季節外れの四十七士とうなぎの話
特に深い考えはありません。
鰻食べてたら思い付いただけの話です。
お気軽に読んでください。
昨晩の晩御飯がうなぎだったもんで、なんとなく思い付いて書いていきます。
四十七士と言えば赤穂浪士なんですが、江戸に参集した四十七士たちが、吉良邸に向かうとなって、どのように向かったのか。
江戸は幕府の中心地で、有名な桜田門など、各方位に門があり、朱引きの内側は多くの門と、そこを見張る門番がいたんですね。
ならば、完全武装の赤穂浪士たちを門番が通す訳はありません。こう考えるのが普通なので、どうやって武家屋敷のあるそれも高家筆頭の吉良邸のある江戸中心部へと攻め込むことが出来たんでしょう。
ここで、鰻が出てきます。
鰻を開いてタレで焼く調理法は江戸時代にはすでにあった筈です。関東の背開きは江戸時代に作られたとされてますからね。
ただ、蒲焼きという言葉の語源の一説には串に開かずに刺した鰻を焼いたものが「蒲の穂」のようであったことこら「蒲」焼きと名付けられたというのがあります。一般的には江戸時代くらいまではこの、串にそのまま刺して焼くだけの「蒲」焼きが一般的だったようですが、これ、あまり美味しくは無かったようです。鰻は簡単に手に入るけれど、あまり美味しくない魚という印象だったんですね。
そして、簡単に手に入るから、道端で七輪なんかで炭を起こして「蒲」焼きにして売る小遣い稼ぎがあったそうです。
さて、ここで門番の話に戻ります。
江戸も中期を過ぎると、太平の世が長く続いたことで、武家と言えども平和ボケが始まります。
そもそも、家督を子供に律儀に分与してたら、家が無くなるからと若隠居の部屋住みが当たり前だったりした時代ですから。江戸の門番こと「角番」はお役がない中級、下級武士に割り当てられた仕事でした。
とは言え、太平の世です。攻めて来る敵もいない中では真面目に門番しても暇なだけと、油を売ったり、鰻を売ったりして小遣い稼ぎしてたらしいんですよ。
江戸の都々逸には
角番をしてると思えばうなぎ焼き
角番は槍が通ると下を向き
なんて言うふうに、油を売ってサボりながら小遣い稼ぎしたり、トラブルや門番として止めなければならない危険人物を、関わりたくないとか、そもそも武芸に自信が無いとかで見て見ぬ振りする人もいたと風刺されてますね。
これを踏まえて見れば、赤穂浪士たちが決行に際しては門番を気にして無かった可能性が高いと伺えますね。
まー、私が門番でも、軽装でろくに実践経験もないのに、やたらガチな装備の数十人が押し寄せるわけですからね。そりゃ、怖いし逃げますよね。
さて、すっかり高騰してしまったうなぎ、庶民の魚から、すっかり高級魚の仲間入りしましたね。
鰻はタレと調理法の勝利と言われることがありますね。いまや人気のマグロ、高級魚のフグなんかも調理法が確立していなかったために江戸時代には下魚扱いでした。食べると死ぬからとお上に規制されていたフグはともかく、マグロは調理法、保管法が悪かったために直ぐに変色して痛み、また血生臭さが酷かったために「猫すら食べずに跨いでいく」と「猫またぎ」なんて蔑称があったほどです。
赤穂浪士の話も昔から吉良上野介義央の地元、愛知県では昔から名君として讃えられ、吉良が理不尽な裁定と謂わばテロリストに殺された被害者として扱われていますよね。近年では、その認識が広まっているようにも思います。
新撰組や織田信長、今川義元など、挙げればきりが無いほどに様々な思惑で歪められた人物や事件や故事が再考証され再評価されることがありますが、食文化の変遷なんかも面白いですね。
生態に謎がおおく、とくに孵化したあとの稚魚の段階の生育が難しい鰻は完全養殖がまだ研究段階ですが、いつか完全養殖の安くて美味しい鰻が出回って、キノコのように気軽に食べれるものになって欲しいな、なんて思いますねー。
キノコの栽培に命や私財を投じてくれた過去の偉人たちにも想いを馳せつつ、スーパーで様々な食材を買えるのは素晴らしいよねって、落ちが脱線しておしまいです。