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テレビに別の小さな箱を線で繋ぐ。その箱には二つの更に小さな箱が線で繋がっている。それはリモコンと呼ばれていた。テレビに繋がった箱にはその天辺の中心に普段は開閉式の蓋がされている穴が空いている。そこに嵌るピッタリサイズの別の箱を差し込む。それはカセットと呼ばれていた。その後に色々なボタンを押したりすると、テレビの画面が異様に変化する。
これがテレビゲームだよと言われたけれど、意味は分からない。というか、そこには意味なんて必要としなかった。その映像はよく見ると小さな四角の塊で人や景色を表現している。リモンコンを使うと主人公を動かせる。その他は主人公の動きに合わせたりそれとは別の意思だったりで動いていく。基本は敵をやっつけるストーリーになっているけれど、中には文字を読みながら仲間を作ったり情報を聞き出したりして進んでいくものもあった。ブロックや数字を使った頭を使うものはパズルゲームと呼ばれていた。
テレビもゲームも楽しいけれど、どれもが無意味だって感じるのは何故だろうか? 夢中になっているときには気がつかなかったその感情に、いつも僕はここが現実なんだと思い知る。ゲーム中に現実へと引き戻されることは、百パーセントの確率だった。
僕達はラッキーだ。この世界にはテレビがない。だから当然テレビゲームが存在しない。ゲームという呼び名はないけれど、数字遊びはある。ブロック遊びもある。絵を描いて繋げたり、物語を創ることもある。テレビがなくても、更には道具なんてなくて遊びは出来る。ゲームは遊びの同意語だと感じていた。最初のうちは。
けれど現実はまるで違っていた。テレビゲームは人をダメにする。考える力を退化させる。自分では考えながら進んでいるつもりでも、実際には製作者の意図通りに動いているだけだ。製作者が考えたパターン以外の行動は出来ない。つまりは誰かに踊らされているだけにも関わらず、自分は凄いことをしていると思わされている。
僕は恐ろしく感じた。テレテビゲームなんてただの暇潰しに過ぎないのに、ゲームをしている側はそれに気がつかない。楽しんでいるだけなら問題はない。その楽しみから自分でゲームを考える側になるのも問題はない。ただ、ゲームをなにか他の勉強と同列に考えることが恐ろしい。芸術と横並びにする人もいる。
テレビゲーム以外のゲームも僕はあまり好きじゃない。楽しいゲームも存在はする。考える力を養うことも出来る。けれど僕は、好きじゃない。そもそも僕は戦争が嫌いだ。戦争は、人類が考えた最低最悪のゲームだから。