トトリそして死者の国の人
メーラが振り下ろす神器を避けて、トトリが飛び上がる。
「くっ、厄介な!」
いかに神といえど、メーラに羽根はない。飛んで逃げられてしまえば追えるはずもなく、巨大な槌が空を切る。
「こっわ! こわあ! トトリ危ない、危ないっ」
そのまま洞窟の天井へと突き抜けようとしたトトリの足に、ぐるりと絡んだのは金属の鎖。
「チエをどこやったんだ!」
トトリを捉えたトオルが叫ぶ。
妹大好きな兄は中学二年生。腰から鎖を下げたいお年頃。
チエが指を挟んでしまわないように、とやや繊細な作りをしている鎖でトトリを引き寄せる。
「離せ、離せ! トトリは逃げる!」
「トオル、あまり近づくと危ない」
言いながら十蔵が手にしたのは、折り畳み式の虫取り網。
山でチエがチョウチョや虫を捕まえたがったときのために、と備えられていた一品をカシャンカシャンと手早く伸ばして広げていく。
そして躊躇なくトトリの頭にバサリと被せた。
「ぴぎゃー!」
驚いたトトリは悲鳴をあげてぼとりと地面に落ちる。足に鎖、頭に網を被ったままじたばたと羽根をばたつかせた。
捕えたとはいえ、しょせんは虫網。
せいぜいが頭と肩のあたりまで網で覆った程度。けれど、虫網を知らないトトリには十分な脅威となっていた。
「ぴぎゃー! ぴぎゃあ! トトリを食べてもおいしくない! トトリはおいしくなーい!」
地面のうえに転がったまま騒ぐトトリの頭の横に、そっと膝を折る人影が。
小首をかしげ、こぼれた髪を耳にかけてキヨラが微笑む。
「あらあ、鳥さんだもの。きっとおいしいわあ」
含みのある笑顔にぴしり固まったトトリの目を覗き込むキヨラに、トオルは鎖を離さないまま「うわぁ……」と内心でつぶやいた。
だって怖いのだ。
おっとりして見えるし実際おっとりしているが、母を怒らせてはいけないとトオルは知っている。
「チエちゃんはどこにいるか、教えてくれる? それとも、あなたの中身を絞り出したらミクマリさんの加護で道案内してくれるかしらあ」
「ぴぃぃぃぃいいい!」
悲鳴をあげて、怯えきったトトリがあわあわとしゃべりだす。
「ちいさいのは王のとこ、王のとこ持ってった! お前たち使えば王がははに褒めてもらえるからって、欲しいって!」
「王? 死者の国の王というと、サノか」
メーラが苦い顔でつぶやく。
死者の国の王、という中二心が刺激される言葉にトオルの鎖を握る手に思わず力が入った。
「死者の国の王……めちゃくちゃ強そうな響き」
ごくり、つばをのむトオルだったが、メーラはそっと視線を逸らす。
「サノは死者の国の最奥に暮らす神だ。母親である創世の女神に依存していることで有名なんだ。行動原理は子どもじみており、短絡的。ただ純粋に身体が大きく、力が強い点が問題でな」
「そのような相手の元へ連れていかれてチエは、チエはまだ無事なのか」
恐ろし気な敵の話を聞いた十蔵が感情を抑えた声で問うのに、メーラがうなずいた。
「ああ、少なくとも命はまだ続いている」
「そうか」
一家がほっとした、その隙をついてトトリが網を跳ねのけ、鎖をすり抜ける。すり抜け損なって羽根が数枚ほろほろとこぼれたけれど、構ってなどいられない。
トトリは魂を運ぶという性質上、生者の国と死者の国とを自由に行き来できる異質な神。
落ち着いて意識を集中すれば、だいたいのものはすり抜けられるのだ。ただちょっと、落ち着くというのが苦手なだけで。
「トトリ逃げるっ。トトリは逃げるよ!」
言いながらトトリは羽ばたいて、洞窟の天井をすり抜けて消えてしまう。
バササ、と羽根音だけが遠くかすかに響いて、そして消えた。
「逃げられちゃったわあ」
「チエの居場所が判明しただけでも十分だ。」
残念がるキヨラを十蔵がなだめる。
洞窟のなかはまた冷ややかなほどの静けさが戻り、残されたのは一家とメーラ、それからトトリの羽根がちらほら。
漆黒の艶めく羽根をトオルがいそいそと拾って、リュックに入れる。なぜなら彼は中二だから。
そのついでに自慢の鎖を手にして、トオルはしみじみとつぶやいた。
「細身のチェーンなのに頑丈だな。そんなに高くなかったのに」
「ああ、俺の加護が働いたんだろう」
「メーラの?」
こっくり頷いたメーラがトオルの鎖に指先で触れる。
「これでも鍛冶の神だからな。加護を持つ者に手先の器用さと、道具の耐久度を与えるくらいはできる」
「へえ! すごいな。やっぱりメーラ、かっこいいよ!」
トオルが素直にはしゃぐと、十蔵はうんうんと頷く。
「ああ、トオルの鎖が切れなかったおかげであの鳥から情報を手に入れられた。それはつまり、メーラどのの加護あってのこと。助かった。ありがとう」
「本当に。ついて来てくれただけでもとっても助かってるのよお。ありがとう!」
ぶわりぶわり、メーラの身体に神力が蓄えられていく。
「またお前たちは……」
メーラが困り顔をつくるほどの神力がほろほろと洞窟を明るく照らす。その赤く暖かな光に、暗がりから伸びる影があった。
あったか……
あったかい……
はじめに聞こえたのはかすかな音。
言葉がどうかもわからないささやくような音はすぐに数を増し、ざわめくを強めていく。
いい
いいな
ほしい
ほしいな
声を聞いた十蔵は顔をしかめ、キヨラは夫のそばに身をよせる。
「なんだよ、これ。なんの声?」
きょろきょろと周囲を見回すトオルの隣で、メーラが警戒するように暗闇をにらみ据えた。
そうしている間にも声は大きさを増して、数を増して、一行を取り囲む。
ほしい、ほしい!
あったかいの
ぬくもりが!
ぞろりぞろり、暗がりから伸びた影は手に形を変え、真っ黒い腕を伸ばす。
ぬくもりがほしい
生者のぬくもりだ
くれ
くれ!
四方から腕が伸び、伸びた腕が鋭くとがっていく。
さむい、さむい!
生者のぬくもりがほしい!!
「走れっ、死者が集まってきた!」
メーラが叫び、トオルを脇に抱えて駆け出した。
はじかれたようにキヨラと十蔵があとに続く。
メーラのまとった神気を映してきらめく雫が道を示す。
よこせ!
いのちを!
いのちのぬくもりを!
このてに!
洞窟がビリビリと震えるほどの懇願の声のなか、一行は死者の国の奥へと駆けて行く。
深く、深く。