10月1日-3 まって
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
クレアはそういって、手で顔を覆ったまま泣き止まない。
彼女の肩が大きく上下する度、私の胸は強く締め付けられる。
だがしかし、少女の涙の意味は、私の元へまだ届いていない。
「ね、クレア。あの、私、思い出せないの。なんでこんなところにいるのかとか……」
私がどんな人間だったのかとか。
あなたが何者なのかとか……。
クレアは胸を押さえ、荒っぽい呼吸を懸命に整える。
彼女の一挙手一投足が我が子のように愛おしい。
大きな暗闇の中で孤独が募り、いますぐに抱きしめたい。私のために。
彼女はやがて、ぽつぽつと語り出した。
「ここは私の意識世界。本来誰も入ることの叶わない場所。開発者、研究所の人間によって、私の意識を守るためのブロッカーが設けられました。権限を持たない侵入者を排除しようというプログラムです。カレンの記憶がないことも、ブロッカーによる攻撃のためです」
状況が芳しくないことを理解しながら、彼女の声が聞こえるだけで救われるような思いだ。
「それなら、クレアのせいじゃない。私がこうして生きてるってことは、そのプログラムはクレアが止めてくれたんだよね」
クレアは答えなかった。
私は構わず、手のひらを差し出した。
「いっしょに行こう。思い出せないけどわかるの。私はあなたを助けなきゃいけない。あなたを助けるために私はここにいる。ここから連れ出して、行くべき場所がある」
クレアは目をつむり、やわらかくほほえんだ。
「……本当に優しい。でも、だからこそ、私に近づいてほしくないんです。何も教えることはできません。どうか元の世界に戻って、私の存在を葬ってください」
「……どういうこと?」
葬る? クレアを?
不穏な単語は嫌な重さを伴って、私の心に沈んだ。
「何の説明もできなくてごめんなさい。でも、あなたは何も知らないことが最善なんです」
何も知らないこと。何にも関わらないこと。
そうだ。思い出せないが知っている、何かとても大事な原則。
私が遵守すべき規則。
だが、そんなもの怖くない。
私が一番怖いのは、彼女を失ってしまうことだ。
「クレア……私が悪いなら謝るよ。もしあなたが悪いとしても、あなたを責めたりしない……だから、ちゃんと話そう」
一歩近づいた私から遠ざかるように、クレアは一歩後ろに引いた。
「でも、どれだけ優しいあなたでも、絶対に許してくれない」
「そんなことない、私は……」
私は最後まで言い切ることができなかった。
彼女の、泣き腫らして真っ赤な瞳が、見たことのない鋭さでこちらを睨みつけていたから。
差し伸べられる女神の手さえ拒むような、決意の眼差し。
小さな拳は震えていた。
感情を抑えるように、何かに耐えるように。
「文字の鎖であなたの存在を消そうとしたのが、私の意思だったとしたら……」
……え?
「あなたの知らない私になることが、私の……」
ぎりぎりで向き合っていた瞳が離れる。
彼女の影が音もなく遠ざかる。
冷たく固い床の上を、私は走り出した。
「まって……まって!」
走れども走れども暗闇。
景色も温度も変わらない。
体の疲弊も奇妙なほどにまるでない。
遠ざかり薄くなる少女の姿に縋るように、無我夢中で走る。
足裏へ伝わる不確かな感触に、自分の存在が溶けそうな錯覚に陥りながら。
程なくして、彼女の影は一切、闇に溶けた。
倒れそうな私の足下から、文字の鎖がゆっくりと生えてきた。
相変わらず崩壊している文意。
虚無を思わせる白。
この鎖を操るのが、プログラムを仕掛けた者でなく、クレア自身の意思?
クレアが私を、消そうとしている?
鎖はたちまち私の首へ到達した。
先ほどよりも強く結ばれる。
先ほどはかろうじてできていた呼吸も、今度はまるで余地がなかった。
文字にできない感情……?
その思考に達した直後、私の意識はぷっつりと絶えた。




