旅立ちの前に腹ごしらえ
国の中央にあるという神樹を目指す。
そうと決まった一行は村を出た。
見送りに来た村人や少年に手を振り、ミクマリが祝砲のように吹き上げさせた水が空に虹を描く。
歓声をあげるチエを肩車していたトオルは、同じ景色を見上げながらふとつぶやいた。
「地面とか景色は真っ白になってるけど、空がまだ残ってるのは、神樹ってやつが空を支えてるからなのかな」
「どうかしらねえ。太陽や月の神さまは聞いたことあるけれど、お空の神さまって知らないわあ」
息子のふとした疑問にキヨラがいっしょになって首をかしげると、十蔵が「それについては」と眼鏡を押し上げる。
「世界の神話に、天空を司る神が数柱いたはずだ。日本にも、神話のはじまりのときにはすでに姿が見えなくなっていた神がいたと記憶している。つまりあれは目に見えぬもの、大気を意味しているのではないだろうかと考えられており、」
「ねーえ、まだしゅっぱつしないのー?」
淡々と、けれど心なしか饒舌に語る十蔵をチエがぶった切った。
兄の背中をすべり降りたチエは、待ちきれないとばかりに村の外の真っ白な空間に足を踏み出そうとする。
「不用意に『無』に踏み込むな。ひとの身では、うっかりネノ国に落ちかねん」
言って、チエの首根っこを掴んだのはメーラだった。
ひょいとチエを背中に背負った彼は、瞬く間に大型の獣へと姿を変える。チエの身体はふかふかの毛皮にもっふり埋まる。
「全員、俺の背に乗るといい。進むべき方角が決まったのだから、進むべきだ」
メーラが身をかがめ、誘うけれど。
「え、でもメーラが重いだろ。俺、自分で走るし」
「そうよぅ。チエちゃんをおんぶしてくれてるだけでとっても助かってるのよ。ありがとうねえ」
ぶわ、とメーラの身に神力があふれる。
あまりにも気軽に力を与えられるものだから、メーラもいよいよ驚かなくなってきた。
「家族そろって登山に赴いたのは、運動不足を解消する目的もあってのこと。体力が続かないようであれば、その毛皮に頼っても良いだろうか」
トオル、キヨラに続いて十蔵までも気軽に神を頼らない。
その姿勢に笑って、メーラは「そうか」と足を踏み出した。
***
メーラが白い世界に足跡を残し、そのうえを追いながら駆けること、しばし。
「あ! むこうにちっちゃなおやまをはっけーん!」
毛皮にくるまれていたチエが、不意に前方を指さした。
一行が目をやれば、たしかに進む先に小さな緑の丘が見える。白いばかりの『無』に塗りつぶされた空間のなか、ぽつんと残されたその場所はよく目についた。
「ふむ、ならばあの場所で足を休めるか」
ちら、と後続に視線を向けたメーラが言う。
眼鏡がずれかけた十蔵と、肩で息をするキヨラ。若いトオルはまだまだ元気そうだったが、どちらにせよ今日一日で踏破できるような距離ではない。
そう判断して、メーラはちいさな丘へ足を向けた。
「チィちゃん、二番のりー! 乗っけてくれてありがと。いい子いい子!」
もふもふなでなで。
気軽に感謝を伝えるチエにより、メーラに神力が与えられる。『無』に道を作ることで消費したそばから神力が回復されるものだから、メーラは今からでも一家を乗せて駆け抜けてやろうか、と足踏みしてしまう。
ようは、力が有り余っていた。
「ちいさいけど、静かでいいとこだな。母さんたちが落ち着いたら、ここで昼めしにしても良さそう」
チエに水を飲ませたトオルが、自身も水分を補給してあたりを見回す。
「そうだな。ひとが去り、神も絶えたか立ち去ったかした村だろうが、今にも消えるほどではない。少々休憩するくらいであれば良い場所だ」
「そっか……もう、家があったところとかも真っ白くなっちゃったんだな」
かつてここに暮らしていた人々が居たのか、と思いを巡らせてトオルはしんみりとした。ふと視線を落とした足元にちいさなスミレの花が咲いているのに気が付いて、そっと指でふれ「もう誰もいないのに……ありがとな」とねぎらう。
兄の顔を見上げ、チエが「さみしいねえ」と眉を下げった。
子どもたちが現在地に思いを馳せている一方、十蔵とキヨラは丘に着くなりそろって座り込んだまま、まだ息が整っていなかった。十蔵が苦しい息の合間に「くっ、体力の衰えを感じる……」とうなる横で、トオルが走り抜いた両親をちょっぴり感心したような目で見ているのに気づく余裕はなさそうだ。
「お昼ごはん! お昼ごはん!」
「メーラってひとの飯食える? おにぎりとちょっとしたおかずしかないけど」
リュックから取り出したレジャーシートをばさりと広げるトオルの真似をして、チエも自分のリュックからレジャーシートを取りだした。
脱いだくつをちまちまとそろえ、チエはくしゃくしゃのシートのうえへ。幼児がふたりも座ればいっぱいになってしまうようなちいさなシートをぐるり、チエは折りたたまれた端をせっせと広げてまわる。
「ひとの食事を好んでとる神もいると聞いたことがあるから、毒にはならんだろうが、必要はない。この身はお前たち一家のもたらす神力で満ち満ちているからな」
ひとの形に戻ったメーラが拳で胸を叩く。
そこに疲れや強がりは感じられなくて、トオルは「ふうん、そんなもんか」と納得した。その横で、チエが自身の水筒を肩にかけ「ご飯いらないなら、チィちゃんのお水あげるね」とコップを手にする。
「それにしても、今回はスムーズに進めたな。湖の村を出た途端にまたあの迷惑な神さまが出て、どこだかわからない場所に向かわされるかと思ったけど」
「なんだい、ボクをお呼びかい?」
声が真後ろから聞こえて、トオルは飛びあがる。
「やほー。みんな大好き、道の神さまシルベちゃんだよ!」
親し気に手をあげて言うシルベは、やっぱり無表情かつ声に抑揚がない。
そんなシルベにチエが「わーい! シルベお姉ちゃんだあ」と近づくのをメーラが抱えて止めた。ちいさな体を隠すように、自身の後ろに置く。
「……シルベ。道を消したのはどういう意図があった。『無』に巻き込まれれば、彼らがどうなるとも知れないのだぞ」
「わーお、メーラちゃんたら怒ってるね! だけど手っ取り早くこの世界のことがわかったんじゃない? じゃない? そうなんじゃない? シルベさんのおかげなんじゃない?」
シルベはメーラの低い声にも動じず、むしろおちょくるように言葉を重ねた。
「だが!」
なおも苦言を呈そうとするメーラを遮ったのは、むくりと顔をあげた十蔵だ。
「一理ある。百聞は一見に如かず。この世界のことを見聞きし、向かうべき先が定まったのは道の神、シルベどののおかげと言えなくもない。ありがとう。少々危なっかしい点もあったことは、次回以降の改善点としてもらいたい」
「そうねえ。私たちだけでは、どこへ進んでいいかもわからなかったものねえ。道を教えてくれてありがとう、シルベさん」
続けざまの感謝がシルベの身体を光が包む。「わあお、気軽に神力回復してくれちゃうじゃん」とつぶやいたシルベは、やれやれとばかりに首を振った。
「君たちのために道をつないでばかりもいられないけど、神力をもらったお礼に情報をあげる。君たち一家の存在に気づいて欲しがってる神が、」
皆まで言い切るより先に。
「いやあ! はなしてえっ」
チエが悲鳴をあげた。