9月11日 よくわかりません
この研究所では、毎週日曜日が定休日となっている。
ブラック企業などと呼ばれている会社よりずっと人道的といえる。
しかし、この仕組みには私たち研究員への配慮からきたものとは思わない。
日曜日は、メンテナンス係の私ですら、アンドロイドの彼女に会うことができない。
見当もつかないがおそらく、上位権限者のみに許された行為を行っているのだ。
私たちが彼女に近づけないようにするための、そのための休み。
私たちには関わることも、知ることも許されない。
知るべきこと、知るべきでないこと、様々あるが。
私にとっては、ただの知りたいことだ。
今日11日は、プロジェクトが開始して二度目の日曜日。
先週は翻訳作業のため一日中研究室にとじこもっていた。
そのことを考えると、この10日間、丸一日休んだ日は一度もないことになる。
それは精神も疲弊するわけだ。
休みといわれると、たいていの人は諸手を挙げてよろこぶものだが、世の中にはそうならない人間もいる。
休みの日になにをしたらいいのかわからず路頭に迷う人だ。
つまり私のことだ。
学生時代から、休みの日もずっと研究に没頭していた。
研究に夢中で休みがいらないなんていうわけではなく、手持ち無沙汰になったあげく結局研究をするのが一番有意義だと結論していただけだ。
ルエもそのタイプだろう。
休みの日に二人きりの研究所で科学の問題を解き合っていたあの光景は、はたから見たら狂気だったにちがいない。
ふりかえる自分がやや引いているほどだ。
その性質は5年経ったいまもかわらず、つまりいま現在路頭に迷っている。
午後になったら街にでも出ようかとぼんやり考えていた午前10時。
ふと一冊の小説のことを思い出し、本棚から取り出した。
小説を読むより学術書を読む方が好きな私だが、そのなかでも気に入った小説は人生で何冊か出会ったので、この研究所に持ってきていた。
プロジェクトが始まるまでは時折手にとって読み返していた。
おもに、というかすべてSF。
それも、すべてアンドロイドが登場している。
自分がアンドロイドに関わる仕事をするから、なんてことはなく、気づいたらたまたまこのタイプの小説だけが集まっていた。
小学校にあがる前から一切嗜好が変わっていない。
もとよりアンドロイドという存在に惹かれるようにできていたのだろう。
いま手にしているのは『re:unknown』。
アメリカの小説で、日本では刊行されていない。
思えば、英語やフランス語を習得しようと思ったきっかけは、こういう日本語に翻訳されていない本を読みたいという想いからだった。
学術書の原文を読むためという実用的な意図もあったが、そんな無粋な動機よりもずっと強かった。
ストーリーは、アンドロイドとその開発者アレクの二人が主人公で、戦場の殺戮兵器として生まれたアンドロイドに親心を覚えたアレクが、心優しいアンドロイドが苦しまないよう日々の戦闘の記憶を消しながら前に進むというもの。
この開発者の狂気は、本物の人間にはいっさいの容赦がなかったところにある。
親や友人に裏切られ続けていた彼は、人間不信どころか人間という存在を生き物とすら認識せず、非人道的な人体実験をくりかえした。
実験の成果が認められ、終戦後は英雄として讃えられた。
余生を過ごす彼のそばにはいつもアンドロイドがいて、しあわせそうに息を引き取った。
彼が心を許したのは、生涯を通じてアンドロイド一体だった。
ここに登場するアンドロイドは、いま私たちが向き合っている少女の姿ではなく、性別なんて概念の搭載されていない戦闘に特化されたメカメカしい姿だ。
名前はクレア。
フランスの女性名のため違和感は否めないが、その名前である理由も明かされ、読んでいるうちにしっくりくるようになる。
そして読み進めるうちに、読者の中にもアンドロイドへの愛情がくっきりと芽生えてくる。
いまだに翻訳されていないのか不可解だと感じるくらいに、私はこの本が大好きだ。
無人島に一冊本を持っていけるなら、まよわずこれを選ぶ。
いっそのこと、私が翻訳するのもいいかもしれないな。
冗談交じりにそう考えて、しばし黙りこむ。
……冗談でなく、本当に翻訳していいんじゃないか?
お金に困っているわけじゃない。
この本を多くの人に知ってもらいたい一心で。
胸の奥が熱くなった。
あぁ、この感覚は……。
本能が「やれ」と命じている。
生まれてこのかた、小説なんてものは一度も書いたことはない。
ながい文章なら論文で幾度となく書いたが、論文の文章と小説がまったく別物であるという認識くらいは私にも備わっている。
ふと思い立ち、研究所を出た。
そういえば、外で昼食を食べるのはひさしぶりだな。
よく晴れた青空を見上げつつ思った。
昼食を食堂でとり、そのまま業務時間になるまで自室で本を読み漁る。
思えばなんと不健康な生活をしてきたことか。
研究者なんてだいたいそんなものだが、あんな息の詰まる場所にいては仕事もはかどらないというものだ。
ただの思いつきだったが、外に出てみてよかった。
向かったのは、都心にあるおおきな書店。
翻訳されていない学術書や小説といったら、そこらの書店に置いてあるわけがないから、電車でわざわざ30分、都心まで出向かなければいけない。
しかし、それが苦だと感じないほど、この書店には本が揃っている。
東京に出てきてよかったと一番思うのはこの瞬間かもしれない。
海外文庫コーナーにたどり着き、片っ端から読み漁った。
ふと気づくと、5時になっていた。
身体がびくりと反応した。業務時間だ。いそいで帰らなきゃ。
そう考え、すぐに思い直した。今日は休みだった。
ほっとため息をつき、同時に苦笑いをした。
身体が慣れてきてるなぁ。
そして、4時間もぶっ通しで小説を読みふけっていた自分にもあきれかえる。
さすがに足が疲れてきた。
気に入った3冊を買って帰ることにした。
9月の5時は、まだ夕方にもなっていない。
行きか帰りかもわからない人の群れが白線上で交差する。
人混みは苦手だ。
本を買ったときの高揚は一気に鎮まり、逃げるようにして研究所へ帰った。
部屋のドアを閉め、ほっとため息がこぼれる。
普段から住んでいるとはいえ、まさか職場である研究室にこれほど安堵感を覚えるようになるとは。
ここに所属した当初は思いもしなかった。
ベッドに倒れこみ、しばらくして気づいた。
今日は一度も彼女に会っていない。
そういえば、彼女がやってきてから毎日顔を合わせていたのだ。
『日曜日はアンドロイドに触れるな。実験室にも入るな』という所長からの命令。
言いつけを破るなんてことはこどものときからしていた。
悪ガキだったし、いまも悪ガキだ。
こそこそとあたりを見回しながら、特別実験室に侵入する。
中に入っていそいで鍵を閉める。
アンドロイドはいつものように、カプセルの中で眠っていた。
コンピューターを起動し、【start-up】パネルを押した。
【start-up】とカプセルが鳴り、アンドロイドが目を覚ました。
「おはよう」
彼女はキョロキョロとあたりを見回した。
「もう月曜日ですか」
「まだ日曜だよ。ごめんね、起こして」
「緊急事態ですか」
彼女はそういって起き上がろうとした。
「あぁ、いや。ほんとになんにもないよ。ただ起動しただけっていうか……」
ますます不可解そうに首を傾げる。
そういえば、私もなぜ彼女を起動したのかわからない。
そもそもなぜこの部屋に来たのだろう。
なぜ彼女に会おうとしたのだろう。
私の言葉を待っているかのように、アンドロイドは私の目をじっと見据えた。
「クレアって名前、どう思う?」
沈黙を経てこぼれた言葉。
「よくわかりません」
……うん。
私も自分の質問の意味がよくわからない。