欠けることは許さない
「メーラ、あいつらどうにかする方法はないのか!? このままじゃ追いつかれるっ」
駆けるメーラの脇に抱えられたトオルは、逃げるのとは反対方向に頭が向いていた。
おかげで、必死に走る父と母の背後に迫る死者たちの黒い影もよく見える。
進むごとに洞窟は暗く陰湿さを増し、そのせいかどうかわからないが死者の数も増えていく。ぞわりぞわりと寄り集まった死者たちの影は今や大きく膨れ上がり、ネノ国を照らす薄青く冷えた光すら飲み込む勢いだ。
焦り、叫ぶトオルにメーラは足を緩めないまま「わからん!」と答えた。
「そもそも死者と生者が交わることのないよう、国を分けているんだ。出会うことのない相手への対処など知りようもない。死者が陽光を嫌うことくらいしか、俺にはわからんっ」
「陽光って、こんな地下で無理だろ……詰んだ……!」
不安定な体勢のなか、トオルはリュックから取り出した懐中電灯を振り回してみた。けれど無機質な光を嫌って身動ぎはするものの、死者たちは光の当たらぬ先へ逃げて再びおぞましい塊へと戻るだけ。
一行を追いかける死者の数が減ることはなく、生者である逃げる側に疲労が蓄積するばかり。
このままでは全員そろって命の輝きを欲する死者に飲まれてしまう。
だったら、とトオルは噛みしめていた唇を開いた。
「……メーラ、全員で違う方向に逃げたら、誰が追いかけられると思う?」
「っトオル、それは」
死者たちを惹きつけているのは生者の命の輝き。
メーラをはじめ、生きている者である有賀一家にその輝きは見えはしない。
けれど、その輝きに違いがあるとするならば、若い命のほうが輝いているのではないだろうか。だからこそ、一家の中で一番幼く、言い換えるならば若いチエがさらわれたのではないのか。
そう考えたトオルの問いに、メーラが言葉を詰まらせたとき。
「そんなものは! 考える価値も、ない、問いだっ」
叫んだのは十蔵だった。
息も絶え絶え、けれど食いしばった歯の間から彼は息子へ言葉をつづる。
「家族をっ助けるために、家族を犠牲にする、などと! そんなことはっ、許さない!」
「そうよう! トオルくんだって、いっしょじゃなきゃあ、意味ないの、ようっ」
キヨラも苦しい息のなか、必死に叫ぶ。
母の訴えに、そして何より父の叫び声にトオルの決意が揺らぐ。
常日頃、冷静沈着で声を荒らげることのない父が。
トオルが思春期という理由のない苛立ちをぶつけても怒鳴り返してくることなど一度もなかった父が。
許さない、と叫んだのだ。
初めて耳にする父の叫び声。初めてぶつけられた拒否を許さない一方的な押し付けの言葉。
それはトオルを大切に思ってのものだった。
そうと気づいてしまえば、元来素直で家族思いなトオルだ。理由のない反抗心は湧き上がる感情にあっけなく消えた。
「……うん」
ちいさな承諾に続いた鼻をすする音には気づかないふりをして、メーラはほっと胸をなでおろす。とはいえ、背後に迫る死者たちを気づかないふりすることもできはしない。
十蔵、キヨラの足はずいぶんと鈍ってきている。
トオルの発言で気力を振り絞り走り続けてはいるものの、もう長くは持たないだろう。
メーラがそう考えていたとき、とうとうキヨラが足をもつれさせ、よろめいた身体がかしぐ。
「トオルっ背に捕まれ!」
とっさに叫んだメーラは、走りながら四つ脚の獣へと姿を変えた。放り投げたトオルを背中で受け止め、続いて転びかけたキヨラと、キヨラを助けようと足を止めかけた十蔵を救いあげるように背中に乗せた。
「わっ」
「きゃあ!」
「む」
うまく三人ともを背におさめたが、安心はできない。
さすがに大人二人とトオルを乗せるのは無理があったらしく、食いしばった獣の牙のすき間から「ぐぅ……」と押し殺しきれなかったうめき声が漏れる。
だが、脚の動きを止める気はなかった。
「メーラ! 俺、俺は走れるからっ」
せめて自分だけでも下ろせ、とトオルが訴えるもメーラは聞かない。
今の一瞬で死者たちが間を詰めていた。
人の足で駆けていては、あっという間に飲まれてしまう。
「俺が太陽の神に類する者であったなら。あるいは、今より力の強い神であったならば……!」
死者の影を打ち消すことができただろうか。打ち消すとまではいかなくとも、蹴散らすことができただろうか。
人の暮らしに寄り添って生きる鍛冶の神であるメーラは、己を慕ってくれる一家を守れないことが悔しくてたまらなかった。
一家を守れるのならば身の内に宿るありったけの神力を放っても良い。
そうは思うものの、鍛冶の神の神力にどれほどの威力があるのか見当もつかない。
もしも放った神力に何の効果も無かったならばメーラは力尽き、走るどころか獣の姿を保つことさえかなわなくなる。
そうなれば背に乗せた一家は死者の群れに飲まれ、チエを救う者も消えてしまう。
どうすればいい。
どうすれば助けられる。
メーラだけではなく、一家もまたそれぞれに同じ問いを自分自身に繰り返す。
そうしている間にも死者たちの影がじわりじわりと迫りくる。
ひたすらに駆ける洞窟のなか、深い闇のその先でふと淡い光が見えた。
「なんだ?」
死者の国を照らす青白い光とは違う、淡い紫の色を溶かしたような光。
ひどく淡いが、しかしほのかな温もりを宿した光に誰もが目を細める。
ふわり、光が手招いたように思えたのは、追い詰められた心が見せた幻だろうか、とメーラは思った。そのときには光は道を曲がり、見えなくなっていた。
けれど。
「メーラ、あの光を追って!」
トオルの声を疑う気持ちは微塵もわかなかった。
力の弱い神である自身を信じられなくとも、自身を慕ってくれる人びとを信じるのはメーラにとって当然のこと。
「捕まっていろ!」
込められるだけの神力を脚に込めてメーラは地を蹴った。
ぐん、と死者との距離が空く。そのぶんメーラの四肢はきしみ、傷んだが、構わなかった。
「次、真ん中の道に!」
枝分かれした道の先、光はぎりぎり視認できるか否かの距離で移動しているらしい。
神であるメーラでさえ朧気にしかつかめないその光が、どうしてかトオルにははっきりと見ているようだった。
「次、左から二番目の一番細いとこ入って!」
言われるままに駆けるメーラの背中で十蔵が「……死者が減ってきたようだ」とつぶやくのを聞きながら、思考すら放棄してただ走る。
「メーラ、跳んでっ」
「おう!」
応えて、足場の確認もせず全力で踏み込んだ。
だんっと飛び上がったのが最後。
神力の余力を無くしたメーラの獣の身体が、脚の先からほろほろと形を無くして人を模したそれへと戻っていく。
けれど込められた神力はすでに全員を宙へと放り上げている。
しつこく追って来ていた死者の影がいくつか眼下をすべって闇へと帰っていくのを見送りながら、メーラの意識はぶつんと途切れた。