有賀一家、異世界に行く
親子で仲良くハイキング、なんて歳ではないけれど。
有賀トオルがその日、家族でハイキングに参加していたのは妹の「お兄ちゃんもいっしょが良い!」というかわいいわがままのためだった。
五歳児のチエに合わせた低山の中腹で、有賀一家はひと休み。
登山道からすこしはなれた木陰にうつり、やわらかな緑のじゅうたんに腰をおろす。
「トオル、水分補給しなさい」
「サンキュ……別に、のど乾いてねえけど」
父親の十蔵が差し出した水筒を受け取ったトオルは、とっさに出た感謝の言葉をかき消すように口を尖らせた。
十五のトオルは思春期のため、親への反抗心でいっぱいなのだ。
精いっぱいの仏頂面を作るトオルの横顔を父親の十蔵は、黙って見つめている。
眼鏡の向こうの十蔵の目に笑顔がないのはいつもどおり、トオルには父親が何を考えているかわからなかった。
「お兄ちゃん、チィちゃんも飲む!」
ひやりとした空気を気にもとめずに破ったのは、幼い声。
あぐらをかいたトオルの足に飛び込み、胴にしがみついたのはチエだ。
ふたつ結びがよく似合う、素直で愛らしい少女である。
「ん、ほら」
トオルが自分の荷物からプラスチックコップを取り出して水筒の茶を注ぐと、チエはふっくらした頬をまあるくふくらませた。
「ちーがーうー! チィちゃんもお兄ちゃんと同じのがいいの! そのままぐびってするのー」
年上の真似をしたいお年頃なのだろう。
ぐび、と言いながら思い切り天をあおぐチエに「ふふふ」と笑ったのは兄妹の母親だ。
「やってみたいのねえ。挑戦しても良いけれど、そんなに上を向いたらお茶がチエちゃんのお顔にかかっちゃうわよ~」
おっとり微笑む母、キヨラと顔を見合わせたチエは「びしょぬれいやねえ」と笑っている。
そんなおだやかなひと時を壊したのは、どんっと突き上げるような大きな揺れ。
「地震か!?」
とっさに妹を抱き抱えたトオルが、珍しい父の焦る声を聞いた、その瞬間。
「うわっ」
「ひゃあ!」
「きゃっ」
「っ!」
一家はそろって宙に放りだされていた。
「パパ、ママ、見てみて、チィちゃんお空飛んでるー!」
「ちがう、チエっ! これは落ちてるって言うんだ!」
はしゃぐ幼児をいさめる兄。
その言葉どおり、一家は空の真っただ中。青く澄んだ空に足を向けて、地面に向かって頭から落ちていた。
「……みんな、父さんのほうへ寄りなさい」
こんなときでも十蔵は冷静沈着に、眼鏡をくいっと持ち上げる。
「ふん、親父のそばに行ったところで、飛べるわけでもないくせに」
「チィちゃんパパのとこ行くー!」
トオルのつぶやきは幼い妹の素直な願いにあっさり砕かれた。片腕にチエを抱いたまま、トオルは器用に空を泳いで父親の元へ向かう。
勢いあまって衝突しかけたトオルの肩を十蔵が受け止め、手をつなぐ。トオルはくやしげに「サンキュ」とつぶやいた。
「ママも行くわ~」
じたばたと手足を動かして、キヨラが三人に近づこうとする。
けれどか弱いせいか、それとも単に不器用なのか。なかなか思うように進まない。
「あらあ、難しいわねえ。トオルくん、どうやって移動したのかしら」
のほほん、と頬に手をあてるキヨラだが、一家は今もまさに落下中。
こうしている間にもみるみる地上が迫っていた。
家族が集まったところで打開策などありはしないが、バラバラに落ちるよりは身を寄せ合っていたい。
そのためには、おっとりした母親のペースに合わせている余裕はない、とばかりにトオルが叫ぶ。
「母さん、こっちに手を伸ばして!」
チエを十蔵に渡し、あいた左手をキヨラに向けて目いっぱい伸ばす。
十蔵もまたトオルとつないだ手を限界まで伸ばしているけれど、キヨラには届かない。
「あと、もう、ちょっと……!」
そのとき、苦し気に指を伸ばすトオルの右腕に、ぎゅっとしがみついたのはチエだった。
十蔵の腕から抜け出したチエが、腕伝いにトオルの背中へと移動する。
「チエ!」
「危ない、戻りなさい!」
トオルと十蔵が叫ぶけれど、チエはよじよじとトオルの左腕へ。
「チィちゃんもお手伝いするもっ」
ぶわ、と風圧で吹き飛ばされそうになる体を間一髪、トオルが左手で捕まえた。
捕まったチエは大きな目にじわじわと涙をためながら、それでもぎゅうっと泣くのをこらえる。
「……チエ、俺の手を握って」
幼い覚悟に、トオルも腹をくくる。
ちいさな手がむにむにと左手を包むのを感じながら、チエの右手首をぎゅっとつかむ。
「チエ、そのまま左手を離して」
「左……」
「チエが『あいっ』てあげるほう」
「あいっ」
ぶわん、と風にあおられた小さな身体を離さないように、トオルは額に汗を流しながらチエの目を見た。
「そう。そっちの手を母さんに伸ばすんだ。右手は兄ちゃんが持ってるから。大丈夫、ぜったいに離さない」
「うん!」
兄を信じて、チエが腕を伸ばす。
幼く、短い腕だけれど、目いっぱいに伸ばされた先の小さな指は、確かに母親の元へと届いた。
きゅっとつながる娘と母の手。
「チエちゃん」
「ママぁ!」
家族がまたひとつになった。
けれど落下を止める方法はない。
はるか眼下に見えていた大地はずいぶんと近づいて、赤茶けた土に生えるまばらな草木までも見てとれるようになっていた。
「……親父、母さん、チエ。今まで、その」
もはや、目前にせまる地上を前に、最後くらい素直になってもいいだろうか、とトオルが口を開きかけたとき。
どおっ!
ひときわ強い風が下から吹き上げた。
どおっ、どおっ、どおっ。
等間隔に吹く風が一家の身体を持ち上げ、そのたび落下の勢いが打ち消されていく。
落ちる。吹き上げられる。落ちる。吹き上げられる。
そうしてついに地上に着いたときには、落下の勢いはほとんどなくなっていた。
ならばかっこよく着地したいところであったが、手をつないだままの一家はあえなく全員がべしゃりと地にこける。
「む」
「いたっ」
「ぴゃっ」
「あらあ」
転んだ衝撃で口々に声をもらしたとき。
ざり、という足音とともに一家の頭上に影が落ちた。
「なんだ、珍しい鉱石でも落ちてきたかと思ったが、違ったか」
低い声といっしょにおりてきた太い腕が、倒れたチエをひょいと抱えあげる。
「おいっ」
何をする気だ、と顔をあげたトオルは、そこに立つ人を目にして息をのんだ。
ずいぶん、背の高い人物だった。
鋼を細く伸ばしたような髪が風に流れる。
そこから覗いたのは、磨き上げた刃物のようなひどく鋭い眼光を放つ隻眼。
右目が黒い眼帯に覆われていることが惜しく思えるほどの美丈夫が、片腕にかわいい妹を抱えて、トオルを見下ろしていた。
ほのぼの家族異世界転移、見切り発車いたします!