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地下通路には一定の距離に水飲み場が用意されている。壁に空いた穴の上にIDをかざせば水が出てくる仕組みだ。穴にはきちんと蓋がしてあって、IDをかざすと蓋が開いてほんの少しパイプが飛び出してくる。恋人と軍人は長い時間を歩くことが多い。途中で倒れたりしないためらしい。僕達は使用していないけれど、トイレだってある。まぁ、この状況では余程飲み過ぎない限り尿意は感じない。
緊張状態の種類にもよるけれど、戦いの最中には一日くらいなら用を足さないのは当たり前のことだ。水分は補給しないとダメだけれどね。
彼女は普段からよく喋る方だと思う。基本的に彼女のお店は静かだ。僕達軍人は殆ど喋らないからね。そんな中で彼女だけはいつも喋っていた。おしゃべりってわけではない。煩わしさを感じたことは一度もない。彼女の声は、全てを邪魔しないんだ。あのお店の空間に完璧に溶け込んでいた。
お腹が空くとね、いっぱい喋りたくなるのよ。
以前にそう言っていたのを覚えている。沢山食べた後は眠くなっちゃうし、アルコールを飲むのおかしくなっちゃうのよ。だからは私はこうしてここであなたとお話しするのよ。
それはまだ、僕の名前を伝える前の会話だった。
だからここでは食事を提供していないんだね。
僕がそう言うと彼女は笑う。そして、あら、軍人さんは食事なんてしないじゃない。いっつも誰かを殺してばかり。血の匂いを誤魔化すためにアルコールを飲んで帰るんでしょ? 恋人さんに嫌われないために。
別に嫌われたって構わないよ。それに、大抵の恋人はアルコールの匂いも嫌っている。
僕がそう言うと、そうなのねと彼女が答えた。だからここには恋人さんが来ないのね。そう言った後にため息をこぼす表情が、僕には可愛く感じられた。
食事はちゃんと採った方がいいよ。
そんな僕の言葉を聞くと、一瞬だけど彼女の目が輝いた。じゃあ今度一緒に食事をしましょう。彼女は僕の目をわざと逸らしながらそう言った。そしてこう付け加える。あなたのお家でね。
僕は立ち上がり、お金を置いた。
あぁ、約束は守るよ。
そう言ってその日は店を出て行った。背中で彼女の視線を探したけれど、僕に向けられることはなっかた。
次の日からだと思う。僕と彼女が仲良くなったのは。まぁ、約束はいまだに守られていないんだけれどね。そして今に至るまで、彼女が飴以外のものを食べている姿を見ていない。