有賀家の母、キレる
にこにこと笑いながら言うキヨラだが、その目が全く笑っていないことに気が付いたトオルと十蔵は、こっそり視線を交わし合う。
「親父、止めろよ。あんたの嫁だろう」
「無理だな。ああなった彼女を止めるには私では力不足だ」
こそこそと話したふたりは無言でそっと身を引いた。
メーラと向き合っていた男はキヨラの笑顔に隠された怒りに気づかないのか、不思議そうに首をかしげる。
「道具などとは思っておりませんとも。神はひとの役に立つことを望んでおられるのです。現にこの街にやってくる神々は、どなたも喜んで神力を使ってくださいますから」
そのあまりにも悪びれない態度にキヨラはひっそりと眉を寄せ、にっこり笑顔で頷いた。
「そうなんですねえ。でもうちのメーラさんは旅の途中ですから。私たちの知りたい情報が得られたら、また旅に出ますからねえ」
キヨラが言うのに一行はそろって瞬いた。いや、メーラの肩に乗るチエだけは楽し気に「次はどっちにいくのかな~」と歌うように空を見上げている。
顔を寄せ合ったのは男たち三人だ。
「情報を得られ次第出発だ、などと話していたか?」
メーラがささやくのに、トオルが首を振る。
「いいや、昨日は疲れてすぐ寝たし、朝は起きてご飯食べてるところにあの人が来たから、ご飯のあとのことはまだ何も決めてねえ、よな?」
自信なさげにふられた十蔵がしっかりと頷く。
「私もそのように記憶している。が、今口を挟むのは悪手だろう。それに、彼女の言う情報が何なのかも知っておきたい。しばし見守ってみよう」
うんうんと頷き合って男たちはそっと息を殺した。
そんなことには気づきもせず、街の男は「そうでしたか」と頭をかく。
「ええ。ですので教えてほしいのですけど、神樹というのはどちらの方向にあるのかしら」
「神樹ですか。でしたら」
振り向いた男が示したのは、一行が街に入って来た道を真っすぐ進んだ先。ところどころが白く無に帰した景色に高くそびえる黒い影
かなたというほど遠く離れてはおらず、だというのにその天辺ははるかにかすんで見てとれない。
その威容は高さだけにとどまらなかった。
「あれ……樹か?」
トオルが信じられないとばかりにつぶやくのも無理はないほどに広がった枝葉が、まるで山のように大きな影を作っている。
「すっごぉい!」
「これはすごいな」
「あらああ、とってもわかりやすい目印ねえ」
想像以上の巨大さに一家はそろって歓声をあげた。
「あれが国じゅうの民に木の実を分け与えているイタテの本体だ。さて、ここからならばどれほど歩けばたどり着くか」
面識があるのか、懐かし気に目を細めたメーラのつぶやきに、街の男は「おお!」と顔をほころばせる。
「神樹に会いにいかれるのでしたか! それでしたらぜひとも、お伝えください。このところめっきりと木の実の生りが悪く、街の者たちは皆困っているのです。いくら待っても木が実をつけないものだから住んでいた村を捨ててこの街へと流れてくる人も増えております。樹の神にはどうかより多くの実りを多くの者に届けてくださるように、と」
にこにこと言う男の言葉が終わるより先に、十蔵がトオルの前にそっと手を広げた。十蔵は何も言わず、けれどじっと視線を向けられたトオルはこっそりとため息をついてゆるく首を横に振る。
「わかってる。いや、納得できてはないけど、ここの人たちはこうなんだって、もうわかった。……むかつくけど」
拳を強く握ってつぶやく息子の姿に成長を感じ、十蔵は眼鏡の向こうでこっそりと目を細めた。
しかしそれはそれ。これはこれである。
十蔵は意識して背筋を伸ばし、町の男と向き合う。
きちりと襟を正し、脚をそろえて眼鏡をくいっと押し上げた。
着ているものこそハイキングのために上下ジャージだが、整えられたスーツを幻視するほどにぴしっとした十蔵が男に言う。
「つかぬことを伺いますが、街の方々は神樹の元へごあいさつに向かわれたことはおありですか?」
「え、あ。あいさつですか?」
きょとりと聞き返した隙を逃す十蔵ではない。
すっと半歩、間を詰めて「はい」と答えたあとに間は置かず続ける。
「私たちが神樹の元へ向かったその際に、街の方々のご要望をお伝えすることはもちろん可能です。ですが、やはりここは街にお住まいの方々がご自身の言葉でもって神へお伝えになられたほうが、皆さまがどれほどお困りかという実情がより正確に神に届くのではないかと思いまして」
すらりすらすら。
決して押しつけがましくはなく、けれど相手が止める隙など与えず十蔵は言い切った。
直接的に街の人々を非難はしていないが、丁寧な言葉を用いて婉曲に伝えたのは「なぜ自分たちで動かないのか」。
トオルがこの世界の人々に対して何度も腹を立てたその件について、十蔵はたずねたのだ。
対する異世界の街の住人の反応は、不思議そうに首をかしげるというもの。
「神がこの街にいらっしゃればそれは皆、あいさつをすることでありましょう。しかし、神は遠く街の外においでであり、この街に姿を現したという記録は残っておりません。であれば、あいさつのしようはございませんよ。我々は非力な人間ですから」
あくまでもほがらかに言ってのける男を前に、今度こそトオルは腹が立つのを抑えられなかった。
カッとなって、けれど怒声を発する前にメーラに肩を叩かれて、怒りを飲み込む。
その間を狙ったように、十蔵が口を開く。
「そうでしたか。それでは、樹の神にお会いできた折には皆さまに代わってお伝えしておきましょう」
「ええ、ええ。ぜひよろしくお願いいたします。私どもをお助けくださいますように、と」
にこにこ笑った男はメーラにも頭を下げると、機嫌良く去っていった。
その背がすっかり見えなくなるまで待ってから、十蔵は家族とメーラに向きなおる。
愛想の良い笑顔などかけらもないまま、すちゃりと眼鏡を押し上げた。
「さて。偉大な樹の神に言わねばならないことができた」
「ありがとうって伝える大切さ、わからせてあげないといけないみたいねえ」
ふふふ、くすくすと笑い合う両親の笑顔に、トオルの怒りはあっさり霞む。
メーラの頭にしがみついたチエが「お父さんとお母さん、たのしそうねえ」と笑うのにトオルは「……そうだな」と返すので精一杯だった。