誘拐事件編-1
隆さんが出勤してしまうと、私は朝食の片付けや厠や茶の間の掃除に追われて、バタバタと過ごす。妊娠中ではあるが、じっとしているより少し動いた方が良いかもしれない。
塚田は、執筆すると客間に閉じこもってしまった。今朝の発言は、さほど悪いと思っていないようで、お茶やお菓子を図々しく要求してくる始末だった。
ただ、大人しく仕事をやっている以上は実害はなく、物音一つしない。それに隆さんが言うように本当に迫害に来たのだったら、もっと優しく接しなければ。聖書には、敵を愛しなさいと書いてある。復讐心は持ってはいけなし、右の頬を殴られたになら左の頬を差し出さなければ。
それに復讐は神様がやってくれた方がよっぽど良いと思う。今まで、自分達がクリスチャンというだけで、ちょっと嫌な態度を取る人もいたが、勝手に自滅していく事が多かった。
ただ、自分が何か問題があって起きている事は、悔い改めるまで神様が復讐する事は決して無い。やっぱり私達の神様は完璧に公平で義なるお方だと思う。家事の合間にもちょっと聖書を読み、教会へ掃除にしに行った。
今日は、礼拝堂や門のあたりを掃除する。牧師館の方は子供達のお陰で、頻繁に行かなくてもどうにかなっているが、教会の掃除当番は変わらずあった。
私は他の女性信徒さんのようにピアノ演奏が出来るわけでもないし、讃美歌が上手く歌えるわけでもなく、礼拝の時司会などが出来るほど立派でもない。金持ちでもないし、教会に奉仕出来る事は限られている。
掃除は、地味な作業ではあるが教会で出来る事があるのが嬉しく、鼻歌混じりで門のあたりを箒ではいていた。
今日は、気持ちの良い秋晴れだった。空には薄い綿のような雲が広がり、相変わらず神様が創ったものは、美しいなと感じる。風もちょうど良い暖かさで、これから冬の向かって行くのがちょっと信じられないぐらいだったら。
「志乃さん、おはようございます」
「牧師さん、おはようございます」
掃除を楽しみながらやっていると、牧師さんに会った。今日は洋装のスーツ姿で、手にはカバンを持っていた。牧師さんは、隆さんの父親でもあるが、あまり舅という感じがしない。それ以上に牧師と信徒という関係性の方がしっくり来てしまう。結婚してから呼び方も特に変えていなかった。
「お出かけですか?」
「ええ。竹村さんのところに行ってきます」
「え、竹村さん、どうかしたんですか?」
竹村さんは、この教会の信徒の一人でだ。40代ぐらいの主婦で、私が妊娠したとわかったら、お産について色々教えてくれた親切な人だが、最近礼拝に来て居ないのが気になった。
「実は竹村さん、ちょっと惑わされているみたいなんです」
「惑わされている?」
「ええ。なんでもこの町にいる占い師か霊媒師に興味があるようで……」
「ああ、それは困ったわね」
クリスチャンは、占いや霊媒には関わりは持つものではない。確かに不思議な事が起こったりするらしいが、背後にいるのは悪霊だった。私も竹村さんの事は心配になってしまった。
「この町にそんな占い師みたいのがいるの?」
「居るみたいです。困ったものですね。わざわざクリスチャンを的に定めているのも、いやらしい」
牧師さんは、ため息混じりに竹村さんのところに出かけて行ってしまった。
牧師さんが言う事が本当なら、心配な事だった。さっきまでの浮かれていた気持ちは、ちょっと沈んでいく。
少し前に隆さんから、元占い師の男が書いた本を貸してもらった。その本の中でが、どんな風に悪霊の心を開き、憑かれていくのか克明に描写されていた。悪霊が憑くと、その声が聞こえるようになり、血の生贄を要求してくるようにもなる。夏実さんの事件もそうだった。夏実さんも悪霊に憑かれて、その声の従って動物を殺していたのだ。
元占い師の本には、それだけでは無kく、クリスチャンに狙いを定めて悪霊が攻撃を仕掛ける事もあると説明していた。信仰が弱かったり罪を悔い改めていない部分がありクリスチャンは、こう言った悪霊の攻撃にあっさりと負けてしまうらしい。確かに自分も夏実さんの事件の時、罪を犯した時、あっけなくインキュバスに攻撃された事を思い出した。
悪霊は、やっぱりとてもしつこかった。隆さんの知り合いで悪霊祓いをやっている者もいるそうだが、「この人間は俺のものだ」と所有権を主張し、なかなか出ていかないらしい。
そんな事を考えていると、教会の門から春人くんが入ってくるのが見えた。
春人くんは、教会で預かっている子供の一人だった。5歳でまだ子供であるが、最近はクリスチャンになりたいと言い、聖書も勉強中だ。私も時々、勉強を教えていた。なにしろ字を読めないと聖書を読むのも大変だ。やっぱり教養はつけて置いた方がいい。自分も全く学のない農村の娘だったが、この教会で保護されてからは、隆さんに字を教えて貰って、学校に行く事もできた。
春人くんは、顔を赤くして泣きそうに顔を赤くしていた。いつもは明るい子供だが、今はブスっと無表情に黙っている。
「春人くん、どうしたの?」
私は、背をかがめて春人くんに視線を合わせて尋ねた。
顔をよく見ると引っ掻き傷のようなものが見えた。
「志乃姉ちゃん……」
春人くんは、私にしがみついて大泣きし始めた。
「ちょっと、春人くんどうしたの?」
春人くんのただならぬ様子に、嫌な予感しか無かった。