チエとネノ国のえらいひと
家族とメーラがネノ国に足を踏み入れたころ、チエは暗がりでぱっちりと目を覚ました。
いつの間にか気を失っていたらしい。そんなチエの意識を揺さぶったのは、騒がしい話し声。
声に顔をむければ、青白い光に照らされる人影がふたつ。
「ほめ、ほめろ! トトリやったぞ、トトリがやったぞ! 言われたとおり、ひとり持ってきた! ほめろっ」
「はいはい。よくできました。でもねえ、こぉんな小さいのしかいなかったの? こんな子を親元から引き離すなんて、お母さんにばれたら俺が怒られるじゃないか。お姉ちゃんにだって嫌われちゃうかもしれない」
「大きいものは重いんだ。重いものは運べないんだっ。トトリはがんばった、トトリはえらかった! だからちょうだい、トトリにちから!」
ぎゃあぎゃあと騒がしいトトリと話す声は低い男のもの。
喋るたび忙しなく動き回る影は羽根を背負っていて、トトリとわかる。
もう一方の影を見て、チエは丸い目をぱちくり。
「おっきいねえ」
「ああ、起きたのか」
のっそりと起き上がって、近づいてきた人物がチエをのぞきこむ。
バックにした洞窟の天井に丸めた背中がぶつかりそうなほどの巨躯。背丈ばかりでなく横幅も並外れた男は、よく肉のついた瞼を重たそうに持ち上げていた。
見上げるのも疲れるほどの相手を前に、チエは口をぽっかり。
「おじさん、キリンさんみたいねえ。でも首は長くないから、ゾウさんかも」
「麒麟? ゾウ? 俺は神だけど、獣じゃないよ」
「神さまなの? だったらはじめましての神さまだねえ。チィちゃんです。こんにちは」
ぺっこり頭をさげたチエに、男はにんまり。
「そうかい、チィというんだね」
「そうだよ、チィちゃんはありがチィって言うんだよ!」
連れて来られたこともすっかり忘れて、チエが人なつこく笑う。
すると、男はチエの頭上に右手をかざす。
「ネノ国の王、サノが命ずる。幼きもの、その名はチィ。その身を我が眷属とし、その力を我がために使うべし」
言い終えると同時、サノの厚い手のひらから青黒い光がにじみ出す。トトリが「ピィッ」と甲高く鳴いて、慌てて逃げていく。
冷えた大気を浸食するようにじわりじわりとチエに迫る光は、けれどチエの身に触れる寸前でジュッと音をたてて掻き消えた。
「む?」
サノがむすりと口をへの字にしたとき。
「なんのさわぎなの?」
華やかな声が静かな空気を揺らした。
「お母さん!」
「きゃぁ~ん! かわいい子ぉ!」
サノがお母さんと呼んだ女性は、チエとサノの間に滑り込むとそのままの勢いでチエを抱き上げる。ちなみに女性はサノと違い、一般的な人間の女性と大差ない体躯をしていた。
「え~? なになに、どうしたの、やだあ! この子生きてるじゃなあい! あったかくてやわらかくってほっぺたすべすべのもっちもちで、か~わ~い~い~!」
むぎゅむぎゅとチエを抱きしめる腕は細いのに、力強い。
なのに、冷たい。
母の腕に似ているのに足りない温もりを思い出して、チエは不安にあたりを見回した。
「チィちゃんのお母さんは? チィちゃんのお父さん、お兄ちゃんは……?」
「きゃあ、死んじゃった家族を探して迷い込んだのかしら? やだ、かわいそう!」
女性の声に、チエは半泣きになりながら首を振る。
「ちがうよ! チィちゃんのお父さんもお母さんもお兄ちゃんも生きてるもんっ。チィちゃんが、チィちゃんだけひとり、ひとりで鳥さんにっ。チィちゃん、チィちゃん、ひとりぼっち……うぇぇ!」
懸命に状況を伝えようとするけれど、湧き出る悲しみがこらえきれずあふれ出た。
冷たく硬い洞窟の壁と言わず床と言わず、そこいらじゅうにチエの悲しい声がぶつかって響く。
「や~ん! やっぱり、生きてるって良い~! 泣き声にも元気があって、かわいい~!」
女性がチエに頬ずりするなか、居心地悪そうに首をすくめるサノの巨躯にも泣き声はぶつかった。
チエを慰めるでもなくにこにこしていた女性は、そのしぐさを目ざとく見つけて視線を鋭くする。
「サノくん、この子のこと何か知ってる?」
疑問ではなく問いただす声に、サノは「てへ」と舌を出した。
「どこかから落ちてきたみたい。ほかにも仲間がいてね、そいつらが通った箇所で大きな神力が確認されていてね。だから、俺も手に入れてみようと思って。ほら、お母さんが『ちゃんとお仕事しなさい』って言うからさ。俺なりにがんばったんだよ?」
褒めてもらえるかな、褒めてもらえるかな。
期待に煌めくサノの肉に埋もれた目を見返した女性は、困ったように眉を下げた。
「サノくん、そういうときはね。仲間もまとめて手に入れなきゃダメっ。ほら、こんなに泣いちゃってかわいそうでしょ?」
「うーん、でも全部は運べなくって」
もごもごと言い訳するサノに、女性は続ける。
「いっしょにいたのはきっと家族だったのよ。サノくんだって、お母さんに会いたくてネノ国に来たでしょう? ひとりだけネノ国に連れて来られたら、この子がかわいそう!」
「そっか、それは泣いちゃうな……わかったよ!」
にっこり笑ったサノは頷いた。
「家族がみんなここに来られるようにしてくる! 俺、ちゃんとうまくやるから、待っててねお母さん!」
どすどすと地響きを起こしながらサノはどこかへ去って行く。
大きな背中が遠ざかるのを「がんばれサノくーん!」と見送ってから、女性は泣いているチエを改めて抱きしめなおした。
「あぁ、本当にあったかい。あったかくてやわらかくて、かわいい……うちの子になってくれたらうれしいけど、ダメダメ。ここは死者の国だもの。生きてる子は住めないの」
ささやくように言って、ひどく寂し気に笑うその顔を目にする者はそこにはいない。
ぐすぐすと泣くチエの頬を冷たい指先でやさしく撫でて、女性はゆらゆらと歩き出す。
サノが向かったのとは別の暗い道。
足音もなく進む先へ導くように、ゆらりゆらりと青い光が灯っては消える。
「良い子。たくさん泣いてちょうだい。ふふ、真っ赤なほっぺがなんてかわいいんだろ。元気な声をたくさん聴かせてちょうだい。ふふふ、一生懸命泣いて汗までかいて、なんてかわいい……」
慈しむ眼差しと泣き声は、ゆらりゆらりとネノ国の暗闇に飲まれていった。