9月10日 ただいまです
アンドロイドの意識体系を覗き、自分に課せられた仕事の無茶度合いが判明したあの日から一週間が経った。
あの日はさすがに理解が追いつかず、パニックになっていたようだ。
冷静に見据えれば、あんな奇怪な文字列にだって、法則がないなんてことはあるわけない。
無秩序に見えるだけで実はきわめて計算されているというのは、私たちの住む宇宙にだっていえることだ。
「人間の脳は11次元である」という定説がある。
2次元が3次元に干渉できないように、3次元が4次元に干渉できないように、3次元住民にすぎない私たちは自分の意識に対して干渉できない。
しかし、私という3次元の存在が、彼女の意識には干渉できる。
これはつまり、彼女の意識とはあくまで意識らしいものでしかなく、人間の手に負える程度のものだということだ。
そもそも、これを作り出したのも、同じ人間なのだ。
恐れることは何もない。
あの世界、彼女の疑似意識世界では、アルファベットと数字があり得ない形で絡みついている。
それだけならまだしも、文字そのものがとめどなく変化していくのだ。
aと6が結びついていたり、FとFが融合してひとつの文字になっていたり、7が融けて8に変化したりしている。
こんなでたらめな話があるかと毒づきながらもしがみついた。
この一週間、メンテナンス業務時間以外のほぼすべての時間を、彼女の独自言語の翻訳作業にあてた。
解読できた法則は逐一自分のPCにストックする。
PC内蔵のAIにもフルに働いてもらい、自力では気づかなかった法則を発見した。
自分で文章を作ってみるなんていう非常に勉強くさい作業もした。
その甲斐あって、いまや彼女の意識コードの大半は解読できるようになった。
簡素なものだが、自分のPCでトランスレートプログラムも開発した。
研究所のコンピューターを繋げば、半自動的に日本語に翻訳してくれる。
ゆくゆくはコードそのものを直接理解できるのが望ましいが、しばらくはこれで満足することにしている。
これは、いち技術者としての意地の勝利。
いち研究員としてのプライドの勝利。
解析の間、無数の文字列の宇宙の向こうに、彼女の意識体系を作り上げた顔も知らない天才の顔がずっと透けて見えていた。
己の頭脳に挑戦しようとする画面の前の愚か者を嘲笑っているように思えた。
ひさびさに魂が震える瞬間だった。
元同級生、いまは同じ研究所員であるルエとは学生時代によく数学科学の問題を解き合う対決をしていたが、そのとき以来の興奮。
科学の星の下に生まれたきたものの性というものだ。
これは、いち科学者としての情熱の勝利。
天才科学者だかなんだか知らないが、余裕のしたり顔に唾でも吐いてやる。
ざまあみろ。
食堂にいくと、意味不明な会話が聞こえてきた。
『やめるのだ佐助殿。そんなところを……』
『雷蔵殿、これは文化の融合である。日本文化のネクストステージじゃ』
『くおぉ、クナイとはこれほどまでに……』
食堂全体に響き渡るほどの大音量。食事をとっている所員は居心地悪そうに顔をしかめていた。
音のする方に向かうと、研究員のイシオが座る席へたどり着いた。
スマホからイヤホンが抜けていて音漏れしているようだ。
「なに観てるの」
イシオの向かいの席に座りつつ訊ねた。
報酬をくれなんていわないから、誰か私のこの義勇を賞賛してほしい。
「これはアナザーニホンフュージョンっていうアニメで……」
彼はそこまで答えてはっと気づき、慌ててイヤホンジャックを差し込んだ。
顔を完熟トマトの色にして、机にめりこむほど塞ぎこんでしまった。
「死にたい」
「大丈夫だよ、気にする人なんていないから……」
「死にたい」
これほどフォローのしようがない事態は生まれてはじめてだ。
話題を変えようとして、ふとあのことを思い出す。
「ねぇ。あの子に何か変な単語吹き込んでない?」
変な単語とはもちろん、とうきょうスカイれんこんを指す。
「あの子?」
涙目になりながら彼はゆっくりと顔を上げた。
「アンドロイドのこと。一週間前くらいに」
「……記憶にないな」
めがねをくいと押し上げながら彼はいった。
奥歯に物が挟まったようなはっきりとしない物言いだった。
これ以上の追求は無駄だと悟り、この場は引き下がることにした。
「そう。ありがと」
「こっちが質問に答えたから、こっちからもひとつ質問させてくれ」
立ち上がろうとした私を引き留めるように彼はいった。
わざわざそんな言い方をしなくてもいいだろうに。
「なに?」
「中庭に生えてる植物。赤い実のあれ、なんでこんなところに生えてるんだ」
「植物?」
恥ずかしながら、植物については知識も興味もまるでない。
中庭に何が生えてるとか以前に、そもそもこの研究所に中庭があること自体いま思い出したほどだ。
研究所に入ってから一度も訪れていない。
「ごめん、わかんないや。何が生えてるの?」
訊ねると、イシオはすこし言い淀みつつ答えた。
「いや、知らない方がいい。この研究所は、知らない方がいいような事情ばっかりだったな」
「あなたの趣味とかね」
机と同化するのではないかというくらい塞ぎこんでしまったイシオを置いて、昼食を取りにカウンターへ向かった。
知らない方がいいといわれると、知りたくなるのが人間というものだ。
昼食を終えると中庭に直行した。
20m²ほどの敷地に、見渡す限り植物が生い茂っている。
赤に青に紫、ぱっと見た限りでも二十を超える種類があるようだ。
目を引かれたのは、1cmにも満たない小さな深紅の実をつけた、背丈の低い植物だった。
イシオのいっていたものだろう。
しゃがみこみ、そっと実に触れてみた。
道ばたにあってもおかしくなさそうなほど普通の見た目だが、この植物が生えていることが不思議なのだろうか。
「そいつに触るな」
後方から、空気を切り裂く鋭い声がした。
心臓がおおきく跳ねた。
「リュウさん」
振り向くと、『動植物』係のリュウがそこにいた。
名称通り、研究所で扱う実験動物、植物の世話をする係だ。
肩書きは私と同じ平研究員だが、見るだけで人を萎縮させるほどの鋭い眼光やただ者ではないオーラのためか、メンバーからは副チームリーダーというような扱いを受けている。
「すみません。不思議な実だなと思って」
「ここでは自分の業務以外のことに干渉するな」
ぴしゃりと言い放つ。
「……すみません」
いいわけの余地もなく、素直に謝る。
リュウはこまったように頭を掻くと、ぽつりとつぶやいた。
「どうしても知りたいなら、この植物についてだけは教えてやる」
「え?」
「それだけは教えてやるから、それ以上は詮索しようとするな。どうなんだ、知りたくないのか」
イシオの忠告が頭をよぎる。
この研究所では、無駄な危険に巻き込まれないために知らない方がいいことがある。
それは同意見だ。
しかし、同時にまったく真逆のことをいうこともできる。
重要な情報を知らないと、何かの面において不利になる可能性があるということだ。
出し抜かれる可能性。
知らずに利用される可能性……。
「知りたいです」
いや、この場合は、たんなる興味本位だろうか。
「こいつはトウアズキ。東南アジア原産の多年草植物だ。日本では西表島で見ることはできるが、本来ならこんな都会の一角でお目にかかれるものじゃない。ま、ここにある植物はそんなものばかりだがな」
「たしかに、見たことのない植物ばっかりです」
すこしの間を挟み、彼はすこし声を落とした。
「こいつの特徴はなんといってもその毒性。一粒食べただけで大人がコロッと逝っちまうほどの猛毒だ。だから触るなといった」
ふと、背筋に悪寒が走った。
「……なぜ、そんなものがここに?」
リュウは、ただでさえ鋭い目をさらに細め、威嚇する蛇のように私を睨みつけた。
「いっただろう。これ以上は答えない」
まさしく蛙、身体がまったく動かなくなる瞬間を、私は人生ではじめて体験した。
「他人に関わらないこと、これが研究所の不文律。そうだろう」
そう言い残し、リュウは立ち去った。
私はそれを見送り、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
ここでは必要以上に他人に関わってはいけない。
自分の業務にのみ集中しなければいけない。
最初からわかっていたことじゃないか。
慣れというのはどうにも怖い。
油断というか、この研究所の異様さをすっかり忘れていた。
ここは社会じゃない。
ここはほとんど監獄だ。
自分の仕事に集中しろ。
考えるな。考えるな。考えるな。
五時。特別実験室でいつものようにアンドロイドの到着を待っていた。
扉が開いて、私はおもわず目を見開いた。
部屋に入ってきたアンドロイドが、自分の足で立っていたのだ。
この研究所にやってきて一週間、一日活動すると筋力を使い果たし毎回ストレッチャーに運ばれてきていた彼女が、自分の足で帰ってきたのだ。
ふらつきながらも、か弱い足で大地を踏みしめていたのだ。
短いようで長い一週間だった。
彼女はしっかり成長している。
「どうしたのですか?」
彼女は無表情のままわずかに首を傾げた。
「なにが?」
「笑ってました」
指摘されてはじめて、自分の頬が緩んでいたことに気づく。
「なんでもないよ」
恥ずかしくなり、慌てて彼女に背を向けた。
このような簡単なやりとりができるようになったのは三日前のことで、日に日に自然な会話になっている。
いつか、彼女の理解力を赤ん坊の吸収力並と表現したが、大幅に上回っているようだ。
「ただいまです」
このあいさつをするようになったのも三日前から。
彼女の方はあいかわらずの無表情だが。
「おかえり」
よく考えてみれば、研究所に来てからまったく、この言葉を使っていなかった。
ただのあいさつでこんなに心が安まるものかと、自分の単純さに呆れたのも三日前から。