affection
その人は僕に言った。
「あなたを愛してみたいの」
初夏の日差しに彼女の長い黒髪が踊るのを、僕は苦く甘い思いで見ていた。
彼女は特別な人だった。
年は僕より3つ年上で、垂れた目と口元のほくろが印象的な綺麗な人だ。母の友人の娘で、僕にとっては幼馴染でもあった。
「あの人はあなたを愛したわ」
彼女の語る『あの人』に名前はない。そもそも、人とも限らないのだ。『あの人』は決まって『あなた』、つまりは僕と関わりのある何かのことを指していた。
「ぺろぺろとね、指先をなめて」
どうやら今日の『あの人』は先日見かけた野良猫のことらしい。たいてい、彼女の謎掛けの答えは僕にしかわからないものだ。僕と、彼女にしか。
「触っていいかしら」
「どうぞ」
僕らの会話はいつも短い。
彼女が何かを求め、僕が許可を出す。そういう形を、彼女が望んだのだ。彼女は二人掛けのソファに座る僕の足元に座り込み、僕の左手をとる。そして何か神聖な儀式ででもあるように、そっと顔を寄せる。
ふにゃり、と頼りない感触。それはすぐに離れていったのに、柔らかさだけは残っているように思えて、僕はその想像の甘さに酔いしれた。
「やっぱり、わからないわ」
僕は彼女の斜め後ろを見て、そっと唇に笑みを佩いた。そうでなければ笑うことなどできなかったのだ。
彼女は言う。
「あなたを愛してみたいの」
そのくせ、僕がその人を愛することを、許してはくれない。
朝顔が咲いたのだ、と彼女は言った。ほっそりとした腕に抱えられた鉢植えには確かに、赤みがかった紫の花が咲いている。
「朝顔の花言葉を知っているかしら?」
「いや、知らないよ」
僕は彼女の問いに答えられないことを残念に思った。
「わたしも、しらないわ」
僕はその時、まったく唐突にその意味を理解した。朝顔の花は、一つの結果であることを。彼女がその鉢を丹精込めて世話し、植物がその愛情に応えた結果。
ならば僕を愛してみたいといった彼女は、僕に一体どのような結果を求めているというのだろう?
「あなたを愛してみたいの」
それはひどく一方的な要求であると思っていたけれど。もしかしたら、違ったのかもしれない。僕は心臓の高鳴りを彼女に悟られないように、そっと深呼吸する。
「触って、いいかしら?」
「隣に座ってくれるなら」
「喜んで」
僕のいつもとは違う答えに、彼女は声を弾ませた。
「許すことは、愛かな」
「さあ、どうかしら。少なくとも、嫌われてはいないと思えるわ」
彼女は僕にたくさんの許可を求めた。つまりは、そういうことだ。僕は彼女を見つめてほほ笑む。
「朝顔の花言葉を知っているかい?」
「いいえ、しらないわ」
僕はそっと答えを囁いた。
夏の終わりの生ぬるい風に彼女の長い黒髪が甘くなびくのを、僕は見ていた。