最終話
ルプラ迷子になって泥だらけ事件から、二カ月が経った。白猫の正体がルプラなのだとトランドも分かっていることは、ルプラの両親にも知らされた。
今ルプラはどちらかの屋敷にずっと留まることなく、実家と侯爵家の屋敷を行ったり来たりしている。方向音痴のルプラが両家を一人で行き来できるはずはないので、ルプラを運ぶのはトランドの役目だ。
必ず人間に戻れると信じて、ルプラとトランドの婚約は継続されたままとなっている。ルプラの異能がトランドの命を救ったこともあり、トランドの両親に事実が伝えられても、反対意見が出ることはなかった。
二ヶ月間毎日毎日、トランドは熱心に調べてくれているが、ルプラが戻れる目途は全く立たないままだ。
今日も夜遅くまで借りてきた本を読み、トランドは手掛かりを探している。猫のルプラに手伝えることは何もなく、ベッド上で丸まっていた。ルプラが眠気に負けてうとうとし始めると、トランドは読んでいた本に栞を挟んで閉じた。
「そろそろ寝よう」
「ぬぁー(はい、トランド様)」
侯爵家に滞在している時、ルプラはトランドと同じベッドで眠っている。ルプラが猫になっているから許されることだ。
ベッドに横になったトランドの傍らで、ふとルプラは考える。猫だから出来ることと、猫だから出来ないことについて。
ルプラがたとえ猫であっても、トランドに抱きしめてはもらえる。トランドに抱きかかえて運ばれるのは、落ち着くしルプラは大好きだ。
外に出たいルプラを気遣って、トランドは色んな場所にルプラを連れ出してくれた。当人たちにとってはデートという認識であっても、傍から見れば飼い主とペットの散歩にしか見えない。
婚約者であるルプラの姿が近くにないのをいいことに、行く先々でトランドは様々な令嬢に声をかけられた。トランドがそれらを軽くあしらう様子を見ていて、ルプラはどうしても不安を感じてしまう。
このままルプラが戻れなければ、いつかトランドは心変わりするのではないか。今のルプラは猫としてトランドに甘えること以外、トランドに何もできていない。今は維持されている婚約だって、いつか解消されてしまうかもしれない。
せっかく婚約できたにも関わらず、ルプラはトランドとキスせずじまいで猫になってしまった。ルプラがお願いすれば、優しいトランドは猫相手でもきっとしてくれる。でもそれはきっとルプラを傷つけないためであって、決してトランドがしたいからではない。そこまで考えてルプラは悲しくなり、悲しいままで眠りについた。
次にルプラが目を覚ました時、辺りは暗く真夜中だった。人の目と違い、猫の目は暗い中でもよく見える。ルプラの横でトランドは、無防備に熟睡中だ。
寝る前に考えていたことを思い出して、ルプラは衝動的にトランドの寝込みを襲っていた。ファーストキスが猫か……と内心苦笑いしながら。
柔らかいトランドの唇の感触は、ルプラの悲しみを癒してくれた。ほんの少しの触れ合いでも十分満足したルプラは、そっと顔を離した。
トランドの唇から離れた瞬間、ルプラは自分の身体に違和感を覚えた。久方ぶりの肌にシーツが触れる感覚。決して猫の状態では感じられない感覚だ。異能を使った直後に服に埋もれたことを思い出し、ルプラはさあっと真っ青になった。
いまなにもきていない。
ルプラは急いでトランドから掛け布団を剥ぎ取り、どこも見えないように全身を隠した。トランドとも出来るだけ距離をとって、部屋の端っこまで逃げた。一緒に寝ていたルプラがそんなことをすれば、寝ていたトランドは当然起きる。
「元に戻ったのか!?」
人に戻ったルプラにトランドは驚愕したが、ルプラはそれどころではない。
「大至急出て行ってくださいませー!!」
部屋の主が夜中に部屋から追い出されるという、割と前代未聞の珍事だった。
しばらくしてトランドが寄越したであろう侍女が、ルプラの着替えを持って部屋を訪れた。ルプラは痴女と思われたくなくて、着替えを手伝ってもらいながら、顔なじみの侍女に何もかも全部白状した。
「驚きはなくむしろ納得しました。トランド様の白猫を見る目が、ルプラ様を見る目と同じでしたので」
とりあえず侍女に痴女と思われるのは免れたようで、ルプラは一安心である。ただ寝込みを襲ってキスしたことを白状してしまったので、恥ずかしいものは恥ずかしい。
着替え終わったルプラは逃げるようにトランドの部屋を出ようとして、侍女に止められた。
「朝になって落ち着いてから話そうと、トランド様が言っておりました。トランド様は別の部屋で寝るとのことでしたので、こちらでこのままお眠りください」
猫の姿で過ごすのと、人間の姿で過ごすのはやはり違う。トランドの部屋に興奮冷めやらぬルプラだったが、騒いで疲れていたので案外早く眠りに落ちた。
夜が明けて朝となり、ルプラとトランドは庭に置かれたベンチに二人で座っていた。それぞれベンチの端と端で、二人の間にはかなりの距離がある。室内で話さず外なのは、ルプラが居たたまれなさすぎたからだ。
沈黙を破って話を切り出したのは、トランドの方だった。
「ルプラが元に戻れて良かった」
「はい、それはもう」
「何をしたら元に?」
トランドが戻った方法を訊いてくるに決まっていた。ものすごく恥ずかしいけれど、ルプラは言うしかない。ルプラは昨晩寝る前に考えていたことを、ゆっくりとトランドに話し始めた。反論したくてうずうずしているトランドを見て見ぬふりして。
話半ばの所で黙って話を聞いていたトランドに、我慢の限界が訪れた。
「ルプラが望むのなら、僕は猫でも人でも喜んでやる。そもそもルプラは」
トランドの反論が長く続きそうだったので、ルプラは途中で遮った。
「話が進まないので、一旦私の話を聞いてください」
渋々でもトランドが話すのを止め、ルプラは続きを話し出した。
「そんなことを寝る前に考えていたら、ものすごく悲しくなりました。それでたまたま夜中に目が覚めて、眠って隙だらけのトランド様を見ていたら、衝動的にトランド様の唇を奪ってしまいました。そうしたら、全裸で元の姿に……」
ルプラが今思い出しても、あれは今までの人生で一番寿命が縮んだ瞬間だった。いや、この先も含めて人生で一番かもしれない。
ルプラの話を聞き終わったトランドは、どこかぶすっとしていた。ちらちらとトランドの様子を窺いながら、ルプラは恐る恐る尋ねた。
「寝ている間にキスしたことを、怒っていらっしゃいますか?」
「ああそうだ。ルプラはファーストキスのことを覚えているのに、僕が何も覚えていないのは、不公平ではないか?」
「私だって……猫でないなら……、猫でない方が……良かったです」
途切れがちでもトランドに、はっきりと聞こえるように。
ルプラの返事を聞いたトランドは、ルプラとの距離を一気に詰めた。トランドが手を伸ばしても届かなかった距離から、手を伸ばさなくてもルプラに触れられる距離に。
「キスしても、いいか?」
トランドの問いかけに、ルプラは頬を赤く染めて小さく頷いた。トランドは小さく笑い、ルプラの両肩にそっと手を置く。向き合うとトランドの顔が近付いて来て、ルプラは自然と目を閉じていた。
二人の唇が静かに触れ合った。猫だった時と同じ柔らかい感触、やっぱり人同士の方が良い。ルプラは幸せでいっぱいだったが、幸せ気分に浸ってばかりもいられなかった。
二人の唇が離れた瞬間、ルプラは服に埋もれる感触に再び襲われた。トランドを救うために異能を使った時と、全く同じだった。
つまりルプラは再び猫になっていた。トランドに服の中から助け出してもらい、ルプラは情けなく鳴き声を上げた。
「ぬぁ~!?(どういうこと!?)」
泣き出しそうなルプラは大慌てだったが、トランドは驚くことなく冷静だ。あと二度目の変身でも、ルプラの鳴き声は下手くそなままだった。
「ルプラの新しい異能は、キスがトリガーで猫になったり人に戻ったりするということか」
トランドの推測を聞いて、戻れるのなら焦る必要は無いかと、トランドの腕の中でルプラは多少落ち着いた。
またトランドが正解に辿り着いたことで、女神のちょっとした細工も解けたらしい。ルプラは自身の異能を自覚できるようになった。微妙にトランドといちゃつきづらい異能で、ルプラの内心は複雑だ。
内心は複雑でも、ルプラは女神に深く感謝していた。女神から与えられたあの異能が無ければ、トランドは今生きていなかった。女神の心を動かせたから、ルプラは人の姿でトランドと一緒にいられる。
あの時迷わず異能を使ったルプラの判断は、決して間違っていなかった。
「猫になったルプラも可愛くて好きだけど、とりあえず元に戻ろうか」
トランドはルプラを持ち上げると、顔と顔を近づけた。ルプラが人に戻れるように、トランドが猫相手でも躊躇いなくキスしようとしてくれるのは嬉しかった。だが、ルプラは今トランドに、大人しくキスされるわけにはいかなかった。
「ぬぁー!(全裸になるから、今は駄目です!)」
トランドの顔に向かって、ルプラは可愛らしく猫パンチをお見舞いした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。