翼あるものの襲来
「「「チエッ!?」」」
とっさに伸ばしたトオルの手をすり抜け、チエの体がぐんと持ち上がる。
慌てて跳ね起きた十蔵とキヨラが追いすがるが、ちいさな体はすでに空のうえ。
チエが持っていた水筒のコップだけが落ちて、かつんと地面で跳ね転がる。
「やあー! おろして、おろしてぇ!」
靴下をはいた足がじたばたと宙を蹴る。
泣きじゃくるその身をさらったのは、チエの後ろにいる翼を持つ人影だった。
「あっちゃー! もう来ちゃったのか」
「あれは、トトリ!?」
言葉としぐさは軽いが、シルベは唇を噛みしめて悔し気にしている。
メーラの叫んだ名に応えるように、翼を持つ人影が「あッはぁ!」と奇妙な声をあげた。
「そだよ、そうだよ。トトリだよ!」
ばさりばさりと羽ばたく翼は黒く、風になびく髪もまた黒々と濡れたように艶めいている。
よく見れば翼は腕の代わりのように肩から生えており、脚もまた膝のあたりから鳥のそれになっている。太く頑丈な足の先のかぎづめで、チエの服の背中を引っかけているようだった。
「お前はひとの霊魂を運ぶ神だろう! その子は生身の人間だ。こちらへ戻せ!」
メーラが叫ぶが、トトリは降りてこない。
「そだよ、そうだよ! 霊魂を運ぶのがトトリの仕事。だけどひとが減ったからトトリの仕事が無いんだよ。だけど鍛冶の神といる人間あげたら、霊魂いっぱい戻ってくるって教わったよ! トトリに力くれるって言われたよ。だからこの子を運ぶの、トトリの仕事!」
それだけ言うと、トトリは「あッはぁ!」とひと声鳴いて飛び去った。ビュン、と風のうなる音だけを残して姿を消す。
もちろん、チエもまた消えていた。
「チエ!」
「チエちゃんっ」
十蔵とキヨラが叫んで丘を駆けのぼる。けれど、瞬く間に消えてしまったトトリの行方がわからない。広い空を見まわしても、ただ青みの薄れてきた空があるばかり。
焦って闇雲に走りだそうとする十蔵だったが、その足がぴしりと動きを止めた。
「なんだ、これは!?」
踏み出そうとしても、重たくて重たくて動かない。まるで足の裏が地面に張り付いてしまったかのよう。
すこし離れたところではキヨラが同じように立ち止まっていた。
「なんなのよう、この脚! チエちゃんを探さなきゃいけないのに、動いてえ!」
自身の太ももをつかんで持ち上げようとするけれど、持ち上がる気配はない。
「父さん、母さん!」
驚いたトオルが両親のもとへ向かおうとしたとき、目の前に伸ばされた腕が彼を阻んだ。
ぴしりと伸ばされた腕の持ち主はシルベだ。彼女の引き結ばれた口元に笑みはない。
「どなたさまも足を止めて、お急ぎならば聞いてきな」
「……十蔵、キヨラも。こう見えても相手は道の神だ。どこへ向かうにも道が要る。チエの行方を知っているかもしれない」
足を止めさせたのはシルベの力なのだろう。十蔵とキヨラの視線が自分に集まったのを見てとって、シルベはふたりの足を解放する。
足が元通りに動くようになったのか否か、確認する間も惜しいとばかりに夫婦はそろってシルベの元へ駆け寄った。トオルもまた、両親の足を気にかけつつもふたりのそばに並ぶ。
「おやあ、このシルベちゃんを捕まえて『こう見えても』とは、ずいぶんな言いようじゃあないか」
一家の視線を集めるなか、メーラの物言いにおどけようとしたシルベは、けれど失敗したように声のトーンを落とした。
「と言いたいところだけど。今回はちょっぴり役立たずのポンコツだったからね。ネノ国の連中が狙っているぜ、ってもっと早く伝えられてたら……」
「ネノ国だと!?」
叫んだメーラの声はほとんど怒鳴ったと言えるほど。
その形相に、一家は良くない場所なのだと勘づいてさっと顔色を青くした。それに気づいたのだろう、シルベがやれやれと言いたげに頭を振る。
「落ち着いていただけますぅ? 一般のかたが不安になってるじゃなーい」
「それは……! いや、しかし! これが落ち着いていられるか! チエが死者の国へ連れ去られたと聞かされたのだぞ!」
うろたえたメーラの叫びが一家を凍り付かせた。
「死者の、国……?」
「チエちゃんが……死んじゃう、の?」
トオルは現実味の薄さに呆然と、キヨラは突き付けられた言葉の重さを受け取り損ねたのか少女のように。それぞれつぶやく。
ただひとり、十蔵はいつものようにメガネを押し上げた。その指先は大きく震えていたけれど、それでも十蔵はいつものようにメガネを押し上げ、大きく息を吐いた。
「……それを告げるということは、チエを取り戻す手立てがある、ということだろうか」
押し殺した声を聞いて、キヨラとトオルは息をのむ。メーラさえもハッとしたように目を見開き、シルベをみやる。
呼吸さえもはばかられるようなひりついた空気のなか、シルベがへらりと笑った。
「いいね」
その一言とともに詰め寄っていたメーラの巨躯を押しのけて、シルベは十蔵の前に立つ。
「いいね。運だけでひとは長くは生きられない。冷静さを欠いた旅人は早晩、命の終わりを迎えるものさ」
歌うようにシルベは続ける。
「ネノ国は地面の下、命を無くした者の霊魂が集う、死者の国。暗く静まり返ったその国に行って、帰ってきたものはないそうだ」
「行けば、生きては帰れない。それはつまり、足を踏み入れた途端に……命が、絶える、と?」
尋ねる十蔵は決定的な言葉をためらって口ごもる。
仮定であっても、愛しい娘の終わりを明言はできなかった。
否定がほしい。そう願う一家に応えたのはメーラだった。残された片目を閉じ、胸に拳をあてた彼は何かをさぐるように眉を寄せて言う。
「いや、まだだ。まだ、絶えていない。俺の持たせた針は、チィのためのもの。その身が損なわれれば針もまた消滅するが、まだ、失われてはいない!」
希望が灯った。
トオル、十蔵そしてキヨラの胸を照らした希望は、見開かれたメーラの目にも確かな光となって宿っていた。
誰一人としてしり込みなどしていない。
進むのだ、と。
大切なひとを取り戻すために進むのだという意思を宿した顔を見渡して、シルベは笑う。
「いいね。立ち止まらない者の先に道は開ける。ボクはキミたちのこと、けっこう好きだよ」




