10月2日-3 夢見がちのバカなガキ
『re:unknown』。
この小説を手にするのはひさしぶりだった。
すくなくとも、クレアが記憶をなくしてからは一切読んでいない。
銀河が描かれたハードカバーは、売ったとして一円にもならないくらいボロボロになっている。
中古で買ったものだからそもそもが古かった。いまは絶版になっている。
なぜいまこのタイミングで手に取ったのか、それに何の意味があるのか、自分でもわからなかった。
答えが書かれているわけでもないのに、縋ろうとしているのだろうか。
日本で発刊されなかったうえ発売元のアメリカでさえ絶版になった本と出会ってしまったという不思議な縁に、自分と彼女を投影しているのだろうか。
科学者のアレクにアンドロイドのクレア、辛く悲しい物語を、手を取り合って生きる二人に憧れているのだろうか。
科学者が非科学的なものを信じてはいけない、なんて決まっているわけはない。
人類の手に負えない夢を子供のように追いかける科学者なんて山のようにいるはずだ。
すくなくとも私は、夢見がちなガキに違いない。
アレクもそうだ。
私が彼という存在に幼い頃から惹かれていたのは、重なる部分を見出していたから。
読者の多くがおののいたであろう主人公の狂気を、私は特殊なこととは思わない。
持っていた愛情を渡す相手が人間ではなくそばにいたアンドロイドだったことは、周囲にとっての結果的な悲劇であり、主人公にとっては何も特別ではなかった。
愛情の行き先に隔たりがないのは、無垢な子供の力なのだ。
大人が忘れてしまったことを、忘れられない子供は生涯夢に見る。
冷徹で打算的な人間にだって、夢を見せる……。
本を閉じた。
すぐに開き、また閉じた。
それを無意味にくり返しながら、暗記してしまった文章を何の気なしに眺める。
ベッドに沈み、ぼんやりと天井を眺める。
清潔に白い天井。
その瞬間は前触れなく訪れた。
ちらりと強い熱が、脳を迸った。
「あっ」
まったくの無意識に体が跳ね上がる。
コンピューターの元へ駆け、慌てて電源を入れた。
起動時間がもどかしく手が震えている。
熱は胸へと直下し、心臓を乱暴に叩く。
アドレナリンが溢れ出て、電撃が神経を通過する。
頭は置いてけぼりをくらい、指先がキーボードの上を踊る。
まるで目が追いつかない打鍵は、自分のものではない、遠いどこかの世界の出来事のようだった。
「まってて、まってて、クレア」
かろうじて機能する理性は、肉体の行動を呆れたように眺めている。
『ああ、新妻カレン、どうしてそんなバカなことを思いついたの』
さあね。でもひらめきってそういうもんでしょ? なんのヒントもなく突然舞い降りてくる。
『ひらめきねぇ。私には、何も知らないガキの思いつきにしか見えないけど』
残念ながら、その違いが私にはわからないね。
『クレアの人工意識空間は、その開発者だけが支配し掌握している領域。いわば開発者の意地と矜持を孕んでいる。これを飲み込んでしまうってことは、その人物に刃向かうってこと』
ダイブでの障害は、クレアの意識に仕掛けられたブロッカーコード。
対抗策を持たない私は何度やってもブロッカーの攻撃を受けてしまう。
前回、記憶を一時的になくしただけで済んだことは九死に一生だったかもしれない。
ブロッカーに阻まれないためには、根本から変える必要がある。
ダイブは対象者の意識に潜りこむ方法、これを変える。
意識に潜りこまなければいい。
つまり、
対象の意識を、
自分の支配下に置けばいい。
『コードを編成し自分だけの宇宙を作ることで、クレアの意識をそこに引きずり込む。いや、クレアの意識をまるごとそのまま自分の宇宙で包み込む。そうすることで、彼女の意識を傷つけることなく支配下に置くことができる』
そうやって説明されると、なんか難しく聞こえるね。
『難しいなんてもんじゃない。自分の宇宙を作るってことはつまり、自分の意識をすべてコードに変換するってこと。クレアでさえ人間のものに近い人工意識。それを包括するのなら、簡素化しないほぼ人間の意識と同じものを再現するしかない。できるわけないでしょう』
理性は臆病だ。だから失敗しない。
そして、奇跡も起こせない。
『新妻カレン。あなたのことはずっとバカだと思ってきたけど、ここまで手に負えないバカだと思ったのは初めてだよ』
そう。なら認識を改めなくちゃね。
「私って人間は、いつまでも夢見がちのバカなガキなんだよ」
ただ、愛の行く手がなかっただけの。
『re:unknown』のラストシーン、傍らに座るアンドロイドに、老いたアレクがこんな言葉を口にする。
「愛が世界を凌駕した」。
恥ずかしいから、私は口には出さないけど。
『何年かかるかな』
「3日で終わらせるよ」
答えながら鼻で笑った。




