表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ホチキスとプラネタリウム

作者: 賀本東

 金属の擦れる音、弾ける音。

 これは何の音でしょう、なんて問題を出したら、ほとんどの人が当てることができると思う。

 二つ折りになった器具にくっつけたいものを挟み、ぎゅっと押せば、発射された針はお互いを離さなくなる。


「ホチキスって何語なんだろう」


 私の独り言に、隣で作業する夕部(ゆうべ)は、すかさず返事をくれた。


「英語だとステープラーだよな。ホチキスは発明した人の名前だったと思う。比良日(ひらび)が作ってたら比良日になってたな、これ」


 夕部は私の名前を呼んで、手にしたホチキスを持ち上げ、ちょっと笑った。


「えー、こんなの発明とか、むりだし」


 教室の天井には煌々と灯り。窓の外はだんだん夜になる。

 校庭からは運動部の掛け声。向かいの校舎からは管楽器の響き。帰宅部の自分にはどこか縁遠い、青春の音。

 私の興味はホチキスから、すっかりそちらに移動する。


「まだ部活やってるね」


「みんな元気だよな。終わってから塾行ってるやつもいるし」


「夕部は、今日は塾ない日?」


「うん。今日は休み」


 放課後の教室に残っているのは、私と彼のふたりだけ。先生は会があるからごめんなさいと、途中でいなくなってしまった。


「先生、戻って来ないね。職員会、長引いてるのかな」


「部活の方、見に行ってるのかも」


 委員会の担当の先生は、あれやこれやと仕事を任されていて、いつも忙しそうにしている。


 明日の朝一、全校集会で使うプリント集。いったんは完成していたのに、急遽不備があり差し替え。ホチキスで留めたプリントを、いったん外して新しいプリントと交換してまた留める。今、私たちがやっているのは、そんな作業。


 このプリント集、余裕をもって作っていたのに。前日になって差し替えって。泣けてくる。でもたぶん、先生が一番がっくりしてたと思う。


「完成してたのにやり直しって、ダメージでかいよねえ」


「最初からやるより、すり減る感じがするな」


 机の上には、夕部が外したホチキスの針が、キラキラと光っている。


「夕部のやってる作業、ほんと空しいよね」


「こういうの嫌いじゃないから、大丈夫」


 夕部は丁寧に、ひとつひとつ針を外している。それが彼の担当。プリントにしがみつく針に、ホチキス本体のお尻についてる、へら状のリムーバーを挿し込んで解く。私も最初、同じ作業をいくつかやってみたけれど、紙を破きまくってダメだった。結局効率を重視して、夕部が針を外し、私が新しくホチキスで留めるという、分業制に落ち着いた。


「私ひとりでこの作業は無理だったよ。やり直しになりましたって先生から聞いたときの脱力感、すごかったよね。夕部が一緒に残ってくれなかったら、泣いてた」


「大げさだな」


 夕部は大したことじゃないみたいに、作業の手を止めずに言う。


「大げさじゃないよ、ほんと」


 ひょうひょうとしたその態度に、初回の委員会に出席したときのことを思い出した。


「夕部が同じ委員会でよかったよ。会に出たとき、顔見てほっとしたもん」


 夕部とは去年まで同じクラスで、今年は別のクラス。各クラスひとりずつで構成される委員会に、知っている人がいて心強かった。しかも夕部のほうから、隣の席に誘ってくれたことも嬉しかった。


 パチンとホチキスを鳴らしながら思い出を語る私に、夕部も記憶をたどるように言う。


「比良日のクラスも、じゃんけんだった?」


 人気のない委員会に、わざわざ立候補で入りたい人はまれ。どこのクラスも結局は、最後はじゃんけんに頼ることになる。自分の運だからしょうがないと、諦められる方法に。きっとこれは大人になっても、よくあることかもしれない。


「そうなんだけど。違うんだよ。クラスのじゃんけんには、私、勝ったんだけど。負けた友達にあとから頼まれて。どうしてもって。別の学校に彼氏ができて、放課後しか会えないから、委員会で帰れないの、困るって」


「え、そんな理由?」


「うん。もし私が断って、友達が彼氏と別れることになったら、なんか気まずいし」


 逆に、友達の恋がうまく続いても、私のおかげだとは思われないと思う。でも、まあ、いいのだ。


 そうして夕部と一緒になった委員会。だけどこういう作業がある日は、同じ委員会の他のメンバーは、部活があるとか塾があるとかでさっさと帰ってしまうのだ。

 私たちは自然と、委員会のたびに残って、一緒に作業することが多くなっていた。


「帰宅部はこういうとき、損だよね」


 私の愚痴に、夕部が頭を上げた。その視線の先には壁掛け時計。


「比良日はバスの時間があるんだから、帰れるだろ」


「でも、最終までは、まだ数便あるし」


 私の家は山の奥。この学校のある街も、そんなに都会じゃないけれど。私の家はさらに田舎。家の近くには学校がないから、通学するなら街の学校。通学の手段はバスになる。

 バスの時間以外には、断る理由が私にはない。任された作業から嘘をつかずにうまく逃げられるほど、私は要領がよくないのだ。


 そして夕部もまた、いつも帰りそびれている。同じく帰宅部だし。通っている塾と委員会の開催曜日が、どうやらうまいことずれているらしい。

 夕部の家は学校のすぐ近く。徒歩で通学できる距離。街っ子なのが羨ましい。


「でもいいよね、夕部は家近くて。街まですぐだし」


 進学する前は、街に出かけること自体が、私にとっては大イベントだった。街に住んでる夕部からしてみたら、あまりピンとこないらしい。


「別に、店がいっぱいあっても、使える予算は決まってるから。好きなものが何でも手に入るわけでもないし」


「まあ、それはそうだけど。映画館とかすぐ行けていいよね。あ、プラネタリウムも、できたよね」


 私は教室の隅の掲示板を見る。そこには、満天の星空が描かれたポスターが貼られているのだ。数か月前に街にオープンしたプラネタリウム。

 私の視線をたどって、夕部が尋ねてきた。


「比良日、プラネタリウムもう行った?」


「ううん、まだ」


 私は頭を横に振る。

 そういえば、クラスの友達も。今度行こうって騒いでたなあ。私もいつかは、行ってはみたいとは思うけど。


「でも、行ったら行ったで、寝ちゃうかも」


 プラネタリウムの会場の真ん中にいる自分を想像してみよう。きれいな星空。整えられた空調。穏やかな声の解説に、やわらかくてやさしいBGMなんかが流れたら、私はきっと安心しきって、まぶたを下ろしてしまうだろう。


「あー、比良日なら。ありえる。去年も授業中、けっこう居眠りしてたもんな」


 そう言って、夕部は笑う。からかわれているのに、こんなやり取りが嫌ではない。

 それから、思いついたように、夕部は言った。


「比良日の家の方なら、プラネタリウムよりも星、見えそう」


 私の家の方。つまりは田舎の山の方。

 確かに街より空気が澄んでいるし、地上の光も少ないから、きれいに見えそうではある。


「確かにあるね、天然のプラネタリウムが」


 だけど改めて考えると、自宅の夜空を最近ちゃんと見たこともない気がする。

 真っ先に頭に浮かんだ星空は、さっき視界に入ってたプラネタリウムのポスターの画像だったりするから。もしかしたら、もったいないことをしてるのかも。


 自宅の山の夜空を思い出そうとする私の前で、夕部が机に広がる外したホチキスの針を、手のひらで集めてざらりと落とした。机に添えられたゴミ箱に、集められた針がキラキラと吸い込まれる。私の頭の中に生まれかけていた星屑も、一緒にかき消えてしまった。

 それから、夕部の手はにゅっと私の前に差し出された。ぼんやりそれを見つめていたら、がさ、と。プリントの山が半分奪われる。


「よし、こっち終わったから。そっち手伝う」


「早っ」


 私は一気に正気に戻る。

 雑談をしながらも、夕部はしっかりと手を動かしていたのだろう。私は自分の成果を見て慌てる。

 夕部はホチキスを持ち直し、留める作業に取り掛かる。


「まだ、バスの時間大丈夫だよな?」


 時間制限があるのは私で、それで夕部も急いでくれているのに。私が足を引っ張って、どうする。


「この調子なら、次のバスには間に合うんじゃないかな。それを逃したら、ちょっと遅い時間になるけど」


 家には連絡をしておけば、家族に心配されすぎることもない。

 すると、夕部がこともなげに言った。


「そのときは、うちに寄って、時間つぶせば?」


 私はその言葉に、とくんと胸が跳ねるのを感じた。だから、ふざけた口調で言ってみる。


「いいよねえ、家が近い人は!」


 なのに。夕部はちょっと真面目な顔になる。


「ほんとに、いつでも。来ていいよ、比良日なら」


 プラネタリウムで爆睡する自分の姿は想像できたのに、夕部の家にお邪魔する姿は想像できない。というか、想像するとなると、夕部の家ってどんな感じだろうとか、じゃあ部屋はどんなのだろうとか、いろいろ考えないといけないものが多すぎて、あれこれ一気に込み上げてきて、頭が煮えてしまう。

 今はそれより優先することがあるのに。


 パチン、とまたひとつ音がして、夕部の手元できらりとホチキスの針が輝いた。夕部はホチキスを留めるのも上手だ。無駄のない動きで次々と仕上げている。

 私も気を取り直し、ホチキスに力を込めた。


 会話も止まり、しいんとした教室の中にホチキスの音が響く。いつの間にか、校舎の外からも中からも、部活の気配が消えていた。この学校に存在するのは、ふたりだけなのではと錯覚しそう。

 すっかり手になじんだホチキスが、パチンと音を立てるたびに、針は素直にプリントを抱きしめる。何度でも、何度でも。


 そういえば、夕部はプラネタリウムにもう行ったのかな。質問に答えるばかりで、こちらからは尋ねていないことに気づく。改めて尋ねるにはタイミングを逃してしまった。


「あ、それで終わりだな」


 私が迷っているうちに、夕部は残ったプリントを揃えてこちらに差し出した。最後のトドメは私にさせてくれるその気遣いに、悪い気はしなくて、私は改まった気持ちで、プリントの隅にホチキスを当てる。そして、ぐっと、ホチキスに力を加えた。


 なのに、かつん、と、手ごたえのない音。

 諦めきれずにもう一度、同じ動作を繰り返しても、気の抜けた音は変わらない。

 私は本体をがばりと広げてみる。ああ、やっぱり。


「うわ、針、ここで切れる?」


 替えの針はたくさんあるから、新しいのを補充すればいいだけだけど。あとひとつのところで切れてしまうなんて、と、悔しい気持ちが込み上げてきた。ラストだからちょっとカッコつけた心構えだったのとかも、自分ではわかってたから、それが恥ずかしいのもある。

 心の声をそのまま口に出した私の隣で、夕部は笑いをこらえていた。声が震えている。


「こっちの使えよ」


「ありがと」


 私は夕部に差し出されたホチキスを受け取る。これまでずっと夕部が握っていたホチキスは、あたたかかった。手の中で、ホチキスに残る夕部の温度と、それを握る私の温度が、同化する。

 すでに赤い私の顔は、夕部のぬくもりを意識して、さらに赤くなる気がした。その気持ちを振り切って、ホチキスを握る。さっきまで使っていた自分のホチキスとは少し違う手ごたえ。跳ね上がったホチキスの間で、ちゃんと、針はプリント同士をくっつけていた。


「終わったね」


「終わったな」


 すかさず夕部は、私の使っていたホチキスに針をセットしてくれていた。細やかなやさしさに感心する。大したことじゃなくったって、それをさりげなくできるってすごいこと。

 私は夕部に借りたホチキスを、プリントの山の上に置く。その隣に、夕部も、針をたっぷり補充したホチキスを並べて置いた。


 ひとつ息を吐き、時計を見ると、次のバスには間に合いそうな時間。

 ふたりで教室の消灯と戸締りを手分けして終わらせる。職員室にプリントを届けたら、ちょうど先生も用事を終えて戻って来たところだった。


「ありがとう。ふたりのおかげで、助かりました。ほんと、ありがとう」


 先生はありがとうと何度も言うと、下駄箱まで見送ってくれた。


 ★★


 気をつけて帰ってくださいと手を振る先生と別れ、校舎を出る。

 校舎にはまだいくつか光の漏れる教室があった。部活帰りの集団が、わいわいと自転車で校庭を横切ってゆく。私は夕部と並んで、校門を出た。

 そこで私は疑問に思う。


「夕部の家、あっちだよね」


 私の向かうバス停と、夕部の自宅は逆方向。なのに夕部は私についてきた。


「バスが来るまで、一緒に待つよ。暗いし」


 暗いと言っても、時間的には学生が歩いていてもまだ大丈夫なのに。

 それでも夕部は心配なのか、私をバス停まで送り届けるつもりのようだった。


 なんだか夕部のやさしさが、急に気恥ずかしくなってくる。私は落ち着かない視線を、ふと、夜空に向けた。

 空には星が瞬いていた。街でもけっこう見えるのだ。


「星が出てるよ」


 私の呟きに、夕部も空を見上げる。


「星、出てるな」


 うろ覚えの星座を交互に言いながら、私たちはバス停まで歩く。だんだん近づくバスシェルターの中のベンチには、すでに数人の客がいた。私は屋根のない、少し離れたところで待つことにした。

 時刻表通りなら、バスの到着時刻まではあと数分。私はそばにいる夕部に言う。


「もう大丈夫だよ。人もいるし」


「いや、ちゃんと乗るまで見てる」


 そんなことを言いながら、夕部は帰ろうとしない。

 なんでそんなに心配してくれるの、と、尋ねてみたいけど、特別な意味などないのかも。単なる親切心からだとしたら、理由を尋ねるのはきっと迷惑。


 私は疑問を飲み込んだ。そのとき、視線を動かした先。バスシェルターに貼られたポスターに気づく。それは教室に貼ってあったのと同じ、プラネタリウムの、星空。


 そうだ、あの質問を。今なら、してもいいはずだ。

 私は夕部の横顔に、学校で尋ねそびれた問いを投げかける。


「夕部はプラネタリウム、見に行った?」


 パチンと。跳ね上がったホチキスみたいに、夕部の肩が動いた。そしてゆっくりと、こちらに顔が向けられる。

 視線が合って、思わずそらしたくなるけど。今はなんだか、そうしてはいけない気がして。私はそのまま、彼の視線を受け止めた。


 夕部は私と違って、プラネタリウムに行っても、寝ることなんかなくて、しっかり楽しめそうだと思う。今私に向けられている、キラキラした目で、満天の星空を見つめる夕部の姿は、簡単に想像できた。


「まだ行ってない」


 夕部はそう言うと、片方の手をすうっと、こちらに伸ばした。

 触れたのは私の手。ホチキスから感じたぬくもりよりも、もっとはっきりとした温度が、私の手に触れている。


「だから、比良日、今度。一緒に見に行こう」


「え、私?」


 彼の頭の向こうで信号が赤に変わる。そこにゆっくりと近づいてくる光。あれはバスの標識灯。目的地行きのバスの到着に気づいた他の客は、ベンチから腰を上げて乗車位置に並び始める。

 私も並ばなきゃと思うけど動けない。夕部に手を握られているから。

 夕部は真剣な顔だった。


「だめかな」


 夕部の頭の向こうの信号が青に変わった。バスがさらに近づいて来る。ヘッドライトの星が大きくなる。

 あれが、ここに、たどり着く前に。私は彼に返事をしなくてはいけない。だけど、何と答えたらいいんだろう。私の答えでふたりの関係が変わるのだ。どうせなら、いい方に、変わりたいと思う。


「寝たら、起こしてくれる?」


 私の言葉に、夕部の顔から緊張が解ける。ふわりと笑んだその表情を見ながら、私は彼の手を、ぎゅっと握り返した。


「約束だよ」


 停車したバスに、ひとり、またひとり。客が吸い込まれて行く。

 もしもこのバスに乗り損ねたら。私はこのまま夕部の家にお邪魔することができたのだろう。

 一瞬頭をよぎったあれこれは、とても魅力的だったけど。急ぐ必要なんてない。

 私は夕部にまた会える。


「また、明日」


 私たちは手を離す。そしてそれぞれ、その手のひらを、大事に閉じた。


「うん。また明日ね」


 私は夕部の温度を手のひらの中に閉じ込め、バスに乗る。歩道側の席に座って、窓の外を向いたら、夕部が手を振ってくれていた。

 私に触れた手は握ったまま。

 私の温度はきっとまだ、彼のあの手の中にある。


 ★★


 委員会に出席して私に会うために、塾に行く曜日をずらしてた、なんてことを白状した夕部が。私の故郷の夜空は、プラネタリウムよりもすごい、と。とても嬉しそうに一緒に実家の上に広がる星空を眺めてくれるのは。

 遠くて近い未来の話。


(ホチキスとプラネタリウム/終)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ