チエと死者の国の女神と
ぐすんぐすん、くすん。
チエの悲しみがこぼれていって、涙がちょっぴり減ったころ。
抱っこされたままのチエは、暗い通路を抜けてとある部屋へ。
「わあぁ!」
重苦しい灰色と黒の世界から一変、そこは色とりどりのクッションやカーテン、ぬいぐるみであふれた空間だった。
部屋の様子にチエの悲しみが引っ込んだのを見てとって、足を止めた女性がうれしそうに笑いチエを下ろす。
チエは大きなクッションに近づき目をきらきらさせて振り向いた。
「ぎゅってしていーい?」
「もっちろん!」
「きゃあー!」
許可が出るなりチエはジャンプ。
自分より大きなクッションに飛びついた。
むにゅりと受け止めるクッションの柔らかさがよほど楽しかったのだろう。
満面の笑みを浮かべたチエはほっぺたを興奮でピンクに染めて、きらっきらの瞳で女性を見つめる。
「お姉さん、ありがと!」
「!」
ぶわり。女性の身体を光がとりまく。
死者の国らしい陰鬱な黒に青を垂らしたような、暗く深い水底めいた光。
その色を目にして、チエが言う。
「お姉さんもお水の神さまなの? お名前は?」
「うちはユウナ。神さまを生みだす神だったんだよ。この光の色はこの世界にまだ何もなかったころの、ただ渦巻いていた海の色。懐かしいなあ」
答えるユウナは懐かしむように目を細め、自身の身に湧き上がる神力に意識を向けているようだった。
ちょっぴり寂しそうなお顔、と思いながらチエはクッションにうもれてユウナを見守る。
泣いちゃいそうならぎゅっとしてあげなきゃ。
チエがそう思うのは、家族がいつもチエにそうしてくれたから。
けれど心配はいらなかったようで、しばらくするとユウナはにっこりチエを見た。
「ねえねえ、あなた名前は? めっちゃ神力回復したんだけど、どういうことっ」
「チィちゃんのお名前はありがチィ!」
名前を答えるのは得意なチエだ。
にっこり笑顔で元気に言えた。
けれど、もうひとつの質問はちょっぴり難しい。難しいけれど「わかんない」と答えるのはあまりにも子どもっぽいから、とチエは考える。
考えて考えて、考えて。
「うーんとねえ。ありがとうは大事なんだよ!」
答えられたことにほっとして、チエはもう一度笑顔を見せた。
来年には小学一年生のお姉さんになるのだ。
ちょっぴり難しいことにだって答えられる。そんな自信がちいさな胸を熱くする。
「そっかあ、チィちゃん。すっごーい! 生きてる子の知恵ってやつだね! ホントの名前明かさないのも賢ーい!」
ユウナからの手放しの称賛もあって、チエはにこにこ。
「えへへへへ」
「ふふふふふ」
ユウナもにこにこ。
およそ死者の国とは思えないほのぼのした空気が部屋を満たす。
そこへ。
グウゥゥゥ。
元気なお腹の音が鳴る。
「チィちゃん、おなかすいちゃった……」
ぺたんこのお腹をさすりさすり。置いて来てしまったお弁当と家族を思い出して、チエのなかに悲しみがまたじんわりと湧いてきた。
しょんぼりするチエを見て、ユウナは声をはずませる。
「あ~ん、お腹すいたの? それって生きてる証拠! とってもかわいい!」
言ってから、ユウナの眉はしょぼんと下がった。
「でもでも、可哀そうだけどご馳走してあげられないの。死者の国で食べたり飲んだりするってことは、この国の住人になっちゃうってことなんだから」
「チィちゃんも死んじゃうの?」
「そう! 正解! かしこ~い! ここの食べ物や飲み物を口にしちゃだめ。あなたまだ、生きてるんだから!」
「えへへへへへ」
よくできました、と頭をなでなで。
褒めてもらえたうれしさでチエの悲しさは引っ込んだ。
けれどのどの渇きは癒えなくて、肩から下げた水筒を手に持つけれど、コップがない。
「飲まないの? 生きてるんだから、あんまり我慢しちゃうと良くないでしょ。うちの子があなたの家族つれてくるまでに死んじゃうよ?」
「うーんと、うーんと」
幼稚園ではみんなといっしょにコップに入れて飲む。家でも母と父にならってコップに入れる。
良い子のチエも、もちろんそうしてきた。
けれど。
えいや、とチエは水筒に直接口をつけた。
ちいさな口を押し付けて、ゆっくりゆっくり水筒を傾ける。
思い出しているのは、兄トオルがそうする姿。
「っぷは!」
飲みきれなくてあごを伝った水は、腕でぐいっと拭いてしまう。
悪い子だ。
そう思うチエだけれど、その目は楽しそうにキラキラ輝いていた。
それを見ていたユウナが、ソワソワと口元をゆるませる。
「そうそうそう! 生きてる子ってこんな風だった! やぁだあ、なつかしい〜! うちも飲もっ。ねえねえ、ふたりでお茶会しよ!」
ぼふんとクッションに飛び乗って、指をくるり。
回せば、そこには優雅なお茶のセットがあった。
「わあ! すごい!」
「ふっふーん。神力があればなんだって生み出しちゃえるんだから。うちは特別な神さまだからねっ」
むふん、ユウナが胸を張ったとき。
部屋の外でバタタと羽音が鳴った。
チエがびくりと体を硬くしたのは、その音に聞き覚えがあったから。
羽根を持つ神、トトリにさらわれてきた記憶はまだ新しい。
「あれ、もう戻ってきちゃった?」
きょとりと瞬くユウナに隠れ、チエが恐る恐る部屋の入り口を見つめる。
すると、ひょこりと見えたのはやっぱり鳥の羽根。
けれどその色は黒ではなく、鮮やかな青色をしている。
トトリではない。
チエがほっとしたところへ、羽根の持ち主がひょこりと顔を出す。
青い羽根にオレンジの服を着て、真っ黒な目で覗き込んできたのはトオルと同じ年ごろの少年。
死者とは思えない艶めく瞳を忙しくきょろりきょろり。ユウナとチエを映した少年は、小首を傾げる。
「ここに自分の片割れが来ませんでしたか」
澄んだ声でたずねるのだった。