。
おかしい、と感じながらもメーラは続けた。
「イタテも樹もそう弱っているようには見えないが、どうした?」
「どうしたって、なにがだい」
にこにこ答える声に棘はない。けれど、何かがおかしい。
「ここまでの道中、立ち寄った村や街で木が実をつけず困っていると聞いた。てっきりイタテも神力が枯れかけているものと思ったが」
「はは。そのことか」
イタテはからりと笑った。
大切にしていたはずのひとたちが困っていると聞いて、何でもないことのように笑ったのだ。